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終わりの日のキリストの語られる言葉 「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 抜粋(舞台版朗読)
神が人間の運命を統治しているという事実は、誰にも変えることが出来ない
神の権威に服従することを望む者の適切な姿勢と行動
自分の唯一の主として神を受け入れることが、救いを得る第一歩である
『言葉は肉において現れる(続編)』より
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朗読(舞台版)
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全能神は言われた。「人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。…わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれたし、人々はわたしを愛し、尊敬したので、ある時は救い主イエスと呼んだ。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。」
『言葉は肉において現れる』より
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全能神は言われた。「人間はサタンによる抑圧を受けてきており、また人間はもはや創造された時のアダムとエバのようではなく、知識、想像、自分の意志など、神に反対する物事や、サタンのような腐敗した性質に満たされているが、神の観点から見ると、人間は依然として神が造った時と同じ人間である。人間は依然として神により支配され、指揮され、神が定めた生涯から逸脱することなく生活しているので、神の観点から見ると、サタンにより腐敗させられた人間は、埃をかぶったようなもの、つまり空腹でお腹が鳴り、反応が少し遅くなり、従前よりも記憶力が悪くなり、少し年老いたに過ぎず、人間の機能と本能は、全く損傷していない。これが、神が救済しようとしている人間である。しかし、人間は創造主の呼ぶ声や言葉を聞くだけで、立ち上がってその言葉がどこから聞こえているかを探しまわるであろう。人間は、創造主の姿を見ただけで、その他のことは全く心に無くなり、全てを投げ出して、自らを神に捧げ、神のために命すら捧げるであろう。人間の心が、創造主の心からの言葉を理解したとき、人間はサタンを拒絶し、創造主の味方となるであろう。また人間が身体の穢れを完全に洗い流し、創造主による施しと糧を授かったとき、人間の記憶が蘇り、その時人間は、真に創造主の支配下に戻るであろう。」
『言葉は肉において現れる(続編)』より
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全能神は言われた。「神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。人間に対する神の心からの労りと並々ならぬ思い入れ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救った時にも少しずつ示されていた。特に、ヤーウェとヨナの会話では、創造主が創造した人類に対する、創造主自身の同情が露見される。これらの言葉からは、人間に対する神の真摯な思い入れを知ることができる。」
「人類に対する慈愛を感じるのは、創造主だけである。人類に対する優しさと愛慕を示すことができるのは、創造主だけである。人類に対する変えることのできない真の愛情があるのは、創造主だけである。同様に、人類に憐れみを与え、神の創造物の全てを愛慕することが出来るのは、創造主のみである。創造主の心は、人間の行動ひとつひとつに対し、ときめいたり、傷んだりする。創造主は、人間の邪悪と腐敗に対して怒り、苦しみ、悲しむ。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、寛大であり、喜ぶ。創造主の心は、いずれも人間のために存在し、人間がその中心にある。創造主の存在とその中にある物事は、すべて人間のために表出される。創造主の心は、人間の存在と密接に結びついている。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを与え、一分一秒を捧げるのは、人間のためである。創造主は、自らの命を哀れむことを知らないにもかかわらず、自身が造った人間を常に哀れみ、慈しむ。創造主は、自らの全てを人類に捧げる。創造主は、無条件に、かつ見返りを期待することなく、憐れみと寛容さを与える。彼がこうした業を行う唯一の目的は、人間が引き続き彼の前で生きることができるようにし、いのちを受けることができるようにすることである。何時の日か、人間が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための必要を施し、全てのもののいのちを与える存在であると認識出来るようにすることである。」
『言葉は肉において現れる(続編)』より
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