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働きと入ること(6)
働きと入ることはそもそも実際的で、神の働きと人がいのちに入ることを指している。人は神の本当の顔と神の働きをまったく理解していないので、いのちに入るには非常な困難が生じた。今日まで、多くの人々は、神が終わりの日に完成する働きのことをまだ知らない。あるいは、なぜ神が人の姿となり、禍福いずれのときも人を支えるために極度の屈辱に耐えるのかを知らない。人は神の働きの目標について何も知らないし、終わりの日の神の計画の目的も知らない。さまざまな理由で、人々は神が人に対していのちに入るようにと要求することに関していつも中途半端で曖昧[1]であり、そのため、人の姿となった神の働きには多大の困難がもたらされた。人々は皆障害物になったようで、今日まで彼らはまだ明確に理解していない。従って、わたしは神が人に行う働きと神の緊急の意図について話し、あなたたちすべてが神の忠実なしもべになり、ヨブのように、神を拒絶するくらいならむしろ死を選び、あらゆる恥辱に耐え、ペテロのように存在のすべてを神に捧げ、終わりの日に神が得る者になることを目指す。すべての兄弟姉妹ができる限りのすべてを行い、全存在を神の天の旨に捧げ、神の家で敬虔なしもべになり、神によって与えられる無限の約束を享受することを願っている。そうすれば、父なる神の心はすぐに平和な休息を享受できるだろう。「父なる神のご意志を成就する」は神を愛するすべての人々の座右銘となるべきである。これらの言葉は人がいのちに入るための指針として、人の行動を指図する羅針盤として役立つべきである。これは人が持つべき決意である。地上で神の働きを余すところなく終わらせ、受肉した神の働きに協力すること、これは人の本分である。いつか、神の働きが完了する時、人は受肉した神に天の父のもとに早く戻るよう別れを告げるだろう。これは人が履行すべき責任ではないだろうか。
恵みの時代、神が第三の天に戻った時、人類すべての罪を贖うという神の働きは実質的にすでに最終章に移っていた。地上に残っていたのはイエスが運んだ十字架、イエスを包んでいた上質の亜麻布、いばらの冠、イエスが着ていた緋色のローブがすべてであった(これらはユダヤ人がイエスを嘲笑するために使ったものである)。すなわち、イエスの磔刑はしばらくの間、混乱を引き起こしてから落ち着いた。その時からイエスの使徒たちはイエスの働きを進め、至る所の教会で人々を羊飼いのように導き、水をやり育てた。彼らの働きの内容は、すべての人々に悔い改めさせ、自己の罪を認めさせ、洗礼を受けさせることであった。使徒は皆イエスの磔刑の内部事情と実際に起こったことを広め、誰もがイエスの前に平伏して自分たちの罪を認めざるを得なかった。さらに、使徒は至る所でイエスの話された言葉やイエスが定めた律法や戒律を広めた。その時から恵みの時代の教会建設が始まった。その時代にイエスが語ったことは人の生活や天の父の心にも重点を置いていた。それらの語られたことや実践の多くが今日のものとかなり違っているのは、時代の違いのためだけである。しかし、双方の本質は同じである。どちらも受肉した神の霊の働きにほかならない。その種の働きや言葉は今日まで続いており、そのため、今日の宗教教会で今も共有されているのはその類のことであり、まったく変わっていない。イエスの働きが終了した時、イエス・キリストの正しい軌道は地上に根付いていたが、神は働きの別の段階、すなわち終わりの日の受肉の問題のための計画を始めた。人にとって、神の磔刑は神の受肉の働きを終結させ、全人類を罪から贖い、神がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を贖っただけである。人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は「人となったわたしの肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架にくぎで打ちつけられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第二回目を開始した。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、神のものとすることであり、そのため、神は人の姿となるという危険を再び冒す準備をした。「受肉」と呼ばれるものは栄光を示すのではなく(神の働きはまだ仕上げられていないので、栄光をもっていない)、愛する子の身分にて現れることであり、受肉した神はキリストであり、神は受肉したキリストに十分満足しているということである。そのため、これは危険なことと言える。肉体は極めて力が小さく、細心の注意を払わねばならず[2]、天の父の権威とは似ても似つかず、肉体の職分だけを履行し、他の働きに関わることなく、父なる神の働きと任務を遂行するだけである。彼は働きの一部を遂行するだけである。そこで、神は地上に来ると「キリスト」と呼ばれる。これは組み込まれている意味である。地上に来ることは誘惑を伴っていると言われる理由は、一つの働きの企てだけを成し遂げるからである。さらに、父なる神が彼を「キリスト」「愛する子」と呼ぶだけで、すべての栄光を与えなかった理由は、人の姿となったキリストは一つの働きの企てをするために地上に来るのであって、天の父の代わりをするためではなく、むしろ神に愛される子としての職分を遂行するためだからである。神の愛する子が肩に担った全任務を完了する時、父なる神はキリストに父の身分とともに十分な栄光を与えるだろう。これが天の規則であると言うことができる。受肉した者と天の父は異なる状況にあるので、二人は霊の中でお互いの方をじっと見るだけで、父はその愛する子から目を離さないが、子は父を遠くから見ることはできない。肉体の機能は小さすぎ、キリストは今にも殺される可能性があるので、地上へのこの到来は非常な危険を伴うと言われる。これは神がもう一度愛しい子を手放し、彼を虎の口の中に置くのと同じである。サタンがもっとも集中している場所に神が我が子キリストを置くのは命がけのことである。そのような恐ろしい苦境でも、神は愛しい子を不潔で、不道徳な場所にいる人々の手に渡し、彼らに「育て」させる。これは、そうすることが神の働きを完全に有意義にする唯一の方法、父なる神のすべての願望をかなえ、人類に対する神の働きの最終部分を成し遂げる唯一の方法だからである。イエスは父なる神の働きの一段階を成し遂げただけであった。受肉した身体の障壁と、成し遂げた働きの違いのために、イエス自身は二度目の受肉があることを知らなかった。従って、イエスの歴史的説明を読んだことのある人で、神がもう一度人の姿となり、肉体で働きの全体を終らせることを希望しているとイエスが予言しているのを見つけた人は誰もいない。イエスはこの件について知ることもなかったので、偉大な預言者や聖書解釈学者も神が人の姿に戻りたいこと、つまり、再度受肉し、人の姿での働きの第二部をすることを知らない。従って、誰も神がずっと昔に始まって、人の姿に身を隠していたことに気づいていない。これは理解できる。なぜなら、神がこの任務を受け入れたのは、イエスが復活して天に昇った後のことだったからであり、神の二回目の受肉には何の起源も基礎もなく、根のない水のように把握するのは難しい。さらに、非常に有名な[3]聖書の中でさえ、それに関する言及を見つけることは難しい。聖書の多くの章や節すべての中で、一文でも、一語でもこの件に言及している箇所はない。しかし、イエスがこの世に到来することは長い間予言されていたし、しかも聖霊による受胎を通してであった。それにもかかわらず、神はやはりそれは命がけだと言った。それでは、このことは今日について何を示しているのか。神が今回の受肉は恵みの時代の危険よりも何千倍も大きな危険を冒すと言うのは不思議ではない。多くの場所で神は、スエネの地の勝利者の一団を得ると予言した。勝利者が得られるのは世界の東方なので、神の二回目の受肉が見られる場所は間違いなくスエネの地で、まさに赤い大きな竜がとぐろを巻いているところである。その地で神は赤い大きな竜の子孫を自分のものにするので、竜は完全に敗れ、辱められる。神はこれらの深く苦しんでいる人々を目覚めさせたがっている。彼らを完全に目覚めさせ、霧から外へ歩き出させ、赤い大きな竜を退けさせたがっている。神は彼らを夢から目覚めさせ、赤い大きな竜の本質を知らしめ、神に完全に心を捧げ、闇の力の抑圧から立ち上がり、世界の東方で立ち上がり、神の勝利の証明になることを望んでいる。そうなってようやく神は栄光を得るだろう。まさにこの理由のため、神はイスラエルで終わった働きを赤い大きな竜がとぐろを巻いている地にもたらし、地上を去ってからほぼ二千年後、恵みの時代の働きを続行するために再び受肉した。人の肉眼には、神は人の姿で新しい働きを開始している。しかし、神にとっては恵みの時代の働きの続行であり、ただ数千年時が離れただけ、働きの場所と計画が変化しただけである。今日の働きで神が取り入れた肉の姿はイエスとはまったく異なる人であるが、両者は同じ本質と根源を共有しており、同じ源から来ている。おそらく両者の外見には異なった点が多くあるだろうが、彼らの働きの内なる真実は完全に同一である。結局、時代の違いは昼と夜のようなものである。どうして神の働きが変化しないままでいられるのだろうか。あるいは、どうして働きがお互いを分断できるのだろう。
