|
5.工業化の多様性ー風土や歴史との関係
農業では、土地と作物と労働が結合している。土地は風土に規定され、作物は栽培植物と家畜、労働は技術を伴う。風土は移転できず、時の流れは逆行しないが、作物は伝播し、南北アメリカ・地中海沿岸・南ア連邦産の柑橘(かんきつ)は、アジア原産のものがシルクロードを経て伝播したものである。
作物と同様に、栽培技術も伝播する。犁(すき)は、中世に大陸から渡来したが、乾燥地帯の長床犁で多湿な日本には適合しなかった。近世には備中鍬で深耕し、明治になって短小犁が開発される。殖産興業で導入した、西欧の作物や技術の多くも定着しなかった。戦後の中型機械一貫体系の稲作技術は、風土に適応するよう改良される。コンバインの脱穀方法でも、叩(たた)くのではなく扱(こ)くという技術を継承している。
ブラジルの柑橘など途上国の農業では、植民地時代に、宗主国の農耕文化を導入し、モノカルチャー化・プランテーション農業・一次産品問題などが、外から他成的に形成された。和魂洋才や和洋折衷など、文化伝播の歴史は、安直な文化の受容を戒めている。
農耕時代の国民経済は、農業が中心である。農本主義とは、本来アダム・スミスの言う国民経済の基礎に、農業を置くものであった。貿易立国のフェニキュアやカルタゴ、 植民地の農業に基礎をおいたローマが衰亡し、農業の基礎を欠く国民経済の弱さを教えている。
農工が分離して工業化が進むと、国民経済は農業に加えて工業が主な骨組みを形成する。スペインは、羊毛の産地で毛織物工業が発展し、製品は新大陸との貿易で銀と交換されたが、貿易立国によって、毛織物工業が衰退し席をオランダに譲る。オランダは、中継加工貿易の基地をアムステルダムに置き、東インド会社によって世界に雄飛したが、イギリスの工業化によって崩壊し、アムステルダムはロンドンに座を奪われた。
イギリスは、国民経済の骨組みである自国の工業を大切にし、縦横の分業が自然に展開し、表裏に局地市場圏(地域的な市場)を形成している。イギリスの国民経済は、重商主義と呼ばれたが、内容は国内の工業を大切にする重工主義であった。
最初に工業化を達成したイギリスは、工業製品を独占的に世界に売るため自由貿易を唱える。工業化の遅れたドイツなどヨーロッパ諸国やアメリカは、保護貿易によって工業化を図った。アメリカの独立戦争は、工業化のための保護貿易に起因し、南北戦争では南部の農産物の自由貿易と、工業化を進める北部の保護貿易が対立している。
第二次大戦までの列強間の戦争は、工業製品の販売・原料市場である植民地の争奪に起因し、植民地の多くは原料農産物に生産を抑制された。マハトマ・ガンジーは糸車で糸を紡ぎ、キューバの砂糖などモノカルチャーや一次産品への傾斜が始まる。戦前までの自由貿易は、自国の工業製品を自由に売り、植民地や他国の工業化を抑圧した。
日本の工業化は、西欧技術の導入と政府の主導を軸に、風土と歴史への適応が課題となり、国営企業や政商・独自の総合商社を生み出した。農工の並進が不十分で農村は低賃金のプールとなり、民富を形成し得ず市場の懐を小さくして、大都市集中や商品作農業の輸出志向を招いいている。
また古代から中世の都市は、行政と交通の都市で、王朝文学に描(えが)かれた都風の生活は、鄙(ひな)と蔑(さげす)まれた地方に依存していた。
近世の都市は、武士と町人の江戸、京・大阪を頂点とする城下町都市で、領国内の農村と結合している。都市の形成は、生活を生産から切り離すが、近世までの都市は、農村との繋(つな)がりを残している。
明治の近代都市は、四大工業地帯を軸とする商工業都市で、新政府の官僚や企業家が主導した。開国工業化は、城下町を核とした地域市場を、全国的な統一市場に統合し、海外貿易と植民地市場を展開する。
工業化は、農業に比し生態系の違いから、風土や歴史に規定されることが少ないが、技術の受容・移転で、伝統との融合や重層化・衰退が避けられない。特に渡来技術が、産業構造−国民経済を形成し、国民生活と社会の構成や価値観を変える点を重視したい。
国民経済で、GDPの定式は、次の式で示される。
(国民経済)(企業)(家計)(財政) (海外)
国内総生産=投資+消費+政府支出+輸出−輸入
