それでは、再び姫の門に戻り、北に向かいましょう。
今のところ、地図ではこうなっております。
(西ヶ谷泰弘編著 1995『城郭古写真資料集成 西国編』理工学社)から引用
姫の門を下ると、山里曲輪に到る枡形があります。山里曲輪から本丸に上がるには、山里口の出枡形と姫の門の内枡形、2つの枡形門を越えなければならないという、超堅固な造りです。
こちらは、出枡形の西から東を見た図。中央に開く口が山里曲輪に下る門跡です。
枡形の内側は、ほぼ全て雁木造りで仕上げられています。また、大阪城の特徴である「石狭間」と呼ばれる銃眼が石垣に施されています。
雁木をよく見ると、ポッカリと空いている所があります。これは、控え柱の跡ですね。なくなってしまった所はこうやって黒い物体を入れて処理してあります。
山里口出升形から天守閣を眺めます。姫の門まで割と勾配がある事がわかります。
こちらは、出枡形の東側から見た図。左側に見える入口が姫の門の枡形です。
姫の門の枡形の右手に、ポッカリと空いた入口が見えます。
これは、埋(うずみ)門で、奥の帯曲輪(隠し曲輪)へと通じています。
この帯曲輪は、大阪城内の帯曲輪は、玉造口東側とここの2ヶ所だけと言われています。江戸時代の文献によると、この2つの帯曲輪は秘密の抜け穴でつながっているという噂があったようです。
江戸時代、この帯曲輪には煙硝蔵が置かれており、誰もが入れる場所ではなかったようです。
淀城主の稲葉某が大坂城代に就任した時、城内巡視のためこの曲輪にも入りましたが、破損奉行の案内で定番と町奉行のみが同伴を許されたとか。
出枡形から帯曲輪を眺めます。以前の伝承とは打って変わり、すっかり憩いの場になっています。
本丸の北西部から先ほどの帯曲輪を眺めます。手前の石垣が帯曲輪です。
(西ヶ谷泰弘編著 1995『城郭古写真資料集成 西国編』理工学社)から引用
幕末はこのような状態になっていました。手前右側の白塀が帯曲輪、左側の白塀は山里口出枡形、右背後に見える多聞櫓が姫の門、左背後に見える三層櫓が鉄炮方預櫓(北の手櫓)です。いずれも、維新時の大火で焼失しました。
この時天守はないので、当然写真には写りません。
それでは、山里曲輪に降りてみましょう。
続きはまた後ほど。
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