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さて、お次は、戒壇院です。
観世音寺の所でも触れましたが、観世音寺には国内に3箇所(後に4箇所)しかない戒壇が作られました。その1つが、今回の戒壇院です。 ところが、設置されて以降、僧侶に対する授戒は行われていたものの、江戸時代までの来歴はよくわからないらしく、15世紀末にはかなり衰退していたようです。 江戸時代に入り、法隆寺などの僧による復興が始まり、その後福岡藩などの助力により、隣の観世音寺と共に復興されましたが、元禄16年(1703)、観世音寺の支配から切り離され、博多聖福寺などの禅寺の持ち回り制で管理されるという騒動が起こりました。 なお、この時の騒動は、戒壇院をめぐり、博多の聖福寺や崇福寺・承天寺などの禅宗寺院と、宗派を通じて戒壇院とも密接な関係にあった真言宗東長寺の争いが背景にあったと云われています。 禅寺の管理となった事で、博多の禅寺に相談なく何かをする事ができないなどの末寺扱いに、歴代の戒壇院住職は強い不満を持っていたようで、度々藩に対し復活の願いを提出しました。しかし、これが禅寺を怒らせ、天明6年(1786)には、完全に禅寺の支配下に位置づけられる事が明文化されてしまいました。 ただ、前述のように真言宗の東長寺も、この戒壇院の禅寺支配には対抗していたようで、戒壇院では、以後、禅寺なのに真言宗の僧侶が度々住職を務めるという奇妙な感じになりました。 そして明治6年(1873)、崇福寺の末寺となり臨済宗妙心寺派に属するようになりました。以後、台風などの被害に遭いながらも幾度か修復されて今日に至ります。 場所はこちらになります。観世音寺のすぐ隣ですが、同敷地内ではありません。 詳しい地図で見る それでは、参りましょう。 正面の惣門です。天明8年(1788)に修理された事が判明しています。 築地が良い感じです。 惣門の脇に石碑があります。 これは、「不許葷酒肉入境内」と記されています。「葷酒・肉を境内に入れるを許さず」といったところでしょうか。 何でも、「酒や肉は(精がついて)修行の妨げになるから境内へは持ち込むな」という意味みたいですね。 惣門をくぐると、すぐそこに門の礎石があります。これは山門の跡です。 惣門・山門と一直線に並んであるのが、本堂です。 五間四方の重層入母屋造のこの本堂は、寛文9年(1669)、福岡藩家臣の鎌田昌勝により建てられた三間四方のものを、延宝8年(1680)、観世音寺の復興にも携わった天王寺屋浦了無が五間四方に改築しましたが、その後破損し、現在の建物は、寛保3年(1743)、三間四方の観音堂を引き移して前後左右に一間ずつ加えて五間四方になったのが元になっているようです。 現在の本堂は、平成3年の台風で大きな被害を受けたのを、再修復したものです。 内部中央には毘盧舎那仏像、両脇には文殊・弥勒菩薩がそれぞれ安置されています。 毘盧舎那仏は平安時代作、両脇の菩薩は元禄12年(1699)に京都で作られたものです。 本堂から南を眺めます。 鐘楼です。宝永元年(1704)建築。 右側の五輪塔は鑑真和尚の供養塔。 この石造五重塔は、天王寺屋浦了無の供養塔です。貞享2年(1685)作。 ↑よろしければクリックお願いします。 |
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おはようございます。
仏様は何時でも拝観できるのでしょうか。
本堂は、禅宗の仏殿のような造りですね。
2012/2/4(土) 午前 8:52 [ 思案中 ]
戒壇院なのに、「戒壇」は残されていないのですね?
2012/2/4(土) 午前 11:58
arisaka31さん、おはようございます。
そうですね。確かに禅宗様のような建物ですね。禅宗の支配下に置かれてから改築されているので、そういう建築形式になっているのかもしれません。
ちなみに、本堂の扉は閉まっていますが、金網の隙間から仏様を拝む事はできます。
狭いけど、落ち着きますよ。
2012/2/5(日) 午前 7:26 [ 旅庵 ]
河内のおっさんさん、おはようございます。
この戒壇院では、中世までは授戒が行われていたようですが、以後衰退してしまい、江戸時代には名称だけ残ってしまったようですね。
内部の須弥壇が戒壇の名残のようです。東大寺のような四天王像はなく、須弥壇意外は禅宗様になってしまっているようです。
2012/2/5(日) 午前 7:30 [ 旅庵 ]
旅庵さん
おはようございます。早速、ご回答頂きありがとうございました。
>>内部の須弥壇が戒壇の名残のようです。
納得です。結局、現在、戒壇があるのは、唐招提寺と東大寺戒壇院のみということでしょうかね。
2012/2/5(日) 午前 10:14
こんにちは。
戒壇院として認知されているのは、東大寺と下野国薬師寺、大宰府の観世音寺で、その後延暦寺が追加されたそうです。
2012/2/5(日) 午後 2:08 [ 旅庵 ]