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自然と人間を「活かし・つなぐ」補完原理社会と複眼のリアリズム
1.「環境で世界の共感獲得」は可能か
日本の国際競争力は、自動車・家電など省エネ・環境技術など、物づくりの工業技術力が支えてきた。
それは 日本の風土と歴史が生み出した、フロンティアに位置する稲作農耕文化を土台にしている。青木
昌彦は、「環境で世界の共感獲得」(07.1.4日本経済新聞)で、この優れた工業技術力を、有機農法・水
資源の循環利用・伝統工芸技術の見直し・家計の消費パターンや生活技術など、人間活動のあらゆる分野
に広げ、グローバル化に「正面から向き合うこと」を提起している。
だが工業文明の技術開発は、それを人間活動の全分野に広げて、温暖化など地球の環境問題が打開でき
るだろうか。そこでは、西欧的な進歩史観に立った自然と人間の関係が問われている。自然と人間の生態
系を再構築するには、逆に利便優先の工業技術様式を見直して、補完的に位置づけねばならない。また市
場のグローバル化は、物資の輸送や労働力の移動で、自然環境や人間社会に影響を及ぼしており、これに
正面から向き合う必要がある。
次に青木は、「ひと口にグローバル化といっても、市場の経済統合にとどまらず、組織の多国籍化、サ
イバー空間のクモの巣のような広がり、地球環境の共用(争奪)など、様々な側面がある。また国際的な
協定や連携、武力行使などの国境を越えた行為も、もはや国民国家の概念を規定した17世紀のウェスト
ファリア条約のモデルにのっとり国民国家間のみで起きる、とは限らない」と言う。
そして「国のかたちは、いろいろな個性を持った人たちの政治的・社会的・経済的関係のあり方につい
ての有形・無形の約束事の総体(レジーム)として存在する。だから、それがグローバル化の波の中で変
わるとしても、それは昔から今に至る人々の間の共通理解を反映して進化(ないしは退化)していく。い
わば、グローバル化の適応にも、「お国ぶり」とでも言ったものがある」と述べている。しかし、こうし
た適応が「グローバル化に正面で向き合う」ことだろうか。
青木は、「グローバル化の中で、市場原理のアメリカ追随や武士道の「品格」に替わって、日本のグロ
ーバルな政治経済戦略と普遍的なイデオロギー(価値観)として、省エネ・環境親和的な技術の卓越性と
共生的な価値観・生き方の発信」に、今後の「日本の進路」を求めている。それは、トヨタなど省エネ技
術志向の多国籍企業と、「美しい国」を掲げる日本政府そのものではないだろうか。そこでは、自然と人
間の営みである文化と、家族や共同体という基本的な社会の構成が見落とされている。
では、国のかたち(レジーム)の原点とは何だろうか。それは、自然と人間の関わり、人間と人間の関
わりである。私は、この新しい枠組みとして「小国主義の日本」を提起し、その基軸に自立と連携のネッ
トワークを据えた。そこでは自然と人間の生態系という視点から、旬や手作りを大切に、自然と人間が
「活かし・つながれ」、工業的技術は補完的に位置づけられる。また地産地消は、新しい自立と連携の市
場ネットワークにつながれる。
そして個人や企業と国民国家は、ムレと家族という人類の根源的な視点から社会構成が見直され、個人
と家族・日本型企業と集落共同体・それを補完する真の地方分権国家が再構築される。
また青木は、グローバル化の時代の価値観として「日本人がこれまでの歴史的経路の上で培った知恵、
作法、技、匠などを生かしつつも、・・・それをグローバルな規模で支えうる普遍的なイデオロギー(価
値観)」を提示する。それは、「80年代のイデオロギー対立、90年代のイデオロギー終焉、9.11
以後の反テロリズムと自由への戦い」を経て、「生活の質と両立した環境の保全や資源の節約との考え−
環境と共生的な価値観・生き方の発信」だと言う。
だが平和と並んで環境や共生は人類の願いではあつても、グローバル化の下で戦争や自然破壊、競争と
紛争が激化している現実を見ないわけにはいかない。これに対する具体的な取り組みには、内と外・現実
と理念・歴史と次代を視野に入れた、複眼のリアリズムの思考が必要ではないだろうか。
こうしてグローバル化は、自然と人間を「活かし・つなぐ」、自立と連携のネットワークの文化・技術
様式、個人と家族・日本型企業と集落共同体・それを補完する真の地方分権国家の社会構成、複眼的なリ
アリズムの価値観によって超克され変革の道が開かれる。
2.自然と人間、人間と人間の関わり
米科学史家トマス・クーンが提唱したパラダイム論は、技術革新・情報化社会・冷戦体制の崩壊など、
広い分野で抜本的変革が求められている時、専門の枠を超えて「基本的な枠組みの転換」という意味で使
われるようになった。筆者は、今西錦司の自然学が明らかにした生物社会の延長上に人類進化の歴史を置
