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2月4日の読売新聞2面の「顔」に馴染みの名を見つけた。私が「台湾の兄貴」と慕う台湾高座会会長の李雪峰(りせっぽう)さんだ。李雪峰さんは大戦中、私の父が高座海軍工廠で寄宿舎の舎監をしていたとき、その下で寮長だった人、親子二代の付き合いである。原文のまま、紹介する。

 「昭和戦争末期、日本の植民地統治下の台湾から、神奈川県の高座海軍工廠に渡り、戦闘機“雷電”の生産に汗を流した少年たちがいた。1943年秋、その一員に志願して、日本へ行った。日本名は森本雪夫。当時17歳。

 リーダー役だった関係から、同窓会“高座会”を結成し、会長を務める。“働きながら学べる”として、台湾各地から成績優秀者が少年工に選抜され、計8,419人が労働力不足だった日本の軍需産業を支えた。

 “寒い日本では食べ物が台湾より少なく、故郷が恋しくて皆で泣いた。それだけに、同じ釜の飯を食った連帯意識が強いんです”。戦況悪化につれて、各地の工場を転々とし、空襲で死亡した仲間も多かった。

 仲間内の会話は、今も日本語だ。忘れられない思い出は、地元の農家から、サツマイモなどの差し入れを受け、“高座の情”に触れたことだという。

 戦後、台湾に戻り、各界で活躍する少年工出身者の同窓会結成が認められたのは、戒厳令解除の翌88年。昨年秋の20周年記念大会には、約800人が集まった。2003年、高座での勤務を示す在職証明書を厚生労働省から受け取った。

 一時は3,400人いた会員も、今では2,000人余り。平均年齢は79歳。近年は日本側と連携して、自治体交流の橋渡し役を担う。“19年間、日本人だった”との考えから、余生を日台交流に費やすつもりだ。

 “日本は第二の故郷。不屈の精神を学んだ。悔いはない”。日本を思う気持ちは、人一倍強い。(台湾支局、石井利尚)」

 記事を読んだ私は、すぐに台湾の李雪峰さんに電話を入れた。そして記事をコピーし、短い添え書きをしてファックスした。「なかなか簡潔な良い文章と思います。とくに最後のところが、泣かせます」と書いた。実際に、涙が滲み続けたからである。

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