火星姫とキノロバの恋物語

異文化との出会い そこで心はどのように繋がるのか

火星人

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「バッテリー」・・・見てきました。

よかった。それも、そうとうよかった。

そもそも、少年野球映画といえば、もうそれだけでお話しは分かってしまいますが、そして、この映画もまあそんな映画なんですが、それでもこの映画はよかった。

変な「気負い」とか「独りよがり」がまるでないのがいい。

鋭い風刺とか・・・
現代社会に対する進歩的な啓発・提言とか・・・
意表を突く展開とか・・・
迫真の名(?)演技とか・・・
ドラマチックな人間対立とか・・・
あっと驚く結末とか・・・
こっけいな演出で大爆笑とか・・・
盛り上がって涙滂沱とか・・・
肺腑をえぐるセリフとか・・・
華麗なカメラワークとか・・・

何というか、「ゲイジュツ臭」「思想臭」・・・のような臭いが何もないのがいい。

普通の物語が、普通の景色の中で、普通に物語られていく・・・

それが、実に心地よいのは

「普通の物語」が実によく練り上げられた「普通の物語」であり、

「普通の景色」が実によく選ばれた「普通の景色」であり、

「普通に物語る」が実によく計算された「普通に物語る」・・だからだと思う。

丁寧な職人仕事が、ゆったりした語り口で、破綻なく物語を紡いでいく。

だから、わたしは、安心してくつろいで映画の時間に身をゆだねることができました。
ありそうで、なかなかないのがこんな映画だなあ。

わたしはこういう映画が一番好きです。
昔々の、よき時代の松竹映画を見ているような気がしました。

木戸銭払う価値あり。

ただし、

「キネマ旬報」の愛読者・・・みたいな人には評価低いだろうなあ・・・きっと

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「それでも僕はやってない」

これは恐ろしかった。

登場する裁判官なんか「どろろ」の妖怪の100倍も不気味。

日本の司法に対する信頼が揺らぐような気がした。
映画作るんだったら、観客にこう思わせなければダメですね。

どうせフィクションと判っていても、恐がらせたり喜ばせたり悲しませたり・・・それがが映画だもの。

実は、わたし、子どもの頃は日本映画大好きだったんだけれど、70年代の半ばごろからかなあ・・・?
日本映画、ぱったりと面白くなくなった。

何を見てもつまらない。
あまりのくだらなさに、映画見ながら腹がたった。

それで、日本映画は盆暮れの寅さん以外見なくなってしまった。

それが、ここ数年、日本映画が少々元気になってきたようで、めでたいことです。

そうだ
「それでも僕はやってない」でしたね。
面白い映画には、格別言うべき言葉がない。
面白かった、といえば、十分です。

わたしは、混雑した電車に乗ることはほとんどないけれど、こんどラッシュアラーにあったら、両手は頭の上に上げておこうと思いました。

日本映画を2本見た。

選択の基準は、見た人のレビュー。

2本とも、平均☆4.5くらいの高評価。見ようという意欲が湧きました。

結果は・・・・・・

まず、「どろろ」

こんな映画、あってもいいです。でも、わたしの見る映画ではなかった。

ニュージーランドロケ・・・どうしても景色が「ロード・オブ・リング」や「ナルニア国物語」に似てしまうねえ・・・
谷の向こうに見える城は・・・「リング」の何といったか忘れたけれど、悪の城のようでもあり、「ハウルの歩く城」のようでもありました。

でも、それはいいです。
こんな映画もあっていい。

映画が始まってすぐ、離れた横の席からいびきが聞こえて来ました。
うるさいなあと思ってちょっとにらんだりしていると、そのうち聞こえなくなったので、よかったなあと思っていたら、そのおじさんは帰ってしまいました。

おじさんの気持ち、わかります。

映画の中で妖怪や怪物がやっつけられるとき、爆発して死ぬというのは、いつごろからパターンになったんでしょうか?
ウルトラマンからかなあ・・・?
仮面ライダーからかなあ・・・?
判らないけれど、妖怪や化け物は、このように簡単に爆発して死ぬようになってから恐くなくなってしまったと思う。

人間が死ぬときだって、いろいろ不可解なもの、不愉快なもの。気持ち悪いもの、恐しさを強く印象ずけながら死んでいく。
その上に、死体が残って、この死体というものがまた実に怖いし、始末に厄介。
(このへんの話、子どもにとって、と考えてください・・ほんとうは大人にとっても怖い)
ましてや妖怪が死ぬんなら、その何倍も恐ろしいものを振りまきながら死んでいくんだろうし、死ぬ間際の呪いのことばやら、撒き散らす毒やら、殺しても殺しても死に切れない恨みの形相やら・・・もっともっと恐ろしいはずだ。
それがあんなに簡単に、刀で一刺しされて、あっけなく爆発して死んでしまい、その上、飛び散った血糊さえ、あっという間に消えてなくなる・・・そんなあっけなさでいいんだろうか?

