静かな生活

心理・教育・福祉問題ほか、生活の中で発見したことに関し比較的短い文章によるデータベースにしていく予定です。様々なジャンルに挑戦!

(社・教)映画・ドラマ

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昨日、千葉の映画館で『青い鳥』という映画を観た。
重松清の短編が原作の、”いじめ”をテーマにした地味ながらなかなかの意欲作だ。
主演の村内先生役の阿部寛と生徒役の一人である本郷奏多(園部真一役)以外は
ほとんど知られていない役者達ばかりだが、
それだけに内容は、現実に学校の中で起こっているいじめ等の
問題の本質を突いた優れたものになっている。

ストーリー自体は、苛めによる自殺未遂未遂の
生徒(既に転校)を出してしまった東が丘中学校の2年1組に、
3学期のはじめから阿部寛扮する吃音の国語教師村岡が赴任し、
事件のことを早く忘れようとしている生徒達や教師らに
自殺未遂にまで追い込んだいじめについて考え直してみるように働きかけるというもの。

この映画で特に個人的に特に印象に残ったのは、
村岡先生の言葉と生き様の両面から発されるメッセージである
「大切なことを「本気の言葉」で本気で話そう」、
「相手の「本気の言葉」には本気で耳を傾けよう」というものだ。

主演の阿部寛自身がインタビューで語っているように、
現在の社会では、真面目を嫌って、ノリで生きていくことが
スマートとされている風潮のなかでは、
本気の言葉を発し、本気で聴くというある意味”鈍くさい”ものとして
敬遠されているとも言える。
しかし、私が人間が一歩一歩成長し成熟していく過程では、
少なくとも必ずどこかの段階ではこの本気の言葉の受け渡しにぶつかり、
通過していかなければならない運命にあるものだと思う。
それは、何ひとつコンプレックスを持たない人間がいないことと同じで、
どこかで弱い立場に立つことになってしまう私達は、
人生のどこかの時点でお互いに助けあい、
大なり小なり感謝の心を実感しながら生きていかなければならず、
その時は、本気で相手と向き合わざるを得ないからだ。

仮に少年少女時代真っ盛りの小中高校時代には体験することがなかった子であっても、
社会に出てつらい立場と経験したり、親になったりしていく過程で、
いずれ直面しなければならない問題なのだ。

したがって、村内先生が生徒達に出来れば感じ取ってほしいと願ったこととは
(彼は、自分から教訓を押し付けない。きっかけを与えるが生徒自身に考えさせる。
当然、映画では何も気づくことなく終わった生徒も多数いた)、
悪質ないじめの一事件への心からの反省であると同時に、それだけではない。

本当に相手の立場と気持ちになって考え、向き合うこと。
仮に相手が自分と気が合わなかったり、考え方や生活、ふるまいに隔たりがあったとしても、
また自分が悩んでいたり、時間が無かったり、イライラしていたとしても、
本当に大事な時には、相手は自分と違うのだと切ってしまうんじゃなく、
相手の気持ちに誠心誠意耳をすませて、気持ちを想像すること、ではないだろうか。

実際には、大人の世界でも、全ての人に心を開くということは難しく、
特に考えずに距離を置く他者が多いのが現実。
要するに、全ての人の気持ちを真剣に読み取れというのではなく、
自分に出来る範囲で、他者と向き合ってようということだ。

ただ、少なくとも相手のことを傷つけたり、心無い態度を取らないことは、
お互いの「責任」であり、真剣に気を使っていかなければならないことといえるだろう。

どもりながら、笑われながらも、毎日夜遅くまで残って生徒のことを考え続ける
鈍くさくひたむきな村内先生の姿が、その大切さを教えてくれる。

残念ながら観客が少なく、興行的には厳しいとも思われるが、
監督デビュー作だという中西健二監督のこだわりにはとても好印象を持った。
さらなる手の込んだ次回作にも大いに期待。

たまたま家に帰っていた妹も加わって食事をしながら家族で『篤姫』を見る。
二年前ぐらいまでは、妹も毎週一緒に見ていたのだが、本当に久々。

どちらかというと、
毎週欠かさず見ている私は歴史的な流れや
篤姫を中心にしたドラマの主題に関心が向かいがちなのに対し、
2回目だという妹は、
彼女らしく西郷さんの方言の言葉遣いがおかしくてかわいらしいとのこと。

そういわれてみれば、
鹿児島弁のイントネーションは一見ひょうきんだけれど、
温かみがあって自然と親しみを覚える。
発音は、他の方言よりもきれいな感じ。

今回の『篤姫』で薩摩言葉をつかっているのは、
小沢さん演ずる西郷や、原田さん演ずる大久保ら中心の下級武士層の面々。
島津家はもちろん、武士層の役の人々はもっぱら標準語。
いや、そういえば榎本さん演じる尚五郎の父親は例外か。

妹のおかげで気づくことができたこのお国言葉の使用は、
これまでの大河と比べても、製作者サイドでは結構力を入れているのではないかと見る。

緒方拳が亡くなった。
私が主に見たのは『太平記』(足利貞氏役)や
『毛利元就』(尼子経久役)などの大河ドラマだったが、
一番印象に残っているのは、
NHKアーカイブスでやっていたテレビドラマ『破獄』である。

この作品は、戦中戦後の混乱期に極寒の網走刑務所を舞台とし、
緒方拳扮する佐久間と、津川雅彦扮する看守の間に繰り広げられる
脱獄をめぐる生々しい人間ドラマを描いたもの。
ストーリーもさることながら、
緒方拳のまるで獣か鬼のようなグロテスクさをまざまざと見せつけてくれた悪役振りと、
佐久間への本当の思いやりがあるからこそ
本気で制裁をくわえる厳しい態度の看守を演じる津川雅彦の演技は、
私に恐怖とさえも覚えるほどの強烈な印象と感動とを同時にもたらしてくれた。

あの時の緒方拳の、まさに本当に鋼のような肉体と狂った動物のような鬼のような眼、
そして何度脱獄を失敗し、両手を後ろに組まれ痛々しいほどの手錠を掛けられながらも、
口に味噌汁を含んで、口から垂らし続けることで手錠や鉄格子を錆びさせ、
半年かけて脱獄を狙う執念深さ!

