ハワイぐらし〜。

数年ぶりの復活です。肝移植、さまざまな後遺症について語りましょう!

肝移植

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肝移植〜第4章〜。

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時が経つとはほんとうれしくもあり、また反省することが沢山あると自分に問う。
息子〜もうすぐ5歳の誕生日を迎える。
5歳。先日、先日遺伝子の専門ナースに、病院で働く旦那が会ったらしい。
彼女は、息子の話を聞いて、改めて、患者に勇気を渡せることを語ってくれたという〜。
そして、また新聞社にあのときの子が5歳を向かえ、元気にキンダーガーデンにいく〜
という記事を出してもらおうといったという。
そう、それほど彼は大変なことを乗り越えてきたんだ。
改めて〜忘れかけていたものが、また頭の中をよぎる。
肝移植関係の方〜〜UPがとても遅くなってごめんなさい。
また少しお力になれるのであれば〜記事の続きを書かせていただきますね。

一般病棟に入り、変わったことは、息子のそばで毎日眠れること〜。
でもそれは逆に、現実を目の当たりにする毎日でもあった。
何でも見える聞こえる〜〜。もちろん息子のことも、周りのことも。
その部屋は日本で言えば、15畳くらいの部屋。トイレもシャワーもあり、テレビビデオ、付き添いのベット。8ヶ月の息子にはとても広すぎる部屋。
息子はほとんど眠っていた。起きるときは、幻覚症状〜のとき。
赤ん坊の幻覚症状は、聞いたこともないなき方をする。
抱きしめても、何しても泣き止まない。
でも経過は順調で、毎日おなかのチューブが一本ずつ取れていく。
でも、口から一切受け付けようとしない。ティースプーンいっぱいのりんごジュースがやっと。
仕方がないので、発病したころと同じに、鼻にチューブをいれ、24時間ミルクをいの中に入れる。
このまままた飲めないのか・・・毎日、セラピーの人が一生懸命に飲むことを思い出させようとしてくれてた。この子は、やっと、新しい肝臓をもらえて、何でも食べれるようになったのに、食べることも忘れてしまったのか?以前不安は残るが、肝臓自体は経過がいいので、退院を勧められる。
2月5日、移植から一ヵ月半、やっと3人で病院を後にすることができた。
一般病棟に移り、意識はあるものの、まったく笑わず表情のなかった、息子が、
病院の自動ドアーを出て外の冷たい空気を吸った瞬間、息子は
うなだれてたその背筋をピンと伸ばし、笑った。
涙が出た。
この瞬間、恐ろしいOTCという病気が終わったんだ、生き返ったんだと、実感。
旦那と3人、抱きしめあった。
でも息子は、飲もうとせず、チューブに頼るしかなかった。24時間またチューブと、
ミルクの戦い〜。また、マクドナルドハウスでの生活が始まった。
週に3回血液検査に通い、検診を続け、自宅に帰れる許可を待つ。
しかし、初の血液検査の日私は、明け方呼吸ができなくなり、ERに運ばれる。
ストレスと退院の安堵から、喘息発作が出たのだ。
神様〜ほんと意地わるですね〜。私は一泊入院。しかし、息子のこと思うと寝てられなかった。
DRにおねがいをして、夜中に退院させてもらい、一人でタクシーで帰る。
は〜〜ごめん、息子よ〜〜旦那よ〜〜。

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息子は秋休み〜〜。
今日はお昼に〜マックへ行ってきました。
そうレジの所にある、募金箱〜。
よくみると、今は、ハリケーンカトリーナへの献金に
マクドナルドハウス募金が、赤十字を通じて行っているようです。
なんか感心しました。
困っている人に順序は付けられないのに、
今はハリケーンの献金になってるいるなんて〜。

実はブログでいつもおいしいランチなどを教えてくれている、
ハワイ好きのHONUHONUさんが、
日本の募金箱を写真にとってくれました。
私もぜひハワイ版をと思い〜今日とって来ました。
ふとかいたことが、たくさんの人に共感を与え、
日本とハワイで広がっていること、これからも広がること
を願って〜〜。

少しでも、自分にできる範囲で、協力ができたら〜〜と心得るようになったのは
息子が病気になってからです。
今は日本アメリカの使用済み切手も集めています。
皆さんはどんなことしていますか??
(なんか興味があります!!)