あんなあっさりした根性で、妖怪なんてやっていられるんだろうか?
あんな描き方は妖怪や化け物に失礼ではないのか?

殺しても殺しても死なないものは何か?
埋めても埋めても墓から這い出してくるものは何か?

それは人の心の執着であり欲である。
父にも、母にも、わたしにも、どうしようもなくあるもの。
普段は隠していても、その存在はだれも認めざるを得ない。
だから怖い。
人に知られたくないし、自分でも知りたくない。
だから、恐いものは常に闇の中にある。

主人公の百鬼丸の心は、もう十分に妖怪のものである。
しかし、映画は少しもそこに踏み込まない。
百鬼丸の心と妖怪の心は交わることなく、完全にこちらと向こう、二分割された世界だ。

あれでは、妖怪はどうしたって太刀打ちできない。
敵は理屈で攻めてくるんだから・・・・・
理屈じゃあないところでうごめいているのが、妖怪というものでしょう・・・

娯楽映画の肝要は、面白いかどうかです。
だから、映画は面白ければ、どんな荒唐無稽でも下品でも、一向に構わない。
面白ければいいんです。面白ければ。
問題は、この映画は面白くない、という、ただ一点。
映画の面白さはどこにあるのか?
解答用紙にはおそらく300以上の答えを書く欄が用意されているでしょうが、最初の欄には、こう書かなければいけない。

人間が描かれている。
映画は人間が描かれなけばいけない。
人間は人間が一番面白いのです。

現実はどうであれ、映画の場面に映し出された瞬間から、動物でも妖怪でも人形でも、擬似的な人間として観客には意識される。
だから、感情移入ができるのです。
わたし達は、感情移入できないものには興味を持てにようにできているのです。

仕方がない。

幽霊なんて本当はいないのに・・たぶん・・お岩さんはあんなに怖い。
彼女みたいな精神は実在すると強く信じられるからです。
だから面白い。

所詮はうその物語でも、もっとそのうそを本当らしく物語ってほしかったなあ・・・

とは言いながら、まあ、こんな映画もあっていいです。

子どもがFX見て喜ぶでしょうから・・・・

そう考えると、とても不思議。

この映画、PG-12指定だったでしょう。

大人の見る映画ではない。
子どもが見てはいけない。
とすると、だれに見せたかった映画だったんでしょう?

こんな映画をPG-12に指定した人は何を考えたんでしょうか?
不具者に対する配慮でしょうか?
だとすると、この方がよっぽど怖い話しですね。

全部書こうと思ったけれど、時間が遅くなってしまいました。

もう一本の感想は、あした書きます。

こんな記事を読みました。

君が代伴奏命令は合憲、教諭の上告棄却…最高裁初判断

 東京都日野市の市立小学校の入学式で、「君が代」のピアノ伴奏を拒否したことを理由に懲戒処分を受けた音楽科の女性教諭(53)が、「伴奏を指示した校長の職務命令は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」として、都教育委員会に処分の取り消しを求めた訴訟の上告審判決が27日、最高裁第3小法廷であった。

 那須弘平裁判長は、職務命令を合憲と判断した上で、教諭の上告を棄却した。教諭の敗訴が確定した。

 入学式や卒業式の国旗掲揚や国歌斉唱を巡っては、起立や斉唱、ピアノ伴奏を拒否して処分された教職員ら延べ950人以上が、各地の教育委員会を相手取り、訴訟を起こしているが、一連の訴訟で、最高裁が判断を示したのは初めて。

・・・・・
こんな誰が考えても当然の判決にいたるまで、どれほどのエネルギーとお金が注がれたことか。
それを考えると、むなしいような、ばかばかしいような、言いようもない重い思いにとらわれる。

例えば、この音楽の先生が勤務している学校に、ブッシュと胡錦涛が一緒に訪問したとして、彼女はピアノで、中国国歌は演奏してもアメリカ国歌は演奏しないというのでしょうか?
いや、アメリカ国歌も中国国歌も演奏するけれど、日本の国歌は演奏しないというのでしょうか?

