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さて今回は、かの有名な名護屋城跡を訪問しました。
名護屋城は、東松浦半島の突端、名護屋浦と外津浦に挟まれた波戸岬のほぼ中心に位置しています。元々この辺りは、かつては松浦党が支配しており、松浦党に属していた名護屋氏の垣添城がありました。名護屋城は、その城を大規模に改築したもののようです。 この地に定めたのは、「朝鮮半島に最も近い」というのが一番大きな理由だそうです。まさに、朝鮮出兵のためだけに作られた城です。 場所はこちらになります。 詳しい地図で見る 築城については、朝鮮出兵を決めた豊臣秀吉が、加藤清正・小西行長・黒田長政の三者に築城を命じ、天正19年(1591)10月に着工、翌年3月には終了するという、非常にタイトなスケジュールで作られました。 縄張りは黒田如水が行ったそうです。標高約90mの本丸を中心とした渦郭式となっており、左回りの曲輪配置となっています。城域17万㎡という、当時としては大坂城に次ぐ大規模な城郭でした。 ただ、築城の開始時期については、以前は国内統一後の天正19年からと言われていましたが、最近の発掘調査で、城内の水手曲輪から「天正18年5月吉日」と刻まれた瓦が出土しました。天正18年といえば、4月には相模国の小田原城を包囲、7月に開城していますから、あの広大な小田原城包囲網を作りながら、一方ではすでに先の戦争を見越して築城を始めていた事が窺われます。 築城当初の普請は、九州の諸大名に命じられましたが、3月である程度完成した後は、九州以外の諸大名が内部普請等を行ったようで、最終的に完成したのは文禄元年の年末だそうです。「聚楽第に勝るとも劣らぬ華麗な城」と言われたそうです。 結局、朝鮮出兵は失敗に終わり、諸大名は在所へ帰り、朝鮮出兵のためだけに作られた名護屋城はその存在意義を失いました。城のあるほんの少しの間、この辺りは町屋などができて空前の賑わいだったようですが、その後どうなったのでしょうか。 秀吉の死の4年後、結局名護屋城は取り壊されて、櫓門などは寺沢広高により唐津城の建設に転用されたり、他の城や社寺へ転用されました。伊達政宗の築いた仙台城にも、かつて名護屋城本丸大手門を移築したと伝わる大手門がありました。 その後寛永14年に起こった島原の乱により、再び名護屋城は破壊されたそうですが、江戸時代の破壊についてははっきりしないそうです。 破壊についてですが、ただ単に建物を取り壊すだけでなく、石垣の重要箇所である隅石や石垣の天端を徹底的に壊している事がわかります。 この城の重要なポイントは、朝鮮出兵という目的のためごく短期間で築かれたので、当時の石垣の技術の推移などの物差しになる事です。また、ごく短期間で築かれたにも関わらず、工事途中で縄張りが変更になるなどの痕跡も見つかっています。 長らく名護屋城は謎の城でしたが、主に桃山時代から江戸時代にかけて描かれた絵画資料が2点だけあります。 こちらは、「名護屋城博物館所蔵本(名博本)」。狩野光信により描かれたのでは、と推測されています。製作年代は、描かれた内容の文禄2年5月頃からそれほど経っていない時期と言われています。 (2点とも「肥前名護屋城屏風の世界」から引用)
もう1つは、「群馬県個人所蔵本(群馬本)」。「唐津城図」とともに所蔵されており、明治初期に酒井家(旧伊勢崎藩主か?)から購入したものと言われている。製作時期は江戸時代後期の、いわゆる模本の類と推測されています。 それでは、早速行ってみましょう。 ちなみに、縄張り図はこのようになっております。 まず、入口で管理料100円を払って入ります。100円で結構楽しめますよ。 入口を抜けてまず見えてくるのが、壮大な石垣群。 名護屋城及び諸大名の陣屋の配置はこのようになっております。一山まるまる城になったようなもんですね。 現地の案内板から。今回は一山くまなく歩きます。 まず最初は大手口から行きましょう。 大手口の遠景です。間近で破城の痕跡を見ると迫力ありますね。