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では、続きを。
先ほどの下曲輪を抜けると、 櫻山神社の正面に出ます。 創建は寛永2年(1749)、藩主の南部利視により城内の淡路丸に藩祖南部信直の神霊を勧請し淡路丸大明神として祀ったのが始まり。 維新後は城を出ましたが、明治32年(1899)、旧藩士や旧領民により現在の地に移転しました。 城の機能としては、本来ここには枡形虎口があったようですね。 社殿の横を通り抜けると、 この「烏帽子岩」を見る事が出来ます。 盛岡城築城の折り忽然と姿を現したこの岩。築城を手がけた南部信直が瑞兆と喜んで以来、大事にされていたそうです。 烏帽子岩の下に、城に入る門があります。 こちらは、「瓦御門」。 絵図面を見ると、枡形の奥に櫓門があったようです。 瓦御門を抜けると、 ここは三の丸。 道が二手に分かれます。 正面へ進むと「二の丸」。左に降りると「御台所」。 続きはまた後ほど。 https://history.blogmura.com/his_shiseki/index.html (にほんブログ村〜歴史ブログ〜史跡・神社仏閣) ↑よろしければクリックお願いします。 |
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○平成25年4月20日訪問
なかなか更新できず、でした。 次は盛岡市にある盛岡城です。 私事ですが、平成15年冬に新婚旅行で訪問して以来、10年ぶりの訪問です。 盛岡城は、江戸時代に当地を治めた南部藩の居城。 この北上川と中津川の合流地点には、不来方(こずかた)城という福士氏の居城がありましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉から所領を安堵された南部信直が、領国経営の拠点を三戸からこの地に移転させ、近世城郭へと改修しました。 藩主の死去や川の氾濫などで工事が度々中断、居城も三戸城や福岡城(九戸城)などに移転しましたが、寛永10年(1633)、ようやく藩主が入城するに至ったそうです。 このように、普請が約40年かかったため、場所によって石垣の積み方が微妙に異なるのが見て取れます。 それでは、行ってみましょう。 場所はこちらになります。 詳しい地図で見る 城の縄張り図はこのようになっています。 車を盛岡城跡の地下駐車場に停め(料金はちょっと高め)、町を観ると、真っ先に目に付くのが、 岩手銀行中ノ橋支店です。 前身は明治44年に3年の歳月をかけて造られた盛岡銀行本店。設計は、あの東京駅でもおなじみの辰野金吾。 平成6年、国の重要文化財に指定されています。 そして盛岡と言えば、 この「石割桜」。 花崗岩の割れ目から出てきた樹齢300年以上の桜です。 東北の春は九州に較べてかなり遅く(今年は特に遅かったようで)、4月の下旬にも関わらず、まだ芽が出ただけでした(結局10年前と今回、2回訪問しましたが、桜は観られず、でした。)。 よく考えたら、訪問前日は遠野で雪が降りましたので。 では、参りましょう。 盛岡城の縄張りを見て気付くのは、馬出曲輪のようなものが残っている事です。 こちらが馬出状の曲輪。「下(しも)曲輪」と呼ばれていたそうです。 絵図面と比較すると、かつて枡形虎口があったようですが、それは撤去されているようです。 曲輪内は、おもしろい事に飲み屋街になっています。 その一角には、 藩政時代に城下に時を知らせるために設置された「時鐘(じしょう)」があります。 元々は、「日影門外(ひかげもんそと)時鐘」と呼ばれ、外堀の土塁上にあったそうですが、明治維新後、この地に移され、昭和30年頃まで現役で活躍していたそうです。 続きはまた後ほど。 https://history.blogmura.com/his_shiseki/index.html (にほんブログ村〜歴史ブログ〜史跡・神社仏閣) ↑よろしければクリックお願いします。 |
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○訪問日 平成25年4月14日
新山(しんやま)高原は、大槌町市街地から約20キロ。大槌町の西方にあります。 小鎚(こづち)集落から新山高原を眺めたところ。 市街地から車で1時間ほど走ると、 景色はすでにこんな感じ。目の前の深い谷が、「小鎚川」。この川縁には集落(今は仮設住宅の方が多いですが)が点在しています。 町営の牧場「新山牧場」からさらに車を走らせる事30分、ようやく標高1000mの展望台に到着です。 展望台の東方、大槌方面を眺めたところ。大槌湾も見えます。 展望台の北西、早池峰山系を眺めたところ。 奥の雪の積もった山が、 早池峰山です。 続いて西方、遠野市方面を眺めたところ。 この辺りは、「ウィンドファーム」とも呼ばれ、このように多数の風力発電機が設置されています。 展望台から少し下った所に、小鎚川の源流があります。 この川がやがて大きくなり、大槌湾に流れていきます。 また、ここで浸透した水は、地下30mを伝い、大槌市街地、そして大槌湾にまで流れます。 標高1000mのこの場所からわずか20㎞先の、標高数mの大槌市街地まで一気に下るわけです。 当然、水圧はものすごく高くなります。 こういう複数の条件が重なったおかげで、 大槌市街地、通称「町方」地区は、海の傍にも関わらず、海水の混じらない、非常に良質の自噴井が数多くあります。 震災後、海に近い所は湿地帯のような状態となり、様々な希少生物が見られるようになりました。 こういった自噴井は、大槌町でしか見られないそうです。 場所はこの辺りになります。 東北の自然のダイナミックさが体感できます。 詳しい地図で見る https://history.blogmura.com/his_shiseki/index.html (にほんブログ村〜歴史ブログ〜史跡・神社仏閣) ↑よろしければクリックお願いします。 |
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さて、ここからは、7月上旬の写真です。
7月上旬に、仕事で毛越寺にやって来ました。