さて、雁木坂を登り、左に行くと本丸への入口に向かえますが、ここで一旦左に足を向け、玉造口に向かいます。
こちらが、玉造口の跡です。
この玉造口は、大阪城の東南の出入り口に当たります。かつては、他の口と同じように、門の内側に石垣造りの枡形が造られ、上に多聞櫓が建っていましたが、多聞櫓は、慶応4年(明治元年・1868)の維新動乱に伴う大火により焼失しました。その後大阪城を管轄下に置いた陸軍の手により、枡形の石垣や焼け残った玉造門などが撤去されたため、現在では門の両脇の石組みしか残っていません。
ちなみに、「玉造」の地名は、古墳時代、勾玉管玉など装飾用の石を造った技術者集団「玉造部(たまつくりべ)」が、この南方に住んでいた事に由来するとされています。
玉造門を内側から眺めたところです。陸軍により枡形が撤去されてせいか、道は柵で区切られ、柵内は車道として利用されています。
そのせいか、門の内側の石垣(写真右側の辺り)が、妙に丸く整形されています。
玉造口に入る時、左側に見えるのが、この「一番櫓」。玉造口を防衛する櫓です。
かつて二の丸の南側には、一番から七番までの同じ形の櫓が建っていました。ところが、維新動乱や昭和の空襲により焼失し、現在はこの一番と六番のみが残っています。
(財団法人日本城郭協会編 1980「日本名城古写真集」新人物往来社)から引用
こちらは、昭和初期の一番櫓です。左にあるのは二番櫓。維新大火を免れましたが、昭和の空襲により焼失しました。
一番櫓を城内から見ます。元々は、同じ城内の乾櫓と同じ総二階造だったようですが、寛文8年(1668)の大改造で現在の姿になったと言われています。
それでは、玉造口から本丸を目指しましょう。
玉造口から本丸へは、現在は車道に沿って西に進めば行けますが、かつては、ここに「筋違い仕切り」の門がありました。一旦この門をくぐって玉造門の方角に進み、180度ターンしないと、本丸入口へは進めない仕組みになっていました。
写真右側の石垣が途中で切れていますが、本来は目の前の車道上を真っ直ぐ本丸堀まで伸びて仕切っていました。
前回も見ましたが、本丸の高石垣です。南側から見ると、南に較べて北側の地形が極端に低い事がわかります。
かつてこの本丸高石垣には、三層櫓と多聞櫓で林立していました。
(財団法人日本城郭協会編 1980「日本名城古写真集」新人物往来社)から引用
幕末はこんな感じだったようです。惜しくも維新動乱で焼失したようですが。ぜひ復元してほしいものです。
それでは、本丸に向かうとしましょうか。
高石垣を眺めた地点から、今度は視線を西に向けると、本丸への入口が見えます。ここはなぜか空堀となっています。中央奥に見える土橋を渡ると本丸です。
本丸入口西側の空堀です。堀自体が深いのか、それとも石垣の一つ一つが大きいのか、ちょっと縮尺感覚に違和感があります。
さて、それでは本丸に登りましょう。
続きはまた後ほど。
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