HONUHONUさん、そして共感してくれた皆さんありがとう!

肝移植〜第三章〜。

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昨日郵便が来た。
マクドナルドハウスからだ〜。
今年もテニスやゴルフトーナメントチャリティーを行い収益金がたくさん集まった。
という報告〜。
そして写真には、姉妹でプレイしている、皆さんもご存知の
ベニス ウィリアムスが訪問してきたということ。
私たちが滞在していた時も、フットボールプレイヤー、そして本物の
ドナルド〜〜(日本ではロナルドですね〜)も!!きました!
本物はやっぱり違います。 

さて移植その後ですが〜〜病院に行ってから、私はむすこをみながら、
急に戸惑いました。こんなに元気に見えるのに、なぜ〜小さな体にメスを入れるのか〜。
複雑な思いがよぎりました。でも成功すれば、普通に暮らせる。
期限付きの余命にさよならできる。
翌日朝6時、息子は手術室へ〜。
私が抱いて入り口まで行き、そこからは息子を引き渡しました。
私たちは不安もありましたが、これで生き返る〜という思いが強く
日本にいる家族に報告の電話をし、マクドナルドハウスに戻り、
眠りにつきました。
報告を受けてから一睡もしてなかったのです。
普通なら、手術室の前で待つのでしょうか???
約8時間といわれました。終わったらハウスの方に電話するからと〜。
私たちは、初めてこの日息子が生まれてから、ゆっくり眠りについたのです。
そう、この7ヶ月間熟睡などしたことありませんでした。
もうすべてが終わり解決したかのように〜。
予定の時間になってもまったく電話はありません。
また不安がよぎり〜眠ってしまったことに反省していました。
そしてやっと電話がかかり成功の知らせが・・・私たちは病院へ向かいました。
でも数時間たっても安定してないので会えないと・・・また不安がよぎります。
先生がやってきました。
今回の手術は成功だが、余りにも生命の危険があったので、同じ大きさの肝臓をもつ
ドナーを待たず、少し大きい子の肝臓をカットして、移植したとのこと。
そして、もう一つ、息子の血液型はO型、ドナーはA型とのこと・・・
赤ちゃんのO型にはほかの血液型のドナーも対応できるとの事・・・
ただ、安定するまで危険は伴うと・・・このときも肝臓の動きがよくないので
様子によっては再手術も考えてるとのこと・・・。

私たちは、ドナーが見つかった時点で、すべて解決し、すぐに元気になると思っていた。
まさか、こんなことがあるなんて予測もしてなかった。
説明では、拒絶反応のことは学んだが、こんな事態になるとは予測してなかたっだけに
また天と地がさかさまになった。
偶然、ICUの横は、病院の教会で・・・思わず中に入り、私たちは祈った・・・・。

実は息子は手術する10日前に発作を起こしていた。
いつもに比べればたいしたことがなかったが、高熱が出たので、ERへ連れて行った。
それがきっかけで、DRたちはどんなドナーであろうと、息子の手術を優先させたと
あとで聞いた。そう余命が短すぎる・・・時間が無かったからだ。
7万人もドナーを待っている人中で息子は、わずか一ヶ月と7日で、ドナーを見つけてもらえた。
これはあのときにはわからなかったが、今考えると凄いことだ。
そう、息子は日本人だけど、アメリカで生まれたから、リストのトップに立てたことも事実。
よくこどもは親を選んで生まれてくると聞く・・・。
息子は〜神様は〜やはり、私たちを選んだのかもしれない〜。

