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台湾少年工、苦難の75年を振り返る
台湾高座台日交流協会 理事長 李雪峰
先の大戦末期、昭和18年(1943)に、日本海軍は戦況を好転させようと、神奈川県高座郡に海軍空C廠を設けて最新鋭機「雷電」を生産、厚木基地に供給しようとした。しかし技術工員を募集しても、地元の青壮年は徴兵や徴用に駆り出されていて、応募する者は殆どなかった。
そこで海軍当局が注目したのが台湾の青少年だった。当時の台湾には日本教育を受けた優秀で向学心に富んだ青少年がたくさんいた。「小学校卒でも、日本本土で海軍軍属として3年学び2年働けば旧制中学の卒業資格が得られ、中学卒も2年働けば高等工業高校卒業の資格が得られ、将来は航空機技師への道が開けるという。台湾の青少年は競って志願し、厳しい競争試験の突破を試みたのである。
1943年5月の第一陣から翌44年5月迄、8400名の台湾青少年が制海権も制空権も敵に握られていた台湾海峡や東シナ海の危険な海を渡って、本土へやってきた。そのころ海軍空C廠は高座海軍工廠と改名されていた。
寄宿舎は当時の大和町上草柳にあったが、未完成の本廠で3か月の実地訓練をうけると、本廠に配属された者以外は中島飛行機製作所や三菱航空機製作所など名だたる全国の航空機製作所に派遣され、当時の日本海軍が使用していた全ての機種の製造と整備に携わった。それらの工場は何れも敵の主要な爆撃目標であったが、台湾少年工はその恐怖の中でも、強い愛国心と技術を持って勇敢に誠実に戦い、高い評価を受けたのである。
実際に働き詰めの2年間だった。慣れない寒さとひもじさ。安眠を妨げるノミやシラミ。昼夜無差別の銃爆撃。そうした中で特に印象に残るのが各地の、特に高座の地の心優しい農家の皆さんだった。芋やおにぎりをふるまい、破れた衣類をつぎはぎし、家族同様に可愛がってくれた。このことを、元少年工たちは今も話題にし、語り合い感謝している。
内地の工場では差別がなかった。むしろ少年工の働きが評価されて、優遇された面さえあった。それが75年経った今でも私たちが、日本を第二の祖国とし、高座の地を第二の故郷と思う理由である。
1945年8月15日、日本の敗戦で少年工の勉学への夢、航空機技師への夢は破れ、台湾へ送還された。その生まれ故郷の台湾では1947年2月に、228事件が発生、それを契機に外来の国民党政権は戒厳令を敷き、38年間という長い不自由な生活を強いられた。しかし少年工は留日中に会得した不屈の精神で耐え抜き、学んだ技術力を活かして台湾の経済発展に貢献したのである。
そうした苦難の中でも少年工は、水面下で高座の同僚との交流は絶やさなかった。日本との交流も細々だが続いていた。そのきっかけになったのが、何と言っても早川金次元海軍技手による元部下台湾少年工を思う義挙である。私たちが尊敬して止まない早川金次技手は終戦直前に敵の空中爆雷で亡くした部下を思い、平塚の戦災で失った自宅の再建より先に大和市善徳寺に「戦没台湾少年之慰霊碑」を建立、1968年には訪台して各地にその遺族を慰問して回われたのである。今でも私たち全ての元少年工は、折ある毎に早川金次技手を追悼しそのご冥福を祈っている。
こうした中、38年の長きにわたった悪名高き戒厳令も世界的な雪解け傾向には耐えられず1987年に解除され、翌1988年に水面下にあった各地の高座会が浮上し、台湾全土に20区会を擁する台湾高座同学聯誼会が結成され、その全国大会が各区持ち回りで開催されることになった。
1992年5月、聯誼会中の一区会である新化区会が羅安国会長を団長として第二の故郷である大和市役所を訪問した。井上孝俊市長は生憎と外出中で、代わりにその前日に議長に選出されたばかりの石川公弘議長が応対してくれたのだが、それが何と私たち台湾少年工の寄宿舎第一舎の舎監・石川明雄先生の御曹司だったのである。
訪問団はその場で、1992年11月22日、彰化区会が主催する「台湾高座会第5回聯誼会」に石川議長の参加を要請、実現した。大会の席上、聯誼会会長である私が「1993年は台湾高座会留日50周年に当たるので、第二の故郷へ里帰りをしよう」と提案すると満場一致で了承され、石川議長が「大和市を挙げて歓迎する」と発言すると大歓声が上がった。
こうして早川金次という神とも仏とも讃えられる人物の切り開いた日台親善交流の道は、石川議長によって更に強い流れとなり、1400名にもなる留日50周年里帰りとして実現したのである。私たちが夢破れて帰郷した時の日本は全国がほとんど廃墟だったが、50年ぶりに見る第二の古里は見事に復興していて、私たちは誇りを取り戻した。
50周年の訪日を機に、私たちは「台湾高座会此処にありき」のシンボルとして引地川の畔に「台湾亭」を建造して大和市へ贈った。その後も毎年、相互に訪問を繰り返し、訪日の際は戦いの場でその命を失った60名の仲間の祀られている靖国神社へ日本の友人と共に昇殿参拝して、友好の絆を強めてきた。留日60周年歓迎大会では、遅れた卒業式で歌った涙声の「仰げば尊し」と卒業証書が思い出に残る。留日70周年歓迎大会では、森喜朗歓迎大会会長から元総理大臣名の感謝状をいただいた。
この度の「台湾高座会留日75周年歓迎大会」には、「台湾少年工顕彰碑」を思い出の地に建立して私たちを迎えてくれるという。こうした心配りをしてくれる日本の皆様に心から感謝したい。
私たちの育んできた日台の親善と共栄の流れはこれからも更に強くしていかねばならない。私たちは第一代目の台湾高座会員が育ててきた2代目3代目とスクラムを組み、交流の流れを更に強くしていきたいと考えている。
最後になりましたが、台湾高座会留日75周年歓迎大会の甘利明大会会長、石川公弘実行委員長はじめ役員の皆様、本大会に参加をしていただきました多くの皆様に、衷心より御礼を申し上げます。そして来る2020年の東京オリンピックに台湾が台湾国名で参加させていただけるようご支援を最後にお願いして、ご挨拶と致します。】
台湾高座会留日75周年歓迎大会のプログラム作成担当者から、李雪峰会長の挨拶文は涙無しには読めないとの連絡が入った。
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2018年10月05日
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