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今回の大河『篤姫』は「薩摩か徳川か」。
時代も次第に幕末の動乱期に入りつつあり、
これまでの大河ドラマであれば、いよいよ”いくさ”かとワクワクするところなのだが、
今回の『篤姫』にかぎっては、良い意味で事情は異なる。
どういうことかというと、今回の「薩摩か徳川か」は、
これから多く取り上げなければならない薩長を中心として幕末の歴史的事件と
篤姫の住む大奥の場面にかける時間配分の難しさを考えさせられるからだ。
今回の「薩摩か徳川か」では、的場浩司扮する有馬新七が起こした
寺田屋事件に関する薩摩藩内の経過の描写に放映時間の半分以上を使ってしまった
たためか、大奥内で孤立した篤姫やその周辺のために割かれた時間が少ないと思う。
そのため、結果的にこれまでの回と比べて、大奥内の人間模様が
いびる本寿院、揚げ足を取る御所派、母を信じられない家茂公、
潔白を訴えるも伝わらず憤る篤姫、なだめる重野という典型的なステレオタイプの
人物図式が固定されていて、お話の最後の最後に取って付けたように
篤姫が薩摩からの嫁入り道具を燃やす決意の行動を示し幕切れとなる。
さらに、「一方薩摩では・・・」ではじまり、毎回経過報告的にちょこっとずつしか
出番のない薩摩藩の「寺田屋事件」の場面の方も、
時間をかけた割には、かんじんの有馬の心理描写などが十分描けておらず、
正直なところ中途半端に感じた。
時間が許すのであれば、今回の放送の枠内で篤姫の嫁入り道具を燃やす行動に
対して他の登場人物がどのように感じ、考え、行動の変化をみせるようになったかを
しっかり見せて欲しかった。
次回以降の回の中でそれが分かってくるから良いのでは、
という考えもあるかもしれないが、
私は大河ドラマに限らず、連続モノのドラマは基本的に一回一回が勝負だと思う。
各回ごとに、一応のきちんとした形のメッセージを提示するのでなければ、
せめて次回への伏線を視聴者に期待させる場面を挿入するべきだ。
『篤姫』のドラマの作り方の特徴として、
桜田門外の変や、せいぜい篤姫自身の輿入れに関連した政治闘争の場面以外、
それほど歴史的にとりあげなければならないような重要イベントがないことがメリットとなり、
かえって脚本家の田淵さんが自由に想像力をはたらかせ、
田淵さんのいう「明るく清々しい人間賛歌」(※1)としての
篤姫ストーリーが展開されてきた面がある。
確かに、これまでの『篤姫』においても、
政治闘争や歴史確かに斉彬の本妻や本寿院などとの
ステレオタイプな芝居に陥りがちな嫁姑の確執、
また嫁入り前後の長きにわたり男性中心で展開された一橋派と紀州派の権力闘争など、
大奥モノや時代劇にありがちなパターン化に陥りやすい定番題材ものを、
必ずどこか憎めない悪役と、
好奇心旺盛で肝の据わった篤姫のストーリーに昇華させることに成功してきた。
私は、大河『篤姫』の最大の魅力は、
封建的な江戸時代の武家社会や幕末の英雄らの
すでにわが国において完成された男性中心物語の中を、
網の目をくぐるように明るく芯が強く遊び心満点な篤姫
が縦横無尽にかけまわることで、
男性女性を問わず、すべての登場人物と心を通わせていくことにあると思う。
それによって、私達はそれぞれの人物のおかしさ、面白さ、良さを知り、
本当の悪人などこの世にはいないこと、遊び心と余裕を持って、
粘り強く生きていこうよ、というメッセージを教えてもらっている気がする
こうしたスタイルは、3年ほど前の三谷幸喜の『新撰組!』
などにも特に見られた新しいスタイルの大河ドラマの特徴だと思う。
そういった意味で、今回の「薩摩か徳川か」のバランスが少し崩れ、
急ぎ足の展開になって、肝心の人と人の関わりの
機微を描き切れていなかったように思うのは、少し残念。
しかし、物語はまだまだこれから。
今後とも、篤姫様の力で悪い人なんてホントはだれもいないんだというメッセージを、
おもしろおかしく時には真剣に
私たちに伝えてくれることを楽しみにしています。
※1 「明るく清々しい人間賛歌」・・・
大河ドラマ『篤姫』HP内の田渕久美子さんのことばより引用
→http://www3.nhk.or.jp/taiga/staff/kyakuhon.html
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