朝の6時に始まって、息子に会えたのは夜の10時でした。
チューブだらけのその体は、複雑な思いでいっぱいでした。
ただ、早く声が聞きたい〜早く笑顔がみたい〜それが一番〜。
峠は越えたので、クリスマスにはチューブが外れるでしょう。
いいクリスマスプレゼントですね〜と。
私は横で千羽鶴を折りながら、祈っていた。
そして、クリスマスの朝、ハウスのドアの前には大きなゴミ袋ほどの
大きさのかわいい袋が置かれていた。
息子へのプレゼントだ。
中身はたくさんのおもちゃ、すべてにラッピングしてあり、息子の名前が書かれている。
数にすると、20個ほどのプレゼント。
そのおもちゃは今でも使ってるものもあり、
使わなくなっても思い入れが大きい・・・。
私が子供のように喜んでるのもつかの間・・・・病院から電話。
今日チューブをはずすといっていたその連絡か・・・。
なんと再手術をするので時間が無いので、電話で了承して欲しいと・・・。
また気持ちが逆転・・・。
中で感染を起こしてるので、すべて開けなおして、洗浄すると・・・。
もちろん、チューブははずれない。
手術が終わった息子の所へ、サンタがきてくれた。
そうその写真が唯一のICUでの写真。
メリ〜〜クリスマス!!
息子の声をもう3日も聞いてない〜。大丈夫よ〜とナースには言うが、
一緒の日に手術を受けた子は一般病棟へうつった。
息子はあとからあとから来る、肝移植患者よりもながくICUにいること2週間。
この間再手術3回受け、やっと一般病棟へいけた。
DRは本音を言った。よくここまでがんばったと・・・。
3回の再手術を受けたあいだ、呼吸器チューブを何度もはずしたりつけたりしていた。
一度、チューブが入りすぎて、右肺がつぶれてしまったのだ。
そう、これは確かに医療ミス、でも命が助かるとミスも怒りにはならない。
そのあとも、息子は肺のトリートメントが始まった。
今旦那がやっている仕事だ・・・。
この経験が旦那の気持ちを振るわせた。

そして一般病棟はICUと違って,私たちが看病できる。私は鶴を折ることしかできなかったので
本当に嬉しかった。幻覚症状や、傷口の痛みのこと何もしらず、ただ一緒に
眠ることが嬉しかった。
サンフランシスコはこのとき、25年ぶりの寒波で、雪を見せてくれた。
そう、マクドナルドハウスに来たとき、入り口の桜の木が紅葉だったのに
久しぶりにハウスに戻ると、枯れ木になっていた。

昨日来た郵便のレターには必ず書いてあることがある・・・
These children will live in our hesrts forever ・・・・
わたしたしたちの心の中でずっと、このこどもたちは生きているでしょう〜。
と、その下には、天国に旅立った子達の名前がかいてある。
死を隠さない、その生きた証をみんなで、分かり合う。
まさかこの中に、一緒にハウスで過ごしたたった一人の日本人の
戦友の名前が刻まれるなんて思いもしなかった。

一般病棟に戻っても、息子は笑いも声も出さない・・・。
大丈夫か???そう呼吸器は外れてるけど、チューブだらけ・・・
もちろん口から哺乳瓶も加えてくれない・・・。
もう2週間、口からのんでないのだ・・・。
また戦いが始まった。続く〜

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今日でブログをはじめて一ヶ月です。
たくさんの皆さんがきてくれて嬉しいです。
そしていつもきてくださる方とは何故か不思議な縁を感じます。
改めて皆さんありがとう。
何度も書いているんですけど、息子は大病をし、肝移植をして助かりました。
その記録は、以前本を出版しようという計画もありました。
ま〜書いたものはいまだ眠っていますが・・・。
私はとにかく書き残したかったのです。
しかし機械音痴な私ですから、ホームページはとても高いハードルでした。
そしてふと、ブログを開設してみたのです。
今日は肝移植の第二章を少し書いて見たいと思います。

