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さて、それでは大手口から再度入城しましょう。
まずは縄張り図をご覧下さい。 (西ヶ谷泰弘編著 1995『城郭古写真資料集成 西国編』理工学社)から引用
まあ、こうやって見ると、大阪城の防備も半端じゃないですね。 こちらは、大手二の門です。高麗門及び左右の土塀は重要文化財に指定されています。寛永5年(1628)創建で、天明3年(1783)に大手多聞櫓が焼失した時も類焼を免れたとか。 目を左に転ずると、千貫(せんがん)櫓が守りを固めています。あまりの近さにちょっと恐い感じです。 千貫櫓は大阪城大手口を守る重要な隅櫓で、大手口に向かう敵を側面から攻撃する事ができます。 徳川大阪城再築工事が開始された元和6年(1620)、茶人で有名な小堀遠州により造られました。乾櫓と同様、徳川大阪城最古の建築物です。 名称の由来は、石山本願寺時代、織田信長が攻めあぐねた際、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士達の間で噂されたという逸話によるようです。 では、中に入りましょう。 大手二の門で有名なのが、この「継木(つぎき)」です。大正12年(1923)に行われた修理の際、当時の大工職人が技を競ったそうです。 柱の南北両面が「殺ぎ継ぎ」と呼ばれる山形と谷形の切り口を合わせたもの、東西両面は「蟻継ぎ」と呼ばれる継ぎ方です。 一見したところ、どうやって継いだのか不可思議ですが、後にX線で解明されたようです。 大手門の枡形です。何でも、40×50メートルの広さとか。保育園の運動場並みの広さです。 写真の下側になにやら礎石が見えます。 この大手口枡形の南側には、かつて市多聞と呼ばれる多聞櫓がありました。 大手口枡形内には定期的に商人の入城が許可され、この櫓の中で、一年交替で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれた事からこういう名が付いたようです。 維新大火で焼失し、現在の土塀は、その後に築かれたものです。現在は礎石のみが残されています。 大手二の門を入ってまず目を惹くのが、さきほどの枡形の広さ。そして多聞櫓下にある、この巨石です。 正面に位置する「大手見付石(おおてみつけいし)」は、表面積が29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、右の「大手三番石(おおてさんばんいし)」は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位。いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島と推定されています。 この部署は、当初は肥後藩主の加藤忠広が受け持ち、後に筑後久留米藩主の有馬豊氏が改築したようです。 そして巨石に圧倒されながら目をまた左に転ずると見えてくるのが、大手多聞櫓。 大手口枡形の石垣上に建つ櫓で、大門の上に建つ渡櫓と、その右側に直角に折れて接続する続櫓によって構成されています。 徳川大阪城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明3年(1783)焼失、嘉永元年に再建されました。 現存する多聞櫓では国内最大規模との事。 門の中から櫓を見てみました。確かこれって、非常時は上の床板を外して上から槍の雨が降って来るのではなかったのでしょうか。 それと、今はどうかわかりませんが、GWには毎年この大手多聞櫓と千貫櫓1階部分の一般公開がありました。3〜4回は行った記憶があります。 それでは、再度入城します。 あと少しなのですが、容量を超えてしまいました。 続きはまた後ほど。 ↑よろしければクリックお願いします。 |
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