イエスはユダヤ人の外見で、ユダヤ人に即した衣服を身に着け、ユダヤの食べ物を食べて育った。これはイエスの普通の人間的側面である。しかし、今日受肉した体はアジア人の形をとり、赤い大きな竜の民族の食べ物で育つ。これらのことは神の受肉の目標と矛盾しない。むしろ、両者はお互いを補完し、神の受肉の真の意義をより徹底的に完了する。人の姿となった体は「人の子」あるいは「キリスト」と呼ばれるので、今日のキリストの外見はイエス・キリストと一致しない。結局、人の姿となった神は「人の子」と呼ばれ、人の姿である。神の働きの各段階にはかなり深い意味が含まれている。イエスが聖霊によって受胎された理由は、イエスが罪を贖うことになっていたからである。イエスは罪があってはならなかった。しかし、罪深い肉体と同じ姿にさせられ、罪人の罪を引き受けた最後にはじめて、イエスは神が人々を罰するために使った呪われた十字架によって罪人を救った。(十字架は神が人々を呪い、罰するための道具である。呪と罰への言及は特に罪人を呪い、罰することに関している。)目標はすべての罪人に悔い改めさせて、彼らに罪を認めさせるために磔刑を使うことであった。すなわち、すべての人類の罪を贖うために、神は聖霊によって受胎された人として受肉し、すべての人類の罪を引き受けた。これを説明する一般的方法は、すべての罪人の代わりに聖なる肉体が奉献されたことであり、イエスが、罪の捧げ者としてサタンの前に置かれ、サタンが踏みにじった罪のない全人類を神のもとに返すようサタンに「懇願」したのである。従って、この段階の贖いの働きを完成するために聖霊による受胎が要求された。これは必要な条件、父なる神とサタンの闘いのあいだの「協定」であった。そういうわけで、イエスがサタンに与えられ、そうしてようやくこの段階の働きは終了する。しかし、今日の神の贖いの働きはすでに先例のない壮大なものであり、サタンが要求する理由はまったくないので、神の受肉は聖霊による受胎を必要としない。神は本質的に聖で、罪がないからである。そこで、今回受肉した神はもはや恵みの時代のイエスではない。しかし、彼はまだ父なる神の心のため、父なる神の願望を満たすために存在する。どうしてこれを不合理な発言と考えることができるだろうか。神の受肉は一連の規則に従わなければならないのだろうか。
多くの人は聖書の中に証拠を求め、神の受肉の預言を見つけようとする。人の壊れた考えでは、神がずっと以前に聖書の中で「働く」のをやめて、聖書の外に「飛び出し」、長い間計画しながら人には決して話したことのない働きを嬉々として行うことをどうして知ることができようか。人々はあまりにも理知が欠けている。神の性質を味わっただけで、その後高い演台に気軽に登り、高級な車いすに座り、神の働きを調査し、仰々しい、とりとめのない話で神を教育し始めさえする。「老人」の多くは読書用眼鏡をかけ、あごひげを撫でながら、生涯読んでいる黄色くなった「古い年鑑」(聖書)を開く。言葉をぼそぼそつぶやき、一見したところ目を輝かせながら、老人はヨハネの黙示録を見たり、ダニエル書を見たり、世界的に知られているイザヤ書を見たりする。小さな言葉がいっぱい詰まった頁から黙読し始め、頭は絶え間なく回転している。突然ひげを撫でている手が止まり、髭をひっぱり始める。ときどきひげのちぎられる音が聞こえる。このようなまれな行動が人を面食らわせる。「なぜそのような力を使うのか。何にそんなに怒っているのか。」老人に目を戻すと、彼の眉は今や逆立っている。白髪になった眉は、老人の目がカビの生えたようなページにくぎ付けになっている時、あたかも偶然のようだが完壁に、ガチョウの羽のようにこの老人のまぶたからきっかり二センチのところに着地している。老人は同じ一連の行動を数回繰り返してから、どうしようもなくてさっと立ち上がると、視線は年鑑から離れていないが、あたかも誰かと世間話[4]をするかのようにおしゃべりを始める。突然、今開いているページを覆い隠し、「別の世界」の方に向く。動きはとても慌ただしくて恐ろしいものなので、人々を唖然とさせそうなくらいである。やがて、穴から出てきて、老人の沈黙中「自由を感じ」始めていたネズミが老人のいつにない動きにびっくりして、穴に走って戻り、跡形もなく消える。今や老人の動きのない左手はひげを撫でる上下運動を再開する。彼は本を机の上に置いて席を離れる。少し開いている扉と開いている窓を通して風が吹いてきて、無造作に繰り返し本を閉じたり、開けたりする。この光景には言葉で表せない絶望感があり、本のページが風でガサガサいう音を除いて、すべては沈黙に陥ったように見える。老人は両手を背に回して握り締め、部屋をゆっくり歩き、立ち止まったかと思うと、歩き出し、時々頭を振って、見たところ「おお、神よ。あなたは本当にそれをなさるのですか」と繰り返している。また時々、頷いて「おお、神よ。誰があなたの働きを理解することができるのでしょう。あなたの足跡を捜すのは難しくありませんか。私はあなたが不合理なことはなさらないと信じています」と言う。やがて老人は眉根を寄せ、目をぎゅっとつぶり、あたかもゆっくり熟考したいかのように、当惑した顔つきになり、かなり苦しそうな表情も見せる。これは本当にこの「立派な老人」を挑発している。人生のこの最後の段階で、老人は「不運にも」この問題に出くわした。それについて何ができるだろう。わたしも当惑し、何かする力はない。だれが彼の古い年鑑を黄ばませたのだろう。誰が彼の顔のあちらこちらに無情にもあごひげと眉を白雪のように伸びさせたのだろう。まるであごひげが彼の経歴を表しているかのようである。しかし、人はこれ程まで愚かになって、古い年鑑の中に神の存在を捜すなどと誰が知っていただろうか。古い年鑑は一体何ページあるのだろうか。本当に神の行いのすべてが記録されているのだろうか。誰があえてそれを保証するのだろうか。人は実際、神の出現を探し求め、神の心をかなえようと過度に言葉を分析[5]する。このようにしていのちに入ろうとするのは言うほど容易なことなのだろうか。これは不合理で、誤った推論ではないだろうか。あなたはこれを滑稽だと思わないのだろうか。
脚注:
1.「曖昧」は、人々が神の働きについて明確な識見をもっていないことを示す。
2.「極めて力が小さく、細心の注意を払わねばならず」は、肉体の困難は多すぎて、行われる働きはあまりに限られていることを示す。
3.「非常に有名な」は、揶揄した表現である。いかに多くの宗教的でたらめの専門家が黄ばんだ「古い年鑑」を神として崇めているかに言及している。
4.「世間話」は、人々が神の働きを研究する時の醜い顔の隠喩である。
5.「過度に言葉を分析する」は、言葉の些細なことにこだわるが、真理を求めず、あるいは聖霊の働きを知らないでたらめの専門家を揶揄するために使われている。 |
言葉は肉において現れる
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働きと入ること(9) 深く根付いた民族的伝統と精神的姿勢が、人間の純粋な子供のような心に影を落として久しい。あたかも感情や自我の意識が全く欠如しているかのように、人間性のかけらもなく人の魂を攻撃してきた。これら悪魔のそんなやり方は極めて残忍であり、それはあたかも「教育」と「育成」が、魔王が人間を殺す伝統的方法になったかのようである。魔王は自らの「深遠な教え」を用いて、その醜悪な魂を隠し、羊の皮を被って人間の信頼を得てから、人間が寝ている隙を利用して、人間を完全にむさぼり食う。人間は何と哀れであろうか。自分が育った大地が悪魔の大地であることや、自分を育てた者が自分の敵であり、自分を傷つける者であることを、どうして人間が知り得ようか。しかし人間は全く目覚めない。人間は、飢えと渇きを十分に満たしたので、自分を育ててくれた「両親」の「厚情」に報いる用意をする。人間とは、そうしたものである。現在、人間は、自分を育てた王が自分の敵であることを、未だに知らない。地には死者の骨が散在し、悪魔が絶え間なく浮かれ騒ぎ、「暗黒の陰府」で人間の肉をむさぼり食い続け、墓で人間の骸骨と共に居て、いたみ切った人間の身体が残されていればそれを食べようとうぬぼれた努力をしている。しかし、人間は無知なままであり、悪魔を敵として扱ったことが無く、むしろ心から悪魔に仕えている。このように腐敗した国民は、神を知ることなど到底出来ない。神にとって、受肉してそんな人々の中に来て救いのすべての働きを行うのは、容易であろうか。既に陰府に陥った人間が、どうして神の要求を満たすことが出来ようか。人間の働きのために神は多くの眠れぬ夜を過ごした。神は、遥かな高みから深淵へ、人間が生活する生き地獄まで降りて、人間と共に過ごし、決して人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりせず、自ら働きを行いながら最大の屈辱に耐えている。どうして神が地獄に居られたのだろうか。どうして神は地獄で生活できたのであろうか。しかし、全人類のため、全人類が早く安らぎを得られるように、地上に来るために神は屈辱を受け、不義を受け、人間を救うために自らが「地獄」と「陰府」、すなわち虎穴に入った。どうして神に反抗する資格が人間にあろうか。どうして神について再度不平を述べる理由が人間にあろうか。どうして人間は厚かましくも神を再び見上げられるであろうか。天の神は、最も不浄な悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言わず、人間の略奪[1]や抑圧を黙って受けた。神は、人間の不合理な要求に報復することも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をすることも無かった。神は単に、教えること、啓くこと、咎めること、言葉の精錬、注意を喚起すること、勧告すること、慰めること、裁くこと、現すことなど、人間により要求される働きを不平を言わずに行う。神の段階のうち、どれが人間のいのちのためでは無かったであろうか。神は人間の見通しや運命を取り去ったが、神が行った段階のうち、どれが人間の運命のためでは無かったであろうか。その段階のうち、どれが人間の生存のためでは無かったであろうか。どれが夜のように黒い闇の勢力がもたらす苦難や抑圧から人間を解放するためでは無かったであろうか。どれが人間のためでは無かったであろうか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。神の情熱的な心と熱心な期待は、冷酷な心と冷淡かつ無関心な眼差し、人間による非難と侮辱の繰り返し、辛辣な言葉と皮肉、蔑みの報いを受け、嘲笑、横暴と拒否、誤解と愚痴、拒絶と拒否、裏切りと攻撃、そして憤慨で応じられている。