昨日コスコニ買い物にいくと、ハローウィンの大きな飾りが売られていました。
そうもうこちらはハローウィンの季節の準備です。
私はかぼちゃの飾りを見るたびに、息子の肝移植が決まった日を思い出します。
そう、10月31日でした。
生後4日で見つかったOTCは、もう治ることなく、その余命も一年、肝移植も脳の
大きな影により、手術をしてもらえない状況でした。
よく神にもすがるといいますが〜私はあらゆることをしようと思いました。
脳の刺激・・・実家の母からえほん、童謡のCDをまず送ってもらいました。
私は生後1か月の子に添い寝で読みきかせをしていたのです。
あの時は何を言われようと無我夢中でした。
今思えば初めての絵本は、”うずらちゃんのかくれんぼ”
あとから、天皇家の愛子様が読んでいたと報道されていました。
ま〜偶然なんですけど・・・。びっくりしました。
二時間おきの授乳にはCDをかけ、体操、歌・・・本当に何でもしました。
毎月の検診で、DRは驚いていました。
息子の発育が正常だったからです。
よくある育児本のとうり月齢ごとのスキルはマスターしていました。
そして、10月息子5ヶ月・・・私たちを担当してくれている
遺伝子の専門家は息子をサンフランシスコ近郊にある、スタンフォード大学の
肝移植チームに打診してくれました。
彼らは、こどもの肝移植ができないハワイに年に二度きて、
移植が必要とする人たちや、移植をした人たちの検診をしているのです。
2001年の10月31日がまさにその日でした。
息子は見事OKをもらい、カルフォル二ア行きの切符を手にしたのです。
もう不安どころか、いくとなったら、命に期限があるわけなので、
すぐに出発となり、二週間後となりました。
その二週間は本当に大変で、準備に追われたのはもちろん、息子がなんとまた発作を起こしたのです。
でもそのときの入院は一番前向きでした。
移植が目の前にきていたので、いつもの苦しみとは違いました。
そして準備、まずお金です。
渡航費や滞在費、治療費はすべて、州政府から出ました。
本当に感謝しています。
しかし、家の維持費などを考えると、この5ヶ月、貯金を崩して生活してきたので、たりません。
偶然移植が決まる前に、日本より叔母たちが来てくれる予定でした。
家族にお金を借りることになりました。
本当に運がいい私たちです。
そして仕事・・・。
私は息子の病気が分かった時点で退職したのですが、旦那は
そのとき勤めてた会社に頼んで自宅でできる仕事をもらってました。
でも2001年は911があった年・・・。
解雇という形で退職させてくれ、退職金、失業保険ももらえるように手続きをしてくれたのです。
そして3人で旅立ちました。
11月15日です。
不安だらけの渡航・・・。
でも行くしかない・・・。息子のために〜。
滞在先は病院近くの,マクドナルドハウスです。
そうあのマクドナルドの創立者が寄贈したのが始まりで、今では世界各国に
病気の子供たちの看病をしている家族のために格安で施設を運営しているのです。
部屋番号の下に名前が刻んであります。
よく読むと、企業や、個人名です。
そう、すべてが寄付=ドーネーションでまかなわれてるのです。
宿泊費は一泊$10でした。
共同のリビング、キッチンなどがあります。
そして、金曜日はマックの日!!
ミールをただで食べれるのです。
そのほかの日も近くのレストランが寄付してくれる日が決まっていて、
毎日いろんな食べ物に恵まれてました。
でも日本食はさすがにない〜〜。
同じ日入居した日本人家族に出会っていたので、よく食べ物の話をしては
食べたつもりで満腹にしていました!