例えば、オーケストラの団員が、わたしはワーグナーのは問題があるから演奏しません、と言うことが許されるんだろうか?

例えば、古関裕而は軍歌を作曲したから、「昼の憩い」や「日曜名作座」に古関裕而の音楽を使っているNHKは軍国主義的だと抗議するんだろうか?

ピアノで歌の伴奏をする。
それって、仕事でしょう?
違いますか?
好きな音楽と、信じる思想を表現する音楽だけを演奏する。
それ以外は拒否・・・こんな音楽家っているんだろうか?

いや、間違えた。
彼女は、先生なんだから、教育者なんだ。
自分の信念を持つのはいいとして、たかだか君が代の演奏に、こんなにも不寛容。
100人いれば100人、違う考え方を持った生徒たちに、押し付けでない指導ができるんだろうか?

新聞記事を読んで想像してしまった。

今夜、彼女たちの仲間が集まって、目を吊り上げて怒鳴っている。

日本の司法制度がいかに体制に迎合しているか・・・
日本の教育がいかに思想統制されつつあるか・・・
日本がいかに軍国主義の道を歩みつつあるか・・・

彼女のお仲間に言いたい。

よく目を開けて世界を見てください。

確かに、今、日本は危機にあるかもしれない、しかし、その危機はどこにあるのか?
あなた方こそが、その原因の一端を担っている・・・・・と、わたしは思いますよ。

水魚・・・・・?

海のこと書いたら水魚を思い出した。

水魚は深海魚・・・・・・らしい

台風一過の砂浜には、よく水魚が打ち上げられていた。

体長は一メートルくらいかな?
もっと大きかったかもしれない。

波打ち際で、波にもまれながらうごめいていた。

台風のせいで海がかき回されて、海のそこでのんびり暮らしていたのに、海面近く運ばれてしまったのだ。

深海魚は、いったん浮かび上がってしまうと、浮き袋が膨張してしまい、もう二度と深海に帰ることができない。

まだ死に切れず、波の寄せてひくままに転がっていた。

大きな目に鋭い歯。

怖い顔だったけれど、苦しそうでかわいそうだったから、尻尾を持って、一生懸命沖に返そうとしたけれど、もう泳ぐ力は残っていなかった。

そのうちに砂浜に打ち上げられて死んでしまう。

もう死んだかな、と思って、けったり踏んだりした。

腹の辺りを踏むと、大きな口がガッと開いて、何匹も魚を吐き出した。

不思議な気分だった。

食べた魚も、食べられた魚も、結局死んでしまった。

生きるための営みとはいったいどんな意味があるんだろうかと、子供心に考えさせられたものでした。

なぜ水魚というのか?

不思議なことに、浜に打ち上げられて何時間か、日に晒されると、この魚は溶けて水になってしまう。

こんなこと本当にあるのかな?

わたしは、自分の目で見たはずなのに、信じられない気がする。

火星姫へ

火星姫さん

安心してくだい。

あなたが望めば、それは正しい・・・とおもう。

あのう、皆様とキノロバに質問があります。



今火星に日本人の留学生が一人来ています。

友人Tです。

昨日空港まで行って迎えに行きました。

今、いったん学校のホテルに泊まって、3月4日寮に引越しをします。

昨日晩御飯ともにして、わたしいろいろ喋り過ぎてしまっていた。

一人で火星にいて寂しかったです。

誰かと話をしたかった。

そして、明日のお昼会社から3時間ぐらいの休みを取って、

Tのホテルに行きます。

Tは、今日、火星語ほとんどできないし、

一人でレストランで食事ができたでしょうか、

ものすごく心配です。

一人で寂しいでしょうか、わたしが何をすればいいでしょうか、どうすればいいでしょうか、と少しわからなくなっています。

わたしは、毎晩彼を連れ出して、一緒に食事してもいいですか?

日本人は、一人でいたいとか、面倒くさいとか、嫌がらないですか?