温かい言葉には、敵意の表情と冷淡な不満の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は、それを忍んで頭を下げ、命令されるままの牛のように人々に仕えるしか無い。[2]神はいくつの陽と月、いくつの星を見上げたことであろうか。神は何度日の出と共に去り、父の元を去った時の苦しみの千倍におよぶ苦難と、人間の攻撃と破壊、取り扱いと刈り込みに堪え忍び、日の入りと共に戻って眠れぬ夜を過ごしたことであろうか。神の謙遜と慎ましさは、人間の偏見[3]、不当な意見や処遇で応じられ、また神の匿名性と忍耐強さ、寛容さは、人間の強欲な眼差しで報いられ、人間は遺恨無く神を踏みにじり、殺そうとする。神を扱う人間の姿勢は、「希な聡明さ」の類いのものであり、人間に虐待され侮蔑された神は、無数の人間の足で踏みつぶされ、その下で平らになっている一方で、人間は意気揚々として立ち、それはあたかも城に住む王のようであり、そして絶対的な権力の掌握[4]を望むかのようであり、陰で宮廷を設け、神を誠実で規則に従い、逆らったり問題を起こすことを許されない裏方の主事にしようとしているようである。神は『末代皇帝』の役を演じ、何の自由も無い操り人形[5]にならなければならない。人間の所行は筆舌に尽くしがたい。それならば、どうして神に対してあれこれと要求する資格が人間にあろうか。どうして神に対して提案する資格が人間にあろうか。どうして人間の弱点に同情することを神に対して要求する資格が人間にあろうか。どうして人間が神の憐れみを授かるのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の寛大さを何度も得るのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の赦しを何度も得るのにふさわしいであろうか。人間の良心はどこにあるのか。人間は遥か昔に神の心を傷つけ、それを砕け散ったままにして久しい。神は、それが少しの温厚さしか伴わなくても、人間が神に優しく接することを期待して、生き生きと眼を輝かせ、溌剌として人間の中に来た。しかし、神の心が人間により安らげられるのに手間取っており、神が受けてきたのは、激化を続ける[6]攻撃と苦悩のみである。人間の心は過度に貪欲であり、人間の欲望は大きすぎ、人間は決して飽き足りることが無く、常に悪意を抱き、無鉄砲であり、神に対して言論の自由や権利を決して与えず、神に対して恥辱に屈服し、人間が神を好きなように操らせることを余儀無くしている。
創造時から現在に至るまで、神は極めて大きな痛みと無数の攻撃を受けて来た。しかし、現在も人間の神に対する要求は衰えることなく、神を研究し、神に対して容赦せず、神に対して勧告し、批判し、鍛錬するだけで、それはあたかも神が誤った道を歩み、地上にある神が残忍で不合理であったり、奔放に振る舞ったり、結局無意味になったりするのを深く恐れているかのようである。人間は、神に対して常にこうした姿勢であった。それが神を悲しませないことが、どうしてあろうか。神は、受肉することにより甚大な苦痛と恥辱を受けたが、その上に、神に人間の教えを受け容れさせることは、どれほど酷いことであろうか。神は、人間の元へ来たことが原因で、全ての自由を奪われたが、それはあたかも神が陰府に捕らわれ、人間による分析を全く抵抗せずに受け容れたかのようである。それは恥辱ではないだろうか。常人の家庭に来たことで、イエスは最大の不義を受けた。それにも増して恥辱的なこととして、イエスはこの汚れた世に来て、深みの底までへりくだり、至って普通の肉を受けた。至高の神は、劣った人間となるにあたり、苦難を受けるのではなかろうか。そしてそれは、全て人間のためではなかろうか。神が自らのことを考えたことがあっただろうか。彼はユダヤ人に拒否されて殺され、人々に愚弄され、嘲笑されても、天に不平を言ったり地に反抗したりすることは無かった。現在、こうした数千年前の悲劇が、ユダヤ人のような人々の間で再発している。そうした者は、かつてと同じ罪を犯しているのではなかろうか。神の約束を人間が授かる資格が、どうしてあろうか。人間は神に反抗して、その後に神の恵みを授かるのではなかろうか。人間が正義と向き合い、真理を探し求める事が決して無いのは、何故だろうか。人間は何故、神のすることに関心を抱かないのだろうか。人間の義はどこにあるのか。人間の公正さはどこにあるのか。人間は厚かましくも神を代表するつもりなのか。人間の正義感はどこにあるのか。人間が愛するもののうち、どの程度が神に愛されているであろうか。人間はチョークとチーズを見分けることが出来ず[7]、常に白黒を混同し、義と真理を抑圧し、不公平と不義を空高く掲げる。人間は光を退け、闇の中で踊る。真理と正義を求める者は、それに反して光を退け、神を求める者は神を踏みつけて自らを空高く昇らせる。人間は盗賊[8]同然である。人間の理知はどこにあるのか。誰が善悪を区別できようか。誰が正義を守ることが出来ようか。誰が真理のために苦しむことを望むというのか。人間は悪徳かつ邪悪である。人間は神を十字架に架けて喝采し歓声を上げ、その叫びは続く。人間は鶏と犬のように結託して共謀し、自分達の国を建て、人間の干渉が及ばない場所は無く、また人間は目を閉じてくるったように吠え続け、皆一緒に閉じ込められて仰々しい雰囲気が充満し、騒々しく活気がある。また他人を慕う者が絶えず、そうした者は皆祖先の「輝かしい」名声を掲げている。こうした犬と鶏は、遥か昔に神を心の奥へ押しやり、神の心境に対して配慮したことは一度も無い。人間は犬や鶏のようであり、他の百匹の犬も吠えさせる吠える犬のようである、と神が言ったのも不思議ではない。そのようにして、神の働きがどのようなものか、正義があるかどうか、神には足がかりとなる余地があるか、明日どうなるか、自分の卑しさや汚れを無視して、人間は仰々しい謳い文句で神の働きを現代にもたらした。人間は物事をそれほど深く考えたことも、明日のことを懸念したことも無く、有益で貴い物事を集めて自分のものとし、神には屑と残飯[9]しか残さなかった。人間は何と残忍なことであろうか。人間は神に対して何も感じる事が無く、神のもつ全てを隠れてむさぼった後、神を自分の後ろに放り投げ、神の存在にそれ以上留意することは無い。人間は神を享受しつつ神に背き、神を踏みつける一方で口では神に感謝し、神を称える。人間は神に祈り、神をよりどころとしつつ、神を欺く。人間は神の名を「讃え」て神の顔を見上げるが、それと同時に厚かましく恥知らずに神の玉座に座り、神の「不義」を非難する。人間は口では神に負債があると言って神の言葉を眺めるが、心の中では神を罵る。人間は神に対して「寛容である」が、神を抑圧しつつ、口ではそれが神のためと言う。人間は神の物事を手に握り、口では神に与えられた食べ物を噛むが、人間の眼はあたかも神をむさぼり尽くすことを望んでいるかのように冷酷で無情な眼差しで神を見る。人間は真理を見るが、それがサタンの謀だと言うことにこだわる。人間は義を見るが、それを強制的に自制に変える。人間は人間の行いを見るが、それが神というものであると言い張る。人間は人間に与えられた天賦の才を見るが、それが真理であると言い張る。人間は神の業を見て、それが傲慢さであり、自惚れであり、虚勢であり、独善であると言い張る。人間が神を見る時、神を人間と呼ぶことを主張し、サタンと共謀する創造物の座に納めようと懸命になる。人間は、それらが神の発言であることを十分承知しているが、それは人間の書き記したもの以外の何物でもないと言う。人間は、神の霊が肉となって現れていること、神が受肉していることを十分承知しているが、単にその肉はサタンの末裔[10]であると言う。神は慎ましく隠れていることを十分承知しているが、単にサタンが恥辱を与えられ、神が勝利したと言う。なんと役立たずな者達であろうか。人間は番犬として仕える価値さえ無い。人間は白黒を見分けることが出来ず、さらには黒を白だと故意に曲解している。人間の勢力と人間による包囲は、神の解放の日を持ち堪えることが出来るだろうか。人間は神に対して故意に反抗し、神への配慮はほとんどされず、さらには神が自らを現す隙さえ与えずに、神を死に追いやるほどである。義はどこにあるのか。愛はどこにあるのか。人間は神の傍らにありつつ、神に対して跪いて許しを請い、人間の采配に全て従い、人間の策略に黙って従うよう迫り、神のすること全てにおいて人間の指示に従わせており、そうならなかったならば人間は激昂して[11]怒り狂う。黒を白へとねじ曲げるような闇の影響下にあって、どうして神が悲しみにうちひしがれないでいられようか。どうして神が懸念せずにいられようか。神が最新の働きを始めた時、それが新時代の夜明けのようであると言われるのは何故だろうか。人間の行いは極めて「豊潤」であり、「枯れることのない生ける水の泉」が人間の心の土を間断なく「潤す」一方、人間の「生ける水の泉」はぬけぬけと神と競い合う。[12]両者は折り合いが付かず、その泉は何のためらいも無く神に代わって人間に施す一方、人間はそれに伴う危険に対して何の懸念することなく、その泉に加担する。それにはどのような効果があるのであろうか。人間は、神が人間の注意を引くことを恐れ、また神の生ける水の泉が人間を呼び寄せ、得ることを深く懸念して、神を冷淡に隅へ追いやり、人間が神を全く気に留めない所まで遠ざける。こうして、この世の懸念を長年にわたり経験した後、人間は神に対する謀略を企て、さらには神を非難対象とする。それはあたかも神が人間の目の中の丸太となったかのようであり、人間は神を掴んで火にくべて精錬し、清めようと必死になっているかのようである。神の苦難を見て、人間は腹を抱えて笑い、喜んで踊り、神も精錬するに至ったと言い、またあたかもそれが天の公平かつ公正なやり方であるかのように、神の不浄さをすっかり燃やして浄化すると言う。人間のこうした暴力的行為は、意図的かつ無意識のようである。人間は自らの醜い顔を現し、また忌まわしく汚れた魂と卑しむべき乞食の姿を現す。人間は、遍く猛り狂った後、哀れを極めたパグのように絶望的な様相で天の赦しを乞う。人間は常に予想外の行動を執り、「虎の威を借りて他人を脅し」[a]、暇があれば享楽に浸り、神の心に少しも配慮せず、自らの地位と比較することも無い。人間は黙って神に反抗し、それはあたかも神が人間を虐待しており、神は人間をそのように扱うべきではないかのようであり、また天が目を持たず、故意に人間にとって物事が困難となるようにしているかのようである。したがって、人間は悪徳な謀りを企て、神に対する要求を僅かでも譲ることが無く、物欲しげな眼差しで神の一挙一動を睨み、決して自らが神の敵であるとは考えず、神が霧を晴らして物事を明瞭にし、「虎の口」から人間を救い、人間のために報復する日が来ることを願っている。現在に至っても、人間は自らが依然として神の敵の役割を演じているとは考えて居ないが、時代を通して無数の人間がこの役割を演じてきている。人間は、自らの全ての業において久しく邪道を行き、かつて理解したことは海に飲み込まれていることを、どうして知ることが出来ようか。