佐久間をそこまで駆り立てる本当の理由は、恨みなのか何なのか、
ドラマを1度見たきりで、
原作(吉村昭作)も読んでいない私にはまだわからないままである。

ともかく、まだまだ10年20年と現役で活躍できる人だと思っていたので残念。
心からご冥福をお祈りします。

※Amazon:映画『破獄』
 →http://www.amazon.co.jp/%E7%A0%B4%E7%8D%84-%E7%B7%92%E5%BD%A2%E6%8B%B3/dp/B00008DZ5V/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=dvd&qid=1223341492&sr=1-1

※Amazon:吉村昭『破獄』、新潮文庫、1986・12
 →http://www.amazon.co.jp/%E7%A0%B4%E7%8D%84-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E6%9D%91-%E6%98%AD/dp/4101117217/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1223341480&sr=8-1

東京に出た帰りに、映画館で『おくりびと』を観る。
主演はNHKドラマ『聖徳太子』での好演が印象的な本木雅弘(小林大悟役)で、
チェロ奏者の道をあきらめた後、山形の故郷に帰り、
山崎努(佐々木生栄役)の経営している社員3人の
NKエージェントで一人前の納棺師となっていく姿を描く。

午後三時上映の回に入ったこともあって、
観客の9割5分は年配の方だったので、
少し驚いた(逆に一見チャラ目の若いカップルが一組来ていたのも印象的だった)。

映画の内容は、新人納棺師の本木雅弘が初仕事の放置遺体処理後に、
あまりの汚らわしさからかたくなに石鹸を体にこすりつけたる姿などの
ユーモアな面をきちんとおさえつつ、
死を扱う仕事を題材とするだけあって、
非常に深く考えさせられるシーンも多かった。


その中で、私にとって一番印象に残ったのは、
山崎や本木のNKエージェントの面々の食事のシーン。
妻(広末涼子)や昔からの親友(杉本哲太)に仕事内容を汚らわしいと責められ、
自身も内心では他人の死を商売にして暮らすことへの
罪の意識も感じていた本木雅弘が、
山崎務の所へ仕事を辞めることを告げにきたところで
ふとしたことで食べることになった”ふぐ鍋”。
また、死者をよみがえらせるかのような納棺師としての仕事の腕をめせたあと、
車の中でこれまでの仕事の姿が嘘のように
人間くさく干し柿をむしゃぶる山崎の姿などである。

そこでの山崎の言葉が

「うまいんだな、困ったことに」

である。

他人の死を飯の種にして生きることは,ある意味で汚らわしいことでもある。
それは分かってはいるが、馬鹿にされた方は不本意だし、くやしくもある。
よく考えてみれば、「生き物を食べる」ということも納棺師の仕事も似ている所があって、
ある意味毎回動物の死体をむさぼり食っているとも言える。

私は今でもエビや蟹が苦手だが、
その理由は一つに皮や臓器、頭、足をそぎ落とした”肉”として
売られやすい豚・牛に比べ、
エビや蟹は小さくそのままの姿で売られており、
そのまま口に入れなければならないので、
自分が生きるために生き物を殺して食べているのだと言うことを
実感しやすいためだと思う。
しかし、生きていくためには自分が生き物を殺していることが分かっていながらも、
それを気にしすぎず、
おいしく味わって食べていく必要があるし、
それを美味しく感じることが出来るのが人間の生命の力である。

山崎努の人生経験から生み出されたおおらかさによって出てきたこの言葉は、
あまり小さいことにくよくよし過ぎないためにはどう自分を持ち直したらいいかとか、
色々なことにあてはまることである気がする。

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7日の日曜日、7月19日に見逃してしまった向田邦子原作のドラマ『父の詫び状』の
NHKアーカイブスによる深夜時間帯での再放送の録画ビデオをみる。

ドラマは、もともとは1986年11月にNHKで放映されたものなので、
したがって向田邦子の死後につくられたものということになる。
脚本はジェームス三木、語りだけの出演として岸本加世子、父田中征一郎役として田向直樹、
母役が吉村実子、向田邦子のモデルである田向恭子役が長谷川真弓。

全体として平成の現在ではお目にかかれない昭和前中期の家族(設定は戦前の昭和14年、
しかし戦争が迫っているようにはみえない…)の厳しくも心暖かく、
時におかしく、切ない日常を切り取ったよい作品。
原作の向田邦子のエッセーにもかなり忠実にエピソードを取り上げている。

その中で、エッセーにはおそらくないものの、
まだ小学生ではないかと思われる若き日の市川染五郎演じる吉岡少年と、
恭子の父直樹とのかかわりの場面では胸が熱くなった。
父親がいないことで共通する恭子の父は、不器用な人ながらも何かと吉岡少年に気をかけ、
ピクニックのシーンでは、吉岡君の持ってきた特大の米だけで握られたおにぎりと、
自分の幕の内弁当を交換してあげていた。吉岡君の母親もなくなり、
お通夜で「強く生きていくんだぞ」と語りかけるところは、
普段は自分の素直なところをみせない人だからこそ、逆に心を打つ。
そんな様子が、娘である恭子の視点で語られるものだから、
余計にそのような気持ちにさせてくれた。

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