少し彼らの話をしますと、日本から来てた女の子は5歳、幼稚園に入園してるのに
数回しか行ったことがない、心臓移植をしにきた家族でした。
スタンフォード大学は、私立ですので、医療費もとても高額です。
その家族は、やっとの思いで、約二億円の寄付を集め渡米してきたそうです。
私はその家族がいたおかげで、お互い励ましあい、悩みを分かち合い、
日本語ですごせたことを心より感謝いています。

現地についてからは、数日息子と私の検査尽くしでした。
そう、脳死移植と生体肝移植を同時に進めて、早くできるほうを早くすすめようという
計画でした。
しかし、私の肝臓は息子にはあげることができないと診断され、ドナーを待つ
選択しかなくなったのです。
ドナーを待つといっても、肝移植まってる患者は7万人いるそうです。
その中でトップでドナーを待つことは本当に大変なこと。
しかし息子はAクラスという、ドナーを待つ順番の一番最初のグループには入れたのです。
数日でドナーは見つかるだろうと・・・。
待つこと一ヶ月・・・もう周りはすっかりクリスマスムードいっぱいです。
ポケットベルを持たされてる私たちのストレスが限界に達していました。
ポケベルは、ドナーが見つかったらベルが鳴るというもの・・・。
もちろん旦那の携帯も常に抱え、生活していました。
コールがなるたび、肩を落とす毎日です。

脳死肝移植とは、おおくは事故などで、脳死状態になったひとから肝臓を移植することです。
複雑な気持ちです。そう私たちは誰かの死をまってることでもあるからです。
簡単に移植を考えた私たちは、考えもしなかったことでも日々悩みました。
DRは、だいたいドナーが現れるのは、ホリデーの前後・・・がおおいと・・・。
心が落ち着かず、わたしは持ってきた折り紙で千羽鶴を折り始めました。
本当は移植をしたら折り始めて、早く元気になるように祈るつもりでした。
しかし、折り始めることで、ドナーが来ることを願ったのです。
それが12月20日。
そして、翌日は金曜日で、みんなでマックのミールを食べながら、リビングで、ボランティアの
クリスマスコンサートの日でした。
白人のかわいい女の子が、高いすんだ声で、賛美歌を歌ってくれてました。
本当に天使が舞い降りてくるようなきれいな歌声〜もちろんプロではないので、
間違えたりもしますが、心がこもってるのです。
その澄んだ声をバックに私たちは、ドナーがでたというしらせを受けたのです。
旦那と私は、抱き合いました。
それはまるで、息子が完治したかのように〜。

そんなに嬉しいのに、嬉しさを表現できないのが、マクドナルドハウスです。
数年も、数ヶ月も私たち以上にドナーを待ってる人たちばかりだからです。
そして、日本人家族のお友達は心臓をまってるのです。
心臓はその人にあったサイズと血液型をまたなければなりません。
そう・・・とてもむずかしいのです。

息子は12月22日早朝にドナーの肝臓を移植することになりました。
ドナーはヘリコプターに乗ってきます。
そう、スタンフォードでは、ヘリの音がすると、みな、ドナーの臓器が運ばれてきたかも
知れないと、空を見上げ、天使のヘリに祈ります。
しかし、振動で臓器は使い物にならなく可能性もあるのです。
そう最後まで、息子の命のかけ引きは続いたのです。

今回はこのへんで〜。
ちなみに日本では東京にマクドナルドハウスがあります。
そう、気がついてない人がほとんどだと思いますが、マックのレジのところにある募金箱・・・
あれはマクドナルドハウスのための募金箱です。
私たちはマックに行く度、日本でもハワイでも、お財布の中の小銭をすべて
寄付する癖がつきました。