今まで、誰が真理を受け容れたというのか。今まで、誰が神を両手を広げて歓迎したというのか。今まで、誰が神の出現を喜んで願ってきたというのか。人間の行動は長期にわたって腐敗し、人間の汚れのために神の宮が確認できない状態となって久しい。一方で、人間は自らの働きを依然として続け、神を蔑み続ける。それはあたかも、神に対する人間の反抗が石のように固まり、変える事が不可能であり、その結果、自分の言動を虐げるよりも呪われた方が良いと思っているかのようである。こうした人間が神を知る事がどうしで出来ようか。こうした人間が神と共に安らぎを見出すことがどうして出来ようか。また、こうした人間が神の前に来る資格が、どうして有り得ようか。神の経営(救いの)計画に献身することには全く問題が無いことは間違い無いが、人間は何故、神の働きと神の全容を心の奥へと追いやりつつ、自らの血と涙を無私に捧げるのだろうか。人間の無私な献身の精神が貴重であることは間違い無いが、自分が紡いでいる「絹」により神であるものを表すことが全く不可能であると知ることがどうして人間に出来るであろうか。人間の善良な意図は貴く希であることは間違い無いが、どうして人間は「計り知れない価値のある宝」[13]を呑み込むことが出来ようか。あなたがたは、それぞれ自分の過去を考える必要がある。すなわち、あなたがたが無情な刑罰と呪いから未だに逃れられないのは、何故だろうか。人間がそうした威厳ある言葉や義なる裁きと常にそうした「親しい間柄」にあるのは何故だろうか。神は本当に人間を試しているであろうか。神は故意に人間を精錬しているであろうか。そして人間は精錬の中で如何にしていのちに入るのであろうか。人間は本当に神の働きを知っているであろうか。神の働きと自らがいのちへ入ったことから人間が得た教訓は何だろうか。人間が神の勧告を忘れず、神の働きに関する識見を得て、それを揺るぎなく信じ、自らのいのちへの入りを適切に管理することを。
脚注:
1.「略奪」は人間の不従順さを現すために用いられている。
2.「敵意の表情と冷淡な不満の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は、それを忍んで頭を下げ、命令されるままの牛のように人々に仕えるしか無い」は原文では一文であるが、明瞭さを増すため、ここでは二文に分けてある。最初の文は人間の行為を指し、次の文は神が受けた苦難と、神が慎ましく隠れていることを示している。
3.「偏見」は人間の不従順な態度を指す。
4.「絶対的な権力の掌握」は人間の不従順な行動を指す。人間は自らを誇りとし、他の者を束縛し、自分に従わせ、自分のために苦難を受けるようにさせる。そうした者が神に敵対する勢力である。
5.「操り人形」は、神を知らない者を揶揄するために用いられている。
6.「激化を続ける」は、人間の卑しい行動を強調するために用いられている。
7.「チョークとチーズを見分けることが出来ない」は人間が神の旨を歪めてサタンのようなものにする場合のこと、広義には神を拒む人々の行動を指す。
8.「盗賊」は人間が非常識で識見が欠如していることを示すために用いられている。
9.「屑と残飯」は、人間が神を虐待する行動を示すために用いられている。
10.「末裔」は嘲笑的に用いられている。
11.「激昂して」は、激怒し、憤慨した醜悪な人間の顔を指す。
12.「ぬけぬけと」とは、人間が無謀になって神に対する畏敬の念が一切無くなった状態を指す。
13.「計り知れない価値のある宝」とは、神の全容を指す。
a. 中国語の慣用句。 |
過ちは人間を地獄へ送る わたしはあなたがたを征服するため、あなたがたに何度も警告し、多くの真理を与えた。現在、あなたがたは従前よりも豊かであると感じ、人間のあるべき姿の原則を多数理解し、信心深い者が備えるべき常識を多数得ているであろう。それが、あなたがたが現在まで何年もかけて得た物事である。あなたがたの成果は否定しないが、その長い年月の間におけるあなたがたのわたしに対する数々の反抗や反逆もまた否定しないと、率直に述べる必要がある。なぜなら、あなたがたのうちには聖人は居らず、例外無くサタンにより腐敗させられた人間であり、キリストの敵だからである。現在までのあなたがたの過ちと反抗は無数に有るので、わたしが自分自身の言った事を常に何度も繰り返していることは、少しも奇妙なことではない。わたしはあなたがたとそのように暮らしたくはないが、あなたがたの将来と終着点のため、ここでもう一度、従前述べたことを繰り返す。あなたがたがわたしの望みを叶えてくれること、それ以上に、あなたがたがわたしの言葉を全て信じることが出来ること、そしてさらにわたしの言葉の深い意味を推し量ることが出来ることを願っている。わたしの話に疑念を持たずに居ることや、勝手にわたしの言葉を選んで無視したりすることはさらにひどく、容赦できない。わたしの言葉を非難しないこと。ましてやわたしの言葉を軽視するのはなおのこと、わたしがいつもあなたがたを試しているなどと述べたり、さらにはあなたがたに対して述べた言葉が正確さに欠けるなどとは言わないこと。わたしはこれらの事柄を、容赦できない。あなたがたがわたしとわたしの話をそのような疑念をもって扱い、一切認めようとしないので、わたしはあなたがたそれぞれに対して真剣に言うが、わたしの話を哲学と関連づけたり、偽る者の嘘と一緒にしたり、わたしの言葉に侮蔑をもって応じたりしないこと。わたしがあなたがたに述べている物事を今後あなたがたに伝えたり、それほど慈悲深く語る事が出来る者や、ましてやそれらの要点を辛抱強く説明できる者は居ないであろう。今後の日々は、良き時代を回想し、むせび泣き、悲痛にうめきつつ過ごすか、あるいは暗い夜を、与えられた真理のかけらもいのちも無く過ごすか、あるいは単に絶望的に待って過ごすか、あるいは自分が不合理であることに関する苦い後悔の念とともに過ごすであろう。こうした可能性は、あなたがた各人にとって実質上不可避である。あなたがたのうちには、神を真に崇拝する立場の者は皆無であるからだ。あなたがたは放縦さと邪悪の世界に耽溺し、自分の考えや霊魂、身体に、いのちや真理とは無関係であり、また実際にはそれらに反する無数の物事を採り入れる。そうしたわけで、わたしがあなたがたに望むのは、あなたがたが光の道へ導かれることが出来ることである。あなたがたが自分を思いやり、世話をして、自分の終着点に重点を置きすぎず、自分の行動や過ちに対して無関心とならずに居られることが、わたしの望みの全てである。
現在まで長年にわたり神を信じている者は、美しい終着点を望んで来ており、神を信じる全ての者は、幸運が突然自分に訪れることを望み、また知らないうちに、天国のどこかで安らかに落ち着いていたいと願う。しかし、こうした美しい考えを持った人々は、自分がそのような幸運を得たり、天国で居場所を得たりする資格があるかどうかを知らないとわたしは言っておく。現在のあなたがたは十分に自分のことを知っているが、それでも終わりの日の災いを逃れ、邪悪な者たちを罰する全能者の手から逃れることが出来るよう願っている。美しい夢を抱き、快適な人生を望むことは、誰かの思いつきではなく、サタンが腐敗させた人々全員の共通点であるかのように思われる。そうであっても、わたしはあなたがたの途方もない欲望と祝福を得ることへの熱望に終止符を打ちたいと思う。あなたがたの過ちが多数有り、反抗した事実が多数あり、増え続ける一方であることを考えると、どうしてそうした事柄があなたがたの美しい未来像に含まれることが有り得るだろうか。自分が満足するままに誤ったままで生活を送ることを望み、自分を思い留まらせる物事が全く無いが、それでもなお夢を叶えたいというのであれば、朦朧としたまま意識を取り戻さないよう勧める。なぜなら、あなたの夢は空虚であり、義なる神の前において自分を例外とするためには役立たないからである。ただ夢を叶えたいのであれば、決して夢見ず、永遠に真理と事実を直視しなさい。あなたを救う方法は、これしかない。この方法には、具体的にはどのような項目があるだろうか。
最初の項目として、自分の過ちと、真理と一致しない行動、思想を全て検証する。
これは容易に実行できる項目であり、思考力のある者は、これを実行できるであろう。しかし、過ちと真理の意味を全く知らない者は、基本的に思考力が無い者なので、例外である。わたしは、神に認められ、正直であり、律法の重大な違反を犯したことが無く、自分の過ちを容易に認識できる人々に対して話をしている。これはわたしがあなたがたに要求する項目のうち、あなたがたにとって容易なものであるが、わたしが要求する項目はこれだけではない。あなたがたがいかなる場合もこの必要条件を個人的に笑い飛ばすことが無いこと、またそれにも増してそれを見下したり軽視したりしないことを願う。この項目を真剣に扱い、また無視してはならない。
