山里出枡形から見た山里曲輪です。
内堀に囲まれた大阪城本丸のうち、天守北側の一段低い区域が山里曲輪です。今は何も建物は残っていませんが、江戸時代には菱形の2層櫓や枡形門などが建っていました。ここには1年交替で城を守衛する大名、山里加番(やまざとかばん)の主従が生活する小屋(公舎)が建てられていました。
引き継いだのは名称だけで、特に茶室とかはなかったようですね。
この名称は、豊臣時代に由来しており、豊臣秀吉には、この辺りに山里の風情を醸し出す松林や、桜・藤などの木々が茂り、いくつもの茶室が建っていたそうです。
その後大坂夏の陣では、秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと言われています。正確な位置はわからないそうですが。
山里曲輪から、先ほどの山里出枡形を見ます。しばらく見ない間に、ずいぶんバリアフリー化されてました。私が子供の頃はよくこの石段を登りましたが、いまはそれは叶わないようです。
山里曲輪の内部です。この辺りにかつて菱形の2層櫓が建っていました。内側までキッチリと石垣を積み上げています。
曲輪内では、石垣修理の際、強度がなくて取り替えられた刻印入りの石が展示されています。あと、なぜか私が行った日は、モデルさんの撮影会がありました(さすがにそれを撮るわけにはいかないので)。
山里曲輪の北側に築かれているのがこの山里口です。かつては多聞櫓が乗ってましたが、維新の大火で焼失しました。この維新大火の影響で石垣の石がけっこう燃えて劣化しているようですね。昔はそれをよく見たのですが、今はどんどん新しい石に替えられているようです。
山里口の枡形から天守を眺めます。この光景は現代だからできること。
二の丸から本丸を眺めます。手前に見えるのが極楽橋。維新動乱の際に焼失し、昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造りで再建されました。
名前の由来ですが、戦国時代、かつてこの辺りに石山本願寺があった事から名付けられたといわれています。
私が行った時は工事中で、止まって撮影する場所の余裕はありませんでした。
(西ヶ谷泰弘編著 1995『城郭古写真資料集成 西国編』理工学社)から引用
幕末はこんな感じだったようです。手前に見える欄干が旧極楽橋、その袂を固めるのが山里口門及び多聞櫓、奥に見えるのが、何度も登場する、本丸北方を固める鉄炮方預櫓(北の手櫓)です。
それでは。二の丸をまわってみましょう。
続きはまた後ほど。
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