作った方もですが、壊す方もよう壊せますね。 名護屋城には、大手・搦手・船手・水ノ手の4つの入り口が設けられています。このうち、大手口は、城の南東部に作られ、大手口から約100mの直線道路となっています。直線道路を経て東出丸に入った後、180度反転して三の丸の櫓門をくぐるという、他の入口は全て枡形になっているのに対し、全く作りが異なっています。 何か直線道路って、安土城跡みたいですね。 しかし、発掘調査の結果、不思議な事にこの大手口には、門どころか門の礎石の抜き取り跡すら見つかっていません。これだけ考えると櫓があるのみで門はなかった事になります。 また、東出丸に向かう直線道路の途中で、道に直交するように下層から石垣が出ている事から、この道が途中で造り替えられている可能性が高いようです。 大手口の三の丸側の石垣です。見事に隅石が崩されてます。 大手口の東にある櫓台には、小規模な櫓が建っていたと考えられています。また、この櫓の東側から、掘立柱建物の跡が見つかりました。 大手口の櫓から、これから進む大手道を眺めます。 続きはまた後ほど。 ↑よろしければクリックお願いします。 |
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こんばんは。おつかれさまです。この名護屋城ほどの迫力のある城は他にはないと思います。天下人秀吉の総力を結集した前線基地の様相が感じられますね。文化財の委員さんの研修や城郭の研究会などで3回ほど訪れています。
伊達政宗の陣跡の石垣は地元仙台では見られないので、わざわざここまで見に来ると聞いたことがあります。凄いですよね。
また担当になったので、機会を見つけて行ってみたいです。
2011/6/11(土) 午前 0:28 [ wao*ao0*07 ]
waowaoさん、おはようございます。
佐賀ってこっちからだと日帰りはきついですね。こんなに遠いとは思いませんでした。福岡の方が近かったなと行くまでは後悔しましたが、あの石垣を見た瞬間、そんなモヤモヤが吹き飛んでしまいました。
やっぱり石垣の城は見応えがあっていいですね。
陣屋は結局時間がなくてパスしました。次は陣屋巡りをしたいですね。
2011/6/11(土) 午前 5:51 [ 旅庵 ]
この城址から朝鮮へ向かったというお話や伝説が残っているのは
事実ですが。。。いまひとつ、学会は踏み出せない。そうなんです。
確定した訳ではないのです。ある説を用いるとこういった現状なんですが、学会も信頼性に薄いところが出てきました。直江謙次や上杉、伊達が来ていると言う事になっていますが、新たに出てきたのが家康、伊達、直江、上杉は名護屋に来ていないと言う事実が発覚しており。。。難しい問題となっております。
2011/6/11(土) 午後 4:20 [ - ]
初めまして。
へえ、そんな説になっているんですか。初耳でした。名護屋城博物館は韓国の展示ばっかりだったので、名護屋城の情報はあんまり入りませんでした。
こんなに有名な城郭なのに、意外とわからない事だらけなんですね。
2011/6/11(土) 午後 6:36 [ 旅庵 ]
おっしゃる通り、解らない事だらけなんです。ですから、韓国の貴重な資料があったので解読しているのですが、有名な小説家の方である火坂雅史「天地人」の作者も疑念を持っている様で、地元の観光客誘致のおとぎ話ではないかと豪語しております。
2011/6/12(日) 午前 9:39 [ - ]
おはようございます。しばらくPCを離れておりました。
てっきり築城時期がはっきりしているから、中身を割とはっきりしているんだと思ってましたが。秀吉ってけっこうわかっているよづえわからない事だらけですね。
この名護屋城も、何で短期間に改築ばっかりしているのか、とか、仰るように、今言っているように本当に大名が勢揃いしていたのか、調べれば調べるほど興味深い城ですね。
そう言えば、あの陣屋跡って、いつからああいう風に比定されていったんでしょうね。
2011/6/15(水) 午前 6:04 [ 旅庵 ]