2番目の項目として、自分の過ちと反抗の各事例について、それに相当する真理を探し、その真理でそれらの事例を解決させ、自らの過ちと反抗的な思想や行為を、真理の実践と置き換える。
3番目の項目として、常に賢く狡猾な者ではなく、正直者になるようにする。(この項目においても、わたしはあなたがたが正直者となることを求めている。)
この3項目全てを達成出来た場合、あなたは幸運であり、夢が叶う者であり、幸運を手にする者である。あなたがたはこの魅力に乏しい3つの項目を真剣に捉えるかも知れないし、無責任に扱うかも知れない。いずれにせよ、わたしの目的は、あなたがたの夢を叶え、自分の理想を実践することであり、あなたがたをからかったりばかにしたりすることではない。
わたしの要求は単純かもしれないが、わたしがあなたがたに伝えている事柄は、「1+1=2」といった単純なものでは無い。あなたがたがこの事柄について出鱈目に意味も無くとりとめの無い大袈裟な話をするだけであれば、あなたがたの将来的な計画と望みは、永遠に白紙のままであろう。長年にわたって苦しみ、大いに努力しているが、その結果を示すことが出来ない者に対し、わたしは全く憐憫を感じることはないだろう。それとは反対に、わたしの要求に満たない者に与えるのは罰であり、報いでも、いわんや同情でも無い。おそらくあなたがたは、長年にわたって付き従ってきた者として、何であれ大いに努力してきたので、いずれにせよ自分は効力者として神の家で1杯の米を得られると想像しているであろう。あなたがたのうち殆どの者がこのように考えると言える。なぜなら、あなたがたは現在に至るまで、常に自分が利用されるのを防ぎ、何かを利用する原理を追求してきたからである。それゆえに、ここで真剣に伝えるが、わたしは、あなたの大いなる努力がどれほど賞讃に値するか、あなたの資格がどれほど素晴らしいか、どれほど忠実にわたしに従っているか、どれほど名高く、あなたの姿勢がどれほど改善されたかは問わない。あなたがわたしの要求した物事を行わない限り、あなたは決してわたしの賞讃を得ることができないであろう。そうしたすべての考えや打算は出来るだけ早く捨て、わたしの要求を真剣に扱い始めるように。さもなければ、わたしはあらゆる者を灰にしてわたしの業を終えるか、せいぜいわたしの長年にわたる業と苦難を無に帰するであろう。なぜなら、わたしの敵と、邪悪の臭気を持ちサタンに倣う者をわたしの国すなわち次の段階に入らせることは出来ないからである。
わたしには多くの望みがある。わたしの願いは、あなたがたが適切かつ行儀良く振る舞い、忠実に自分の本分を尽くし、真理と人間性を備え、神のために全てを、そして人生を投げ打つことが出来ること、などがある。こうした望みは、全てあなたがたに欠如している物事と腐敗、反抗から生まれたものである。あなたがたとの従前の対話それぞれが、あなたがたの関心を集めるに十分でなかったならば、おそらくわたしは話を止めるしかないであろう。しかし、あなたがたはその結果どうなるかを理解している。わたしは休むことがないので、わたしが話をしていない場合は、人々が目を向ける何かをするだろう。わたしは誰かの舌を腐らせたり、身体を分断して死なせたり、誰かに神経の異常を起こして狂気の行動を取らせたりすることもできる。あるいは、一部の人々に、わたしが用意した苦悶を与えることもできる。そのようにすれば、わたしは喜び、きわめてうれしく、大いに満足するであろう。かつては常に「善には善、悪には悪をもって報いよ」のであったから、現在もそうであっていけないことがあろうか。あなたがわたしに反対し、何かわたしを非難したいのであれば、わたしはあなたの舌を腐らせるであろうし、それでわたしは限りなく満足するであろう。なぜなら、あなたは最終的に真理に関することを何もせず、いわんやいのちに関することは何もしなかったのに対し、わたしが行った業はすべて真理であり、わたしの業と、わたしが定めた律法の原則に相応だからである。したがって、あなたがた各人に対し、善い行いを積み重ね、極めて悪い行いを止め、時間がある時はわたしの要求に注意するよう強く勧める。そうであれば、わたしは喜びに満ちるであろう。あなたがたが肉に対して行う努力のうち、千分の一を真理に捧げる(ないしは献じる)のであれば、あなたは頻繁に過ちを犯さず、口が腐ることもないであろうと言っておく。これは明白ではなかろうか。
あなたの過ちが多ければ多いほど、あなたが良い終着点を得る確率は低くなる。それと反対に、あなたの過ちが少なければ少ないほど、あなたが神に賞讃される確率は高くなる。あなたの過ちが増えすぎて、わたしがあなたを許せなくなったとしたら、あなたは自分が赦される機会を完全に台無しにしたことになるであろう。その場合、あなたの終着点は、天ではなく地の下となるであろう。あなたがわたしを信じないのであれば、大胆に間違ったことをして、その結果を知るがよいだろう。あなたが真理を実践する熱意ある者であるならば、あなたには、自らの過ちの赦しを得る機会が確実にあり、反抗する回数がますます減ってゆくであろう。あなたが真理を実践することを望まない者であるならば、神の前における過ちは確実に増えてゆき、反抗する回数もさらに増加を続けて、終局的には完全に滅ぼされる時が来るであろう。そしてそれこそがまさに、祝福を受けるあなたの美しい夢が無に帰する時である。自分の過ちを、未熟で愚かな者のミスであるとは考えてはならず、また真理を実践しなかったのは、自分の器量が劣っているために真理を実践できなかったからであるという言い訳をしてもならない。またそれにもまして、自分が犯した過ちを、単に他になすすべを知らない者の行動であるように考えてはならない。あなたが自らを赦すのが得意であり、自らに寛大になるのが得意であれば、あなたは、決して真理を得る事の無い臆病者であり、あなたの過ちは決してあなたをつきまとうことをやめず、その過ちはあなたが真理の要求を満たすことを永遠に妨げ、あなたは永遠にサタンの忠実な仲間となるだろう、と言える。わたしの勧告は、依然として同じである。すなわち、自分の終着点のみに注意して隠された自分の過ちを見過ごしてはならない。自分の過ちを真剣に受け止め、終着点に関する懸念のために、自分の過ちを全て見過ごしてはならない。 |
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実践(2)
過去の時代には、人々は「神と共にあり、たえず霊の中で暮らす」ように自分を訓練したが、それは今日の実践に比べると単純な霊的訓練である。そのような実践は人々がいのちの正しい軌道に乗る前に行うもので、あらゆる実践方法の中で最も浅く、単純なものである。人々が神を信じ始めた初期の段階の実践といえる。人々が常にこの実践に従って暮らすならば、あまりにも多くの感情を持つようになり、深遠で真実な経験に入り込むことができなくなる。彼らは単に自分を霊的に訓練することができるようになるだけで、自分の心が正常に神に近づける状態を保ち、常に神と共にあることにこの上ない喜びを見出しているだけである。神と一体感を持つという小さな世界に限定され、最も深遠なところに何があるか把握することはできないだろう。こうした境界の範囲内にしか暮らしていない人々は、大きく進歩することができない。いつでも、彼らはすぐに「ああ!主イエス。アーメン!」と叫ぶのだ。何か食べている時、彼らは「ああ、神様!私は食べ、あなたも食べます…」と叫ぶ。ほとんど毎日このような調子である。これが過去の時代の実践であり、いつも霊の中で暮らす実践である。これは低俗ではないだろうか?今日では、神の言葉を熟考する時は言葉を熟考するべきであり、真理を実行する時になったら実行するべきであり、任務を実行する時になったら実行するべきである。このような実践は非常に自由なので、あなたを解放してくれる。昔の宗教家が祈祷し、恵みを語る方法とは異なる。もちろん、以前は、これが神の存在を信じる人々が実践すると考えられていたやり方であった―しかし、いつもこのような形で実践することはあまりにも積極性に欠ける。過去の実践は今日の実践の基礎である。過ぎ去った時代の実践に通じる道があったならば、今日の実践はずっと容易になるだろう。では、今日、「神を現実の生活に持ち込む」と言う時、実践のどのような面を指しているのだろうか。「現実の生活」をするためには、基本的に人々が普通の人間性を持つことが必要である。人々が持つべきものは、今日神が人々に求めているものである。「神を現実の生活に持ち込むこと」の実際の意味は、神の言葉を現実の生活に持ち込むことだ。今日、人々は主として次のことを身につけるべきである。一つには、教育を受け、語彙を増やし、読書力を向上させて、自己の能力を改善させなければならない。また一つには、普通の人々の生活を送らなければならない。あなたは世俗の中から神の前に戻ってきたばかりであり、まず自らを霊的に訓練して、神の前で安らかであるように心を訓練しなければならない。これは最も基本的なことであり、変化を達成するための第1段階でもある。実践に順応性のある人々もいる。彼らは衣服を洗濯しながら、真理に思いを巡らし、理解すべき真理と生活で実践すべき原則を見出していく。一つにはあなたは普通の人間生活を送らなければならず、もう一方、真理に入り込まなければならない。これが現実の生活のための最善の実践である。
