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東日本大震災から半年

これは私が震災直後に書いたブログです。
 
 
・・・
陸前高田から避難してきました。
私は陸前高田で教師をしています。
あのときの記憶がうすれないうちに、書き留めておこうと思います。
あの地震の日、全校で卒業式練習をしていました。
大きな揺れ、私たち教師はドアをあけに走りました。
しかしあまりの揺れにみんなまっすぐには走れませんでした。
体育館の壁が崩れ始め、『外に避難しろー』の声が!
外に逃げる最中も、壁や屋根の木片がどんどんおちてきました。
なんとか全員が無事に外へ出ることができました。
私たちの学校は海のすぐとなりにあります。堤防だけが便りです。
こんな海のまん前の学校ですから
地震の後の津波に注意しなければなりません。
まだ揺れています。第一避難所まで非難しました。
最初に聞こえてきたのは、3mの大津波警報。
正直ほっとしました。毎回避難しているときと同じだからです。
子供たちにも少し笑顔が戻りました。
しかし・・・・
気仙川の底が見え、高田松原の砂浜が何メートルにもひろがるほど、
潮が引いていることに、私たちは気づきました!
これはまずい!
私たちは急遽山を登りました。
逃げた山のそこから見えたのものは、我々が見たことのない
海の驚異的な力でした。
堤防を軽々と越え、高田松原の松の木を
次々となぎ倒して市内に入っていく津波
町の電柱や看板もどんどん倒れていきます。
ここも危ないのでは?
我々はさらに上へと登っていきました。
そこから見えた高田の町は・・・
いえ、もう町とは言える場所ではありませんでした。
町があった場所に海ができ、
たくさんの車や家が流されています。
そのなかには人の姿も・・
私のアパートどころか、町全体が、学校が・・・
すべて飲み込まれてしまいました。
信じられない光景でした。
地域の方が、この山の先に
公民館があると教えてくださいました。
道とはいえない道を全校で歩き、
その公民館へたどり着きました。
近所の人たちがおにぎりとそばを作ってくれました。
冷え切った体には最高のご馳走でした。
2人で1枚の毛布を使い、
20時ころからストーブを付け、
24時にはストーブを消し、
震えながら体をくっつけながら寝ました。
もちろん寝付けるわけもなく、
ただただ、今日あった出来事が
夢であってほしいとだけ祈り、
震えていました。
 
 
・・・・
今日で半年・・・
東日本大震災から。
 
・・・・・
運がよく、3月14日には
実家に帰ってこれた私。
そして、インフルエンザになり
その時間を使い、
学校には戻れず
何かできることはないか・・・
そう考えて
このブログを始めました。
 
私はインフルエンザになり
病院へ行くと、
先生が驚いていました。
陸前高田から来たの?
向こうの様子は?
インフルエンザはあなただけ?
食べ物は?
この会話の内容を
この先生はすぐに岩手県の医師会へ
報告してくださいました。
そして県庁にも伝わりました。
 
高田市と結ぶ
橋が2つとも壊れてしまい、
周りとの接点がまったくなくなった
陸前高田の気仙町。
周囲からの孤立
気仙沼経由も不可能
そんな中、この先生のおかげで
ヘリコプターやら自衛隊やら
衛星電話やら
一気に気仙町へ
あの先生がいなければ
もっとインフルエンザは
ひろまったからもしれない・・・
物資は届かなかったかもしれない。
 
私は子供たちが苦しんでいるのにもかかわらず
感染を防ぐため、家で寝ているだけ。
葛藤の日々でした。
しかし、免許の再交付や携帯電話の再契約
すぐに高田へ戻れるよう
準備をしていました。
携帯を復活させたとたん、
メールがなりつづけました。
11日のあの時間から
ずっと安否確認のメール
家族、友人、教え子たち・・・
そしてみんながラジオやテレビ局へ
働きかけてくれました。
私の名前が何度も何度も・・・
急いでみんなに返信しました。
「俺は生きています!」・・・と。
「生きています。お願いがあります。
私の住んでいた町が家が
すべてなくなりました。
どうかみんなで働きかけて
陸前高田を助けてください!」と・・・・
 
このとき、避難したまま、
他の情報を得られず
岩手以外も被害を受けているとは
知らなかったので・・・
福島、宮城、関東まで被害があったなんて
このときは思ってもみませんでした。
 
寝て起きたら、実は夢でした!
・・・なんて何度祈ったことでしょう。
このとき、
体調不良で学校を休んでいた生徒の
安否もわからず、本当に祈るのみでした。
 
もし・・・
もしなんて言葉は使いたくありませんが、
それでも、
もし、あの震災が夜だったら・・・
どうなっていたでしょう。
被害は今の何倍にもなるでしょう。
私もきっとそのうちの一人。
ここまで来ないだろう。
2階だから大丈夫!
いつもの避難場所に行けば大丈夫!
そんな感じだったかもしれません。
私の地域の避難場所は
何百人も逃げ、たった3人しか助からなかった
市民体育館でした・・・
いつも、防災の日の訓練では
体育館に行ってましたから・・・
海の真ん前にある
中学校は一番危険ですが、
津波の音、
そしておし寄せてくる波
高田松原をなぎ倒す様子を
見たからこそ
誰よりも早く非難できたのだと思います。
アパートにいたら
何も見えないままだったことでしょう。
 
あれから半年、
全国の方々から
助けていただいて
今、こうして普通に近い
生活を送れるようになってきています。
 
でも、それでもまだ
心がもやもやしています。
震災のテレビを見ると
頭痛がします。
いまだに、失った物に
未練があります。
高校卒業後から今までの思い出
すべてが流され、
1つも残りませんでした。
 
それでも、乗り越えなければなりません。
復旧ではなく復興を目指して。
 
私も内陸の人間ですが、
陸前高田に
5年も住んできました。
あの素敵な町並み
もう一度みなさんに見てもらいたい
 
今、私が受け持っているクラスの子供たちが
20歳になったとき、
きっとすばらしい復興をとげていることだと思います。
わたしは、その子供たちを
立派に、優しく、強く
感謝を忘れない、
町を愛する人間にする義務があります。
 
また、明日から学校が始まります。
 
・・・長くなりました。すみません。
 

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