Y = I+ C+ G +EX−IM
工業化には、企業部門の設備投資とともに、財政部門の社会資本投資や国営化、海外からの外資導入があり、イギリスの産業革命、日本の殖産興業・ソ連の国営工業化、中国の改革・開放政策が対応する。
発展段階論は、西欧からの遅れに視点を置き、日本の文化様式や社会構成・価値観を問わなかった。だがイギリスを追い越したドイツやアメリカも、マイスター制度やフォード システム・移民労働力の存在など、独自の国内資源を活用し工業化を発展させている。日本でも、お雇い外国人による西欧技術の導入・殖産興業政策の一方で、大原 孫三郎や豊田 佐吉の業績がある。
また「雁行形態」と呼ばれるアジアの工業化も、「上からと下から」「外からと内から」の関係は共通している。「ネズミを捕るネコはよいネコ」で、工業化は政府による上からでも、外資による外からでも可能なのである。二つの関係は、グローバル化の進展で、世界の国が当面している課題ではないだろうか。
6.成功神話と経済大国に欠けるのは
近世幕藩体制は、信玄・清正の治山・治水と太閤検地を軸に、農業生産力が進展して形成されたが、中世の大陸貿易や南蛮貿易は、大航海時代に入り朝鮮出兵や鎖国へと屈折している。またペリーの来航で鎖国の眠りから覚めた日本は、富国強兵−列強の仲間入り以外の道を考える余裕を持たなかった。列強がアジア支配を強める中で、開国工業化ー脱亜入欧・富国強兵の道を歩み、征韓論から日清・日露を経て、アジアに進出し無惨な敗戦を招いたのである。
司馬史観を始め成功神話とは、近代日本が列強アジア支配に仲間入りしたことを指し、昭和以後の大陸侵攻と区分している。明治維新から一次大戦までの近代日本を成功と捉える歴史認識は、戦後の経済大国志向、バブルの崩壊・経済敗戦や、戦争責任・靖国・歴史教科書・領土問題などにも引き継がれてきた。日本の成功神話の根底に、何があるのだろうか。
アダム スミスは、富の源泉を人間の労働に求め、分業の利益を基礎に置いた。国富論の市場圏では、分業で生産された商品が、「見えざる手」によって交換される。国民経済は、産業の優先順位を農業−工業−国内商業−外国貿易とし、実物経済の視点から、貨幣(金・銀)視点の重商主義を批判して自由貿易を提唱している。
分業の範囲である市場圏が、国民経済の圏域を超えた海外貿易では、国内市場における商品間の価格差−リカドーの比較優位を、拠(よ)り所とする裁定取引となる。「比較優位論」は、産業革命により世界の工場となったイギリスが、自国の工業製品輸出を促進するための理論であった。
イギリスの工業化は、動力機械化の技術革新と賃労働の形成−農村労働力の工業への移動−都市における農産物市場の拡大が軸であった。減少した農業労働力で増大した需要を賄うには、農産物の輸入拡大か、国内農業の生産性−生産力を高めるしかなく、農工の並進が課題となる。三圃式から輪栽式へ−農牧複合・輪作農法の進展は、農業革命といわれイギリス工業化の基礎をなしていた。
農業革命では放牧地が囲い込まれ、輪作の高度化と畜産との結合が工業化と並進する農業の生産力を高めた。アメリカの工業化を支えたのも、農牧複合・輪作農業を継承した、フロンティア農業と移民労働力であった。
日本の工業化は、多湿と褶曲(しゅうきょく)山脈の風土に適応できる農法変革、灌漑や輪作と放牧を軸に、田畑輪換と林牧複合農業への進展が課題であった。だが明治農法は、乾田馬耕の田畑二毛作で、地租改正と河川法の水利体系が田畑と林野の結合を分断し、田畑輪換や林牧複合の農法変革に進展できなかった。地租改正が、農業をフロンティアの林野から閉め出し、河川法がイノベーションを制約したといえる。農工は並進せず農村が低賃金のプールとなって、民富を形成できず市場の懐を小さくして、大都市集中や商品作農業の輸出志向を招いた。戦後の工業化でも、近代化農法は動力機械化・化学化という工業技術の農業導入に終始し、国民経済は農産物の輸入に依存している。
成功神話に欠けているのは、アダム スミスの産業の優先順位を農業−工業−国内商業−外国貿易とする、国民経済の視点ではないだろうか。平成の地方分権も、同じ視角が必要である。
|