昔、人々はさまざまな困難に苦しんでいたが、その中には実は不必要なものもあった。人が実践する必要のないものも含まれていたからである。人々が神を現実の生活に持ち込む時、神は主として人々が普通の人間性の中で神を崇拝し、神の認識を追求し、神の被造物としての本分を尽くすことを求める。彼らは祈らなければ神に借りを作ると感じてしまい、床掃除を始めるとすぐに祈らなければならないということなどない。今日の実践はそのようなものではない。ゆったりしていて、容易である。人々は教義に従うことを要求されない。それぞれが個々の背丈に従って行動するべきである。あなたの夫が神を信じないならば、不信心者として扱い、信じるならば信心者として扱いなさい。愛と忍耐ではなく英知に重点を置きなさい。野菜を買うために外出し、歩きながら次のようにつぶやく人たちがいる。「おお、神よ。私は今日どのような野菜を買えばよろしいでしょうか。あなたの助けを求めます。買い物をしている時、選ぶべきでしょうか。」それから彼らは考える。「私は選びません。神は、私が神を称えること、すべてのものにおいて神の御名を称えること、すべての人が証をすることを求めておられる。それゆえ、売り手が私に古くて、干からびたものを渡したら、私はそれでも神に感謝し、忍耐します。神を信じる私たちは、どの野菜を買うかを選んだりしません。」あなたはこのように行動することが神に対する証だと考え、カビくさくしなびた野菜を買うために百円を使った後、それでも祈って、言う。「ああ、神よ。私はそれでもこの腐った野菜を食べます。あなたが私を受け入れてくださる限り、私は食べます。」そのような実践は馬鹿げていないだろうか。それは教義に従うことではないだろうか。以前、人々は自分の霊を訓練し、いつでも霊の中で暮らしていたが、これは恵みの時代になされた働きに関連していた。信心深さ、謙遜、愛、忍耐、すべてのものに感謝すること―これらは恵みの時代のすべての信者に求められることであった。当時、人々はあらゆることにおいて神に祈った。衣服を買う時に祈り、集会の知らせを受けた時もやはり祈って、次のように言ったものだった。おお、神よ。あなたは私が出かけることをお許しになりますか、なりませんか。あなたが行くことを許してくださるなら、私のために平坦な道を用意して、すべてが順調に進むようにしてください。私が行くことをお許しにならないなら、どうぞ私を転ばせてください。祈りながら、彼らは神に懇願した。祈った後、彼らは不安になり、行かなかった。戻ってきた時、信者ではない夫に殴られるのを恐れて、祈る時に不安を感じる姉妹たちもいた―彼女たちは不安を感じたので集会に行かなかった。これが神の心だと信じたが、彼女たちが実際に行ったとしても何事も起こらなかったであろう。結果として、彼女たちは集会を欠席した。このすべては人々自身の無知によって引き起こされた。このような形で実践している人々は、自分の感情で暮らしている。このような実践方法は誤りで、馬鹿げており、曖昧さしか含んでおらず、彼らの個人的感情や考えが多すぎる。集会があることを告げられたら、行きなさい。告げられなかったら、行くのはやめなさい。そのことについて告げられた時は、神に祈る必要はない。これは単純なことではないだろうか。もし今日、衣類を買う必要があれば、すぐ出かけて買えばよい。神に祈って、次のように言うのは、やめなさい。「おお、神よ。今日、私は衣類を買わなければなりませんが、私が買いに行くのを許してくださいますか、それともだめですか。どのような衣類を買うべきでしょうか。私が留守の時、姉妹の一人がたまたまやってきたらどうなるでしょう。」祈り、思案しながら、あなたはひとり言を言う。「私は今日出かけたくない。姉妹がやって来るかもしれないから。」しかし、夕方までにやって来た者は誰もおらず、あなたは多くのことを逃すという結果になった。恵みの時代でさえ、このような実践方法は誤りで正しくなかった。従って、人々が過ぎ去った時代のように実践すれば、彼らのいのちには何の変化も生じないだろう。彼らは単に従順なだけで、分別には何の注意も払わず、ただやみくもに従って、耐えるだけだろう。当時、人々は神を賛美することを重視していた―しかし、神は彼らから何の栄光も受けなかった。彼らは自分の生き方に何も現わさなかったし、変化しなかったからである。彼らはただ自分自身の観念に従って隷属し、自制しているだけで、多年にわたる実践でさえ、そのいのちに何の変化ももたらさなかった。彼らが知っているのは忍耐し、謙虚にし、愛し、許すことだけで、ほんのわずかでさえ聖霊によって教え導かれることはなかった。どうして彼らが神を知ることなどできようか。
人々は、神を自分たちの現実の生活、自分たちの普通の人間生活に持ちこんで初めて神への信仰の正しい進路に入るだろう。今日、神の言葉はあなた方を導き、過ぎ去った時代のように探し求めたり、模索したりする必要はない。あなたがこれらの言葉に従って実践することができ、わたしが指摘した言葉に従って内省し、自分を判断することができれば、あなたは変ることができるだろう。これは教義ではなく、神が人に要求することである。今日、わたしはあなたに肝心なことを告げる。わたしの言葉に従って行動することだけに関心を持ちなさい。わたしがあなたに要求することは、普通の人々の必要性に従っており、わたしはすでにあなたに次のことを語った。あなたが純粋にこのように実践することに重点を置けば、神の心に従うことができるだろう。今日は神の言葉の中で生きる時代である。神の言葉はすべてを説明しており、すべては明らかにされている。神の言葉に従って生きる限り、あなたは完全に自由で、解放された人生を送るだろう。以前、あなたが神をあなたの現実の生活に持ち込んだ時、あなたはあまりにも多くの教義と儀式を経験し、ほんの些細なことでさえ神に祈り、明確な言葉を、読みもしないで脇にどけて、すべての努力を探索に充てた―その結果は、何の効果もなかった。あなたが着たものを例にとってみよう。あなたが祈った時、この事柄を神の手に委ね、あなたが着るのにふわさしいものを選んでくださいと祈った。神はこれらの言葉を聞き、次のように言った。「あなたはわたしにそのようなつまらない些細なことに携わるよう求めるのか。わたしがあなたのために作り出した普通の人間性や理性はどこへ行ってしまったのか。」時々、自分が誤った行動をして神を怒らせたと考えて委縮し始める。状態がとてもよい人々もいるが、なにか些細なことを間違って行うと、神が彼らを厳しく罰していると考える。実のところ、これは神の働きではなく、人々自身の心の働きなのだ。時には、あなたが経験していることは何も間違っていないのに、他の人々があなたは正しい経験をしていないから、罰せられると言う―あなたは消極的で内心が暗くなる。しばしば、人々はこのように消極的な時、神に罰せられていると考えるが、神は言う。「わたしはあなたに刑罰を与えてはいないのに、どうしてそのように責めるのか。」人々は消極的すぎる。彼らはしばしば神経質になりすぎ、神について不平を言うこともよくある。神はあなたが苦しむことを要求しないが、あなたは自分自身をそのような状態に陥らせる。このように苦しむことには何の価値もない。人々は神のする働きを知らないので、多くのことについて無知であり、はっきり見ることができない。そのような時、彼らは自分の想像力に捕らわれ、いっそう深く巻き込まれていく。すべてのことは神の手の中にあると言う人々がいる―人々が消極的になっているのを神は知ることができないのだろうか。もちろん、神は知っている。あなたが人間的観念に陥っている時、聖霊はあなたの中で働くすべがない。何回も消極的状態に陥る人々もいるが、それでもわたしは働きを続行する。あなたが消極的であろうと、積極的であろうと、わたしはあなたによって引き止められることはなく、むしろ、わたしが話す多くの言葉、わたしが行う膨大な働きは人々の状態に密接に繋がっていることをあなたは知るべきである。あなたが消極的な時でも、それが聖霊の働きを邪魔することはない。刑罰や死の際、人々は皆消極的な状態に陥っていたが、このことはわたしの働きを止めなかった。あなたが消極的な時でも、聖霊は他の人々に対して必要な働きを続行した。あなたは一カ月間行き詰ったままであるかもしれないが、わたしは働き続ける―あなたが将来あるいは現在何をしようと、そのために聖霊の働きが停止されることはない。人間の弱さから生じる消極的な状況もある。人々は本当に何かができなかったり、把握することができなかったりする時、消極的になる。例えば、刑罰の時代、神の言葉は刑罰の間、ある程度神を愛することについて話した―しかし、あなたは自分には能力がないと信じていた。この状態の間、人々は特に悲嘆にくれ、嘆かわしい気分になった。自分の肉体がサタンにそんなにもひどく堕落させられていることを嘆き悲しみ、自分の力量は非常に貧しいと思い、自分がこのような環境に生まれたことはなんと残念なことかと感じていた。神を信じ、神を知るには遅すぎて、全き者にしてもらう価値はないと感じている人々もいた。こうしたことはすべて当たり前の状態である。
人の肉はサタンに属しており、不従順な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れており、不純なものである。人々は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは多過ぎ、そのため神は肉をある程度嫌っている。人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることでき、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。今日神がする働きは救いであり、さらに、裁き、刑罰、呪いもあり、多くの側面を持っている。神の言葉の中には裁きと刑罰だけでなく、呪いもあるのではないだろうか。わたしが話すのは効果を上げるため、人々に己を知らしめるためであり、人々を処刑するためではない。わたしの心はあなた方のためにある。話すことはわたしが働く方法の一つであり、神の性質を表すため、あなたに神の心を理解させるために言葉を使う。あなたの肉体は死ぬだろうが、あなたは霊と魂を持っている。人々が肉体しか持っていなかったら、神を信じても何の意味もないだろうし、わたしが行ってきたこの働きのすべてにも意味がないだろう。今日、わたしはひとつの話をし、また別の話をしている。ある時は人々に非常に憎しみに満ちた態度をとり、次の時には極めて愛情のこもった様子を示す。わたしがこうするのはあなたの性質を変え、あなたの観念を転換させるためである。