ALOHA&MAHALO

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移植まで〜の道。

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オルニチントランスカルバミラーゼ・・・聞いたことありますか?
通称、OTCといいます。
息子の病名です。
遺伝の病気なのですでに彼はおなかの中でもうこの病気だったんですね〜。
でもおなかにいるときはお母さんのへその緒をとうして、
お母さんが色々助けてくれるそうです。なのでへその緒を切った瞬間
病気は悪化する・・・息子が生後4日でおかしくなったのも、
すでに悪かったんですね〜。今でもこれを思い出すと
胸が痛いです。なぜ〜の連続です。
でもそんなことも考えてる暇もなかった闘病生活が始まりました。
一ヶ月の病院生活を終え、自宅療養となったときは、
もう不安で仕方がありませんでした。
毎日ICUに通い、搾乳しながらいつも、この子は私でなくてもいいのかもしれない
とおもったこともあります。
実際、難病を持つ親で逃げてしまい、とりのこされた子は沢山いるとのこと・・・。
そういえば、いつもボランティアのかたに抱かれてる子がいたな〜。
そう思うとわれに返り、DRに何を言われようと、絶対に回復させてみせる〜〜と
力がわいてきたものです。

息子は生後4日で病院に行ったとき、アンモニアの数値が2000を超えていました。
これは、通常の数値の100倍以上・・・。
体中にアンモニアが回り、最悪なことに脳にまで影が見られました。
これは、普通の暮らしはできないと、しゃべることも笑うことも・・・あるくことも
お乳を飲むことも・・・。
といわれました。
なので、唯一の治療、肝移植もしても無駄だ・・・と。
無駄な治療はアメリカはしないようです。合理的なアメリカ・・・そう、
肝移植をしてくれる所もないと。
ただ、余命一年を目標に日々生きる。
悲しんでる暇はありませんでした。
私たちは、二時間おきに、薬の入ったミルクをあげるからです。
おしゃぶりはするのに、哺乳瓶から飲めるのは数ミリリットル・・・。
生きるためには、鼻からチューブを胃までいれ、ミルクを飲ませるのです。
一気に入れることは小さな体には負担になるので、わずか数ミリのチューブで入れます。
所要時間、一時間・・・あかちゃんとは言え、動きが激しいので、
チューブの先につけたシュリンジを持っていなければなりません。
寝不足になってる体で一時間シュリンジを、二時間おきに持つのは
ほんと大変なことでした。
でも私たちは必死に病気と3人で戦いました。
くちでのめないようなら、胃に直接チューブを入れる手術をしようといわれたのですが、
毎週来てくれるナースとともにがんばって毎日少しずつ、哺乳瓶から
飲めるようにしました。そして、退院して一ヶ月で息子は
ごくごく哺乳瓶から飲むようになったのです。
もう脳がやられてるので、飲むことができないといわれましたが、
このことが信じられないDRたちは、口をそろえて、
ミラクルだと・・・。

脳への刺激をすることも欠かせませんでした。
何の治療もないといわれた私は、1ヶ月の赤ちゃんに絵本を聞かせ、
音楽を聞かせ、体を動かし、ありとあらゆることをしました。
そして、笑ったのです。そして、声を出したのです。
誰が見ても普通なのに〜なぜ〜〜と疑問と幸せをかみ締めてるとき、
いつも何かが起きます。

発作です。
わずか3000gの体から出る量とは思えないほどの、
滝のような嘔吐・・・。
OTCの特徴です。
どんなにがんばって、たんぱく質の量を栄養士の人と計算して、
完璧にしていても、時期が来るとこの発作が起きました。
すぐにERへ行きます。
誰よりも先に治療をしてくれます。それは本当にこの病気が
大変な病気だということを改めてしらされる瞬間でした。
DRも専門医以外ほとんどの人が知らない病気。
なのでいつも私たちは治療方法を書いたBOOKをもっています。
なぜならわずかな時間でアンモニアがまたすぐに上がってしまうからです。

私たちは息子の限られた時間すべてをともに生きるために、私は仕事をやめ、
旦那は家でできる仕事に会社が変えてくれために、乗り越えられました。
たくさんの人々に助けられました。
そして、息子がいつもお世話になっていた病院で今旦那は医療という仕事で
恩返しをしています。
 
また続きは、のちほど・・・

光をくれたすべての人に感謝しています。
MAHALO・・・。

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