き、経済・社会・価値規範を三位一体とする新しい枠組みを提起したい。
古くから、人間とは何かが問われてきた。動物から人類を特徴づけるのは、人間が自然を変え自然と共
生してきたことである。人間の営み─仕事と暮らしは、農耕や工業化などの文化と文明の技術様式を基軸
とし、これに対応して人間と人間の関係─社会は、家族・共同体・企業・国家などを構成してきた。そし
て人間と自然、人間と人間の関係の歯止め−社会規範として、宗教や政治・法律などの価値観が形成され
てきた。これに、戦後日本の研究者は重要な貢献をしている。
アフリカのサバンナで、サルのムレが直立二足歩行し、道具を使って狩猟を始めたことが、家族と共同
体(バンド)や言語を持った人類の誕生であった。狩猟時代に、共同体から家族が分化する。牧畜と農耕
が開始されると、共同体に蓄積された剰余生産物から支配関係が生まれた。今西の自然学は、「生物の社
会では対等な者同士は空間的時間的な棲み分けによって共存し、強者と弱者が一緒にいる社会では、順位
や分業をとおして、別な平衡を保っている」と言う生物社会の棲み分けを明らかにしている(今西錦司
『人類の誕生』)。
動物は形態を変えて進化するが、人間は生活様式−生業経済の諸類型を変えて環境に適応する。人類
は、長い狩猟(漁労)・採集生活を経て地球上に分散した後、風土に適応して遊牧と農耕の社会を開花さ
せた。遊牧はツンドラ、ステップ、砂漠・オアシス、サバンナで分化し、農耕は根栽、サバンナ、地中
海、新大陸の各文化が展開して、その系譜も多様なことが推論されている(梅棹忠夫『狩猟と遊牧の世
界』)。
中尾佐助も、農耕文化の起源が多元的なことを明らかにした。そして「種から胃袋まで」の農耕文化基
本複合と、祭祀や儀礼などの農耕文化複合を区分して、照葉樹林文化論を提唱している(中尾佐助『栽培
植物と農耕の起源』、『照葉樹林文化』)。サバンナ農耕文化は、夏作の雑穀を主作物に華北の畑地灌漑
やインドの農牧複合の農業となる。西欧の農業は地中海農耕文化として位置づけられ、根栽農耕文化や新
大陸農耕文化では牧畜や輪作、灌漑が余り進展していない。そこでは、文化の独自性と伝播─風土と歴史
の関係が農法を軸に把握されている。これを基礎に、商品の交換−市場経済が生まれ、産業革命以後の工
業化が現代の文明社会を構築してきたのである。
3.自然と人間を「活かし・つなぐ」、自立と連携のネットワーク
多湿な褶曲列島という日本の風土は、山(森林)と川と海―田と畑の結合した生態系―灌漑農法を軸
に、水の文化と伝統を育み歴史を刻んできた。治山・治水―水利体系が葉脈状に流域圏を形成し、谷々が
核となって農・林・漁業、マチとムラが結ばれる。大航海時代に鉄砲と聖書を伝え蒸気船による開国で、
日本に渡来した外国人が賛美した「美しい国」は、こうした自然と人間の生態系ー流域圏で結ばれた日本
列島であった。灌漑農業の豊かな生産力が、イエ・ムラ・クニ―地方の自立を可能にしたのである。
日本の工業化に対応する明治農法は、乾田馬耕の田畑二毛作で、地租改正と河川法の水利体系により田
畑と林野の連関が切断され、田畑輪換や林牧複合の農法変革に進展し得なかった。戦後の工業化でも、近
代化農法は動力機械化・化学化という工業技術の農業導入に終始し、国民経済は農産物の輸入に依存して
きた。
産業革命は、人間の手を動力機械に、情報革命は人間の頭脳をコンピュータに替えた。近代化農法を含
め、こうした工業的な技術様式は、人類に巨大な工業文明をもたらしたが、他方で公害や環境・放射能汚
染など、自然や人間生活との調和が問われている。これに対し灌漑や輪作と放牧などの農法は、日本の風
土に適応し、自然力―生態系を活用した技術様式と言える。四手井綱英『日本の森林』は、農業を半自然
の生態系、林・漁業を従自然の生態系と位置づけている。
環境や省エネ・循環型社会が言われるが、ハイテクやイノベーションも、自然と人間の生態系という視
点を欠いてはならない。グローバル化は、多国籍企業の世界的な規模の利益追求と言える。これに対し小
国主義の国民経済は、規模の利益と集積の利益を統合する。
集積の利益は、アダム スミスが分業の経済的効果に挙げた技能の熟練・移動の短縮・技術の革新に基
づき、自然と人間の営みを、活かし・つなぐものである。農業では、灌漑・輪作・放牧や産品や経営の複
合、産地の形成であり、工業ではスーパーコンピューターの規模の利益に替わったパソコンのネットワー
クを集積の利益に挙げることができる。地域経済・国民経済も、こうした自立と連携のネットワークで構
築される。GDPを形成する企業・家計・政府・海外の各部門や相互間でも、自立と互恵が並進し 、それが
グローバル化に替わって、国民経済を結ぶ世界共通の規範とならないだろうか。
(つづく)
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