火星人

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椿が咲いていますね。

子どもの頃、5年間を過ごした海辺の村は、どの家も椿の生垣だった。

二間しかない小さな家だったけれど、狭い庭があって、縁側でぼんやりしていると、生垣の椿の花を縫って飛びながら、目白が遊んでいた。

友人と松林や砂の坂で遊ぶのも楽しかったけれど、一人でぼんやり空や海を見ているのも好きだった。

眠くなると、適当な大きさの石を枕に寝転がる。

誰もいない海辺で、潮騒を聞きながら空を見上げると、大きな雲が浮かんでいる。

つい昨日のようです。

それがもう、あの日々から半世紀近い歳月が過ぎてしまった。

時間がたつのは何も不思議ではない。

不思議なのは、わたしの気持ちがあの海辺で空を見ていた日から、少しも変わっていないことだ。

それは、年はとってそれなりの顔になった。
ごみのような知識も増えた。
自分の人生と折り合って生きていこうという、世知もいくらか身についたかもしれない。

しかし、本質的なものは何も変わってない・・・・・ような気がする。

少なくとも、あの日から重要な進歩は少しもない・・・・・ような気がする。

何してきたんだろうなあ・・・

あ、後悔したり反省しているわけではありません。

セコセコ常に活動していないと時間を無駄にしていると思ってしまうような強迫観念は、わたしにはありませんから・・・

ただ、純粋に、空や海はいいなあと思っているだけです。

火星姫はまだ海を見たことがない。

火星姫と一緒に海を見たいなあと思うだけです。

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この写真が、中国のラーメンです。

見た目は確かに日本のものとあまり変わらないけれど、味は全く別物。

さて、

中国南方では麺類は北方ほど多くありません。

そもそも「面食」とは、小麦粉を使って作った主食のこと(だから小籠包も餃子も面食なんです)、北方の主食で、南方では米が主食です。

麺も、南では米の粉で作った「粉」というものを好んで食べます。
だから、店もたくさんあります。「粉店」といいます。

これは見た目うどんで、口当たりはとでも滑らかなのですが、歯ごたえも腰も全くないので、わたしはあまり好きではない。

「粉店」は日本の蕎麦屋によく似ています。

蕎麦屋にそばとうどんがあるように、「粉店」には「粉」と「面(小麦粉で作った麺)」の2種類があって、好みで注文します。
例えば、「牛肉粉」 「牛肉面」・・・というように。
トッピングとスープの味は同じだけれど、麺の種類が違うというわけです。

この南の町で、百数十年の伝統を誇る「粉店」で初めて「肉絲麺」を食べたとき、本当にびっくりした。

これは日本のラーメンじゃないか。

スープといい、麺といい、一昔前の、最も伝統的なラーメンと同じだ。

と思いました。

そして美味しい。
とても美味しい。
奇抜なところはひとつもない。
平凡いえばごく平凡。
子どもの頃食べていたラーメンはこうだったよなあ・・・・・懐かしさすら覚えました。
ところが、この平凡がただの平凡ではない。
雑味がひとつもないすっきりした味わい。
麺も細くて上品、噛むほどに穀物の香りがする。

この麺は延ばして作ったものではなく、切ったものです。
だから、ラーメンではない。
名前も、ただ「面」とだけ呼ばれています。
蕎麦屋の主役はそば、「粉店」の主役は「粉」
「面」は南ではちょっと影の薄い存在かもしれません。

それが日本のラーメンそっくり。
これはいったいどうしたことか?

最初は、この店の「面」が特別美味しいのかと思ったけれど、何軒か食べ歩いて、多少のうまいまずいはあるにしても、やっぱりこの地方の「面」は基本的に同じだと確認しました。

思うに、日本のラーメンのルーツは、北方の「拉面」ではなく、南方の「面」なんではないでしょうか。

考えて見れば、日本と中国との関係は、伝統的に南との方が強いようです。

きっとラーメンは、南から渡ってきたのです。

そういえば、昔は「ラーメン」といわず、「支那そば」「中華そば」何ていってましたね。
それがいつの間にか、ラーメンになってしまった。

ものの名前が変化するのはよくあることですが、
それにしても、南方系の「面」に北方系の「ラーメン」という呼び名が定着したのでしょうか?

これがわたしの疑問です。

ご存知の方がいらしたら、教えてください。

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