終わりの日が来て、世界中の国は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現し、人の世界は大惨事で、天は災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。しかし、人々にとっては陽気ですばらしい世界のように見え、ますますそうなっていくように思われる。人々が世界を見渡すと、彼らの心は惹きつけられ、多くの人はそこから抜け出すことができない。数多くの人が策略や妖術に携わっている人々に騙されるだろう。進歩しようと努力せず、理想もなければ、あなたはこの邪悪な波によって押し流されてしまうだろう。中国はすべての国のなかで最も後進的で、赤い大きな竜がとぐろを巻いている国であり、偶像を崇拝し、妖術に携わる人々、寺院を最も多く擁しており、不潔な悪魔が存在する場所である。あなたはそこに生まれ、その恩恵を享受し、堕落させられ、苦しめられているが、内省を経験した後、あなたはそれに背を向け、完全に神のものとされる。これは神の栄光であり、そこでこの段階の働きは非常な重要性を持つ。神はそれほど非常に大きなスケールの働きをなし、非常に多くの言葉を語り、最終的にあなた方を完全に自分のものとされる―これは神の経営する働きの一部であり、サタンとの戦いの「戦利品」である。これらの人々がますますよくなり、教会生活が力強くなるにつれ、赤い大きな竜はいっそう屈従させられる。これらは霊的世界の事柄で、霊的世界の戦いであり、神が勝利を得る時、サタンは辱められ、倒れる。この段階の神の働きは非常な重要性を持つ。このように大きなスケールの働きは完全にこのグループの人々を救う。あなたはサタンの影響から逃れ、聖地に暮らし、神の光の中で暮らし、光の指示と助言があり、そこであなたが生きている意味が出る。あなた方が食し、着るものは彼らとは異なり、あなた方は神の言葉を享受し、意味のある生活を送る―そして彼らは何を享受するのか。彼らは祖先の遺産と「国民精神」だけを享受している。彼らはほんのわずかな人間性の痕跡さえ持ち合わせない。あなた方の衣服、言葉、行動はすべて彼らのものとは異なる。最終的に、あなた方は完全に堕落を離れ、もはやサタンの誘惑を受けることはなくなり、神から日々の供給を得る。あなた方はいつも注意深くしていなければならない。あなた方は汚れた場所に暮らしているが、腐敗に汚されてはおらず、神と一緒に暮らし、神の偉大な保護を受けることができる。あなた方はこの黄色い大地のすべての人々の中から選ばれた。あなた方は最も祝福された人々ではないだろうか。被造物として、あなた方はもちろん神を崇拝し、意味のある生活を追求するべきである。あなた方が神を崇拝せず、汚れた肉体で暮らすならば、あなた方は人間の衣装を身に着けたただの獣ではないだろうか。人間として、あなたは神のために費やし、すべての苦しみに耐えるべきである。あなたは喜んで、確実に、今日直面している小さな苦しみを受け入れ、ヨブのように、ペテロのように、意味のある生活を送るべきである。この世で、人は悪魔の服をまとい、悪魔に与えられる食べ物を食べ、悪魔の言いなりになって働き、仕え、汚れの中で踏みにじられる。あなたが人生の意味、または真の道を把握しないならば、あなたの生きる意味は何だろう。あなた方は正しい道を追求する人々、成長を求める人々である。あなた方は赤い大きな竜のいる国で立ち上がる人々、神が義人と呼ぶ人々である。それは最も意味のある人生ではないだろうか。 |
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辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる
今日、あなたの神への愛はどのくらい大きなものであろうか。また、神があなたの内に為したあらゆる事のうち、あなたはどのくらいの事を知っているであろうか。あなたは、これらの事を知らなければならない。神が地上に来る時、神が人の内に為した事のすべて、そして神が人に理解させた事のすべては、人が神を愛し、真に神を知るようにするためのものである。人が神のために苦しむことができ、ここに至ることができたのは、ある意味では神の愛により、別の意味では神の救いによるのであり、さらには神が人の内に為した裁きと刑罰の働きによるのである。もしあなたがたが神の裁き、刑罰、試練を受けることがなければ、そして神があなたがたに苦しみを与えることがなければ、率直に言って、あなたがたが真に神を愛することはない。人の内に為された神の働きが大きいほど、そして人の苦しみが多いほど、神の働きがどれほど意義深いものかを示すことができ、同時に、その人の心はより真に神を愛することができる。人はどのように神の愛し方を学ぶのであろうか。苦痛や精錬なしに、また、つらい試練なしに──さらに、もし神が人に与えたものが恵みと愛と慈悲だけであったなら──神への真の愛を全うすることはできるであろうか。神による試練にあって、人は自らの欠点を知るに至り、自分は取るに足らない、軽蔑すべき、卑しい存在であり、自分には何もなく、自分は何物でもないことを知る一方、神による試練にあって、神は、人が神の素晴らしさをより良く経験できるような新しい環境を作り出す。苦痛は非常に大きく、時として乗り越えられない──さらには、身も心も打ち砕くような悲しみにまで達することもある──しかし、それを経験することで、人はその内にある神の働きがいかに素晴らしいかを知り、その礎の上にのみ、人の内に神への真の愛が生まれるのである。今日、人は神の恵みと愛と慈悲だけでは、真に自分を知ることはできず、ましてや人の本質も知ることができないのを知っている。神の精錬と裁きによってのみ、また、そのような精錬の中にあってのみ、自分の欠点を知り、自分には何もないことを知るのである。このように、人の神への愛は神の精錬と裁きという礎の上に築かれる。もしあなたが、平和な家庭生活や物質的祝福を伴う神の恵みのみを享受するのであれば、あなたは神を得ていないのであって、神への信心は成り立っていない。神は肉における恵みの働きを既に一段階行っており、人に物質的な恵みを既に与えている──しかし人は、恵みと愛と慈悲だけでは完全になれない。人は経験により神の愛の一部分に出会い、神の愛と慈悲を知るが、ある一定の期間経験すると、人は神の恵みと神の愛や慈悲では完全になれず、人の内にある邪悪さを明らかにすることもできず、またその邪悪な性質を取り除くことも、その愛と信仰を完全にすることもできないことを理解するのである。神の恵みの働きは一時の働きであった。神の恵みの享受に依存することで神を知ることはできないのである。
神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。一部の人々は理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う。神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうやって完全になれるのであろうか。神の働きを理解しない人々はそう話すのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく、少しの気遣いもなく、人の内にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の内にある本質を顕わにするが、神はその裁きを通じて人に肉体の本質についての深遠な認識を授け、それにより人は神の前に従順を示すのである。人の肉は罪から成り、サタンによるものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である──であるから、人に自分を理解させるためには、神の裁きの言葉が人にもたらされねばならず、あらゆる精錬が行われねばならない。それにより初めて神の働きは成果を生むのである。
神の語る言葉を通じて、神は既に人の肉を断罪したことが理解できる。それでは、その言葉は呪いの言葉なのであろうか。神により語られる言葉は人の本性を顕わにし、そのように顕わにされることにより裁かれる。そして、神の心を満足させられないと知った時、心の内に悲しみと悔恨を感じ、神に対し大きな恩があり、神の心に対し不十分であることを感じるのである。時として、聖霊は内からあなたを鍛錬することがあるが、この鍛錬は神の裁きから来るものである。時として神は、あなたを責め、あなたから顔を隠すことがある。また神は、あなたに注意を払わず、あなたの内で働くことなく、無言であなたを刑罰し、精錬することがある。人における神の働きは、主として義という神の性質を明らかにするためのものである。最終的に、人は神に対しどんな証しができるのか。神は義の神であり、その性質は義、怒り、刑罰、裁きであることを、人は証しするのである。人は、義という神の性質を証しするのである。神はその裁きをもって人を完全にし、愛し、救ってきたのである──しかし、神の愛にはどれだけのものが含まれているのであろうか。そこには裁き、威厳、怒り、呪いがある。神は過去に人を呪ったが、底なしの淵に完全に突き落としたわけではなく、そうした手段により人の信仰を精錬したのである。神は人を死に追いやったわけではなく、人を完全にするために行いを為したのである。肉の本質はサタンのものである──それは神が言った通りである──が、神が為した事実はその言葉通りではなかった。神が呪うのはあなたが神を愛するようになるためであり、肉の本質を知るようになるためである。神があなたを刑罰するのはあなたが目を覚ますためであり、内なる欠点を知らせ、人が全く価値のないことを知らせるためである。このように、神の呪い、裁き、威厳、怒りは、すべて人を完全にするためのものである。今日神が為すあらゆる事、あなたがたの内に神が顕かにする義なる性質──それは人を完全にするためのものである。神の愛はそのようなものである。
人の伝統的な概念において、神の愛は人の弱さに対する恵み、慈悲、憐みである。それらも神の愛であるが、それは余りに一方的であり、神が人を完全にするための主たる手段ではない。病気のせいで神を信じ始めた人がいるなら、その病気は神の恵みである。それなしでは、あなたは神を信じることはなかったからだ。そしてもし神を信じなかったら、ここまで到達しなかったであろう──そのような訳で、こうした病気による恵みでさえも神の愛なのである。イエスを信じる際においても、人々は真理を理解しなかったがために神に愛されないような事を多く行った。しかし、神には愛と慈悲があって人をここに至らせた。そして、人が何も理解しないにもかかわらず、神は人が神に従うのを許し、さらには人を今日にまで至らせたのである。これは神の愛ではないのか。神の性質に顕れるものは、神の愛である──これは全く正しい。教会建設がピークに達した時、神は効力者に対し一段階の働きをし、人を底なしの淵へと落とした。効力者の時代の言葉はすべてが呪いであった。肉に対する呪い、堕落したサタンのような性質に対する呪い、神の旨を満たさないあなたの行いに対する呪いであった。その段階で神が行った働きは威厳として顕れた。続いて間もなく神は刑罰という段階の働きを実行し、死の試練がもたらされた。そのような働きにあって、人は神の怒り、威厳、裁き、刑罰を知ったが、同時に神の恵み、神の愛と慈悲も知ったのである。神が為したすべての事、そして神の性質として顕れたすべては人への愛であり、神が為したすべての事は、人が必要とすることを満たすことであった。神がそれを為したのは人を完全にするためであり、人の霊的背丈に従って施したのである。神がそれを為さなかったならば、人は神の前に近づくことはできず、神の真の顔を知ることは全くできなかったであろう。人が最初に神を信じ始めた時から今日に至るまで、神は人の霊的背丈に沿って施し、人がその内にあって徐々に神を知るようにしたのである。今日に至って初めて人は神の裁きの素晴らしさに気づくのである。効力者に対する働きの段階は、創造の時から今日に至るまでで最初の呪いの働きの例であった。人は呪いにより底なしの淵に落とされた。もし神がそれを為さなかったらば、今日人は神に対する真の認識を得ていなかったであろう。神の呪いを通じてのみ、人は正式に神の性質に出会うのである。こうした経験は人に対し、人の忠心は受け入れ難いものであり、その霊的背丈は余りに小さく、神の旨を満足させられず、神を満足させると常に言っているその主張は言葉に過ぎないことを教えたのである。効力者に対する働きの段階において神は人を呪いはしたが、今日見てみると、その働きの段階は素晴らしいものであった。それは人にとって素晴らしい転機となり、いのちの性質を大きく変えたからである。効力者の時代以前、人はいのちを追求することや神を信じること、神の働きにおける神の知恵といったものに関して何も知らず、神の働きが人を試すことができることも理解できなかった。効力者の時代から今日に至るまで、神の働きがいかに素晴らしいか、いかにそれが人知を超えているか、そして神がどのように働くか、人間の知能では想像できないことを知り、さらに自分の霊的背丈がいかに小さく、あまりにも不従順であることを知っている。神が人を呪った時、それはある効果を得るために為したのであり、人を死に追いやることはなかった。神は人を呪いはしたものの、それは言葉によって行われたのであり、神の呪いは実際に人に災いをもたらすことはなかった。なぜなら、神が呪ったのは人の不従順であり、従って神の呪いの言葉は人を完全にするためでもあったからである。神が人を裁く際も、呪う際も、それは人間を完全にする。どちらも人の内にある穢れたものを完全にするためのものである。この手段により人は精錬され、人の内に欠けているものは神の言葉と働きを通して完全にされる。神の働きのどの段階も、厳しい言葉であれ、裁きであれ、刑罰であれ、人を完全にする、あくまで適切なものである。あらゆる時代を通じ神はこのような働きを為したことはない。今日、神はあなたがたの内にあって働いているので、あなたがたは神の知恵を理解できた。あなたがたは内にある何らかの苦痛を味わってはいるものの、心は堅固で、平安である。神のこの段階の働きを享受できるのはあなたがたにとって祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、今日あなたがたの内に神の働きとして理解できるものは愛である。人が神の裁きと精錬を経験しないならば、その行いと熱い思いは常に外にあり、その性質は常に変わらないであろう。そんな状態は、神に得られたと言えるであろうか。今日、人の内にはまだ傲慢やうぬぼれが多くあるものの、その性質は以前よりずっと安定している。神があなたを取り扱うのはあなたを救うためであり、取り扱われる際には苦痛を感じることはあっても、あなたの性質に変化が起こる日はやってくるのである。その時、あなたは振り返って神の働きがいかに賢明であるかを知る。その時にあなたは真に神の旨を理解できるのである。今日、ある人々は神の旨を理解していると言っている──しかし、それは全く現実的でなく、でたらめなことを言っているのである。なぜなら、神の旨が人を救うためのものか、それとも呪うためのものか、この時点でその人々はまだわかっていないからである。多分あなたがたは、今ははっきりとわからないだろう。しかし、神の栄光が現れる日が来たとわかり、神を愛することがいかに意義深いことであるかがわかり、それにより人生を知り、あなたの肉は神を愛する世界に生きる。あなたの霊は解放され、あなたの生活は歓びに溢れ、常に神のそば近くで神を見上げる、そういう日がやがて来るであろう。その時あなたは、今日の神の働きがいかに価値あるものかを真に理解するであろう。
今日、大抵の人々はそのような認識を持っていない。そういう人々は、苦しみには価値がなく、自分は世の中から見捨てられており、家庭生活には問題があり、神に愛されておらず、将来は暗いと考えている。一部の人々にあっては、苦しみがある点に達し、死を考えるようになる。しかし、それは真の神への愛ではない。そうした人は臆病者であり、忍耐力を持たず、弱く、無力なのである。神は人に愛されることを強く願っているが、人が神を愛するほどその苦しみは大きく、より愛すればより人の試練も大きくなる。もしあなたが神を愛すれば、あらゆる苦しみがあなたにもたらされるであろう──そしてもし神を愛さなければ、多分何もかもが順調にゆき、あなたの周囲では何もかもが平和であろう。あなたが神を愛する時、周囲の多くの事が克服し難く、あなたの霊的背丈があまりにも小さいために精錬され、神を満足させることができないと感じるであろう。神の旨はあまりにも崇高で、人の及ばぬところにあると感じるであろう。そうした事すべてのために、あなたは精錬されるのである──内に弱さが多くあり、神の旨を満足させられないものが多くあるため、内を精錬されるのである。しかし、あなたがたは、穢れは精錬によってしか拭い去れないとはっきり知らなければならない。このように、終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである。誘惑を受けたら、「私の心は神のものであり、神は既に私を得た。私はあなたを満足させることはできない──私のすべてをもって神が満足されるようにしなければならない」と言うべきである。神を満足させるほど、神はあなたに祝福を与え、神へのあなたの愛は強くなる。そして、信仰と決意を持ち、神を愛して生きることほど価値や意義があるものはないと思うであろう。神を愛すれば、悲しみがなくなるとも言える。肉が弱く、多くの深刻な問題に悩む時があっても、その間あなたは真に神に頼り、霊の内に慰めを得、確信を持ち、頼るものがあると感じるであろう。このようにして、あなたは多くの状況を克服することができ、降りかかる苦しみのために神に対し不平を言うことはないであろう。あなたは歌い、踊り、祈り、集って交わり、神のことを考えたいと思うであろう。そして、あなたの周囲にある、神によって整えられたすべての人々や物事はふさわしいものと感じるであろう。もしあなたが神を愛さないならば、見るものすべては退屈で、何も目を楽しませるものはない。霊にあっては自由がなく虐げられており、心では常に神に不平を言い、また、あまりにも悩みが大きく、あまりにも不当だと常に感じるであろう。幸福のために追求するのではなく、神を満足させ、サタンにそしられないために追求するのであれば、そうした追求は神を愛する多大な力を与えてくれる。人は神によって語られたすべてを為すことができ、人が為すすべての事は神を満足させることができる──これが現実性を持つということである。神を満足させることを追求するのは、神への愛をもって神の言葉を実践することである。いかなる時も──他者に力がない時でも──あなたの内にはまだ神を愛し、深く求め、その存在を懐かしむ心がある。これが現実の霊的身丈である。霊的身丈は、神への愛がいかに強いか、試練を受けたときにいかに堅固に立ち続けられるか、ある状況に陥った時に弱いかどうか、兄弟姉妹に受け入れられない時にも自分の立場を守れるかどうかにより決まる。現れる事実により、あなたの神への愛が実際どういうものであるかがわかるであろう。神の働きの多くから、神が本当に人を愛していることが理解できるが、人の霊の目は未だ完全には開いておらず、神の働きの多く、神の旨、そして神についての多くの素晴らしい事が見えないのである。神に対する人の真の愛はあまりにも小さい。あなたはずっと神を信じてきて、今日神は逃れる手段をすべて取り除いてしまった。現実的に言うと、あなたには正しい道を進むしか選択肢はない。その正しい道とは、神の厳しい裁きと最高の救いによりあなたが導かれてきた道である。苦難と精錬を経験して初めて、人は神の素晴らしさを知るのである。今日までの経験により、人は神の素晴らしさの一部を知るようになったと言える──しかし、人はあまりに不完全であるため、それでもまだ不十分である。神の素晴らしい働きと神がもたらすあらゆる苦しみの精錬を、人はさらに経験しなければならない。そうして初めて、人のいのちの性質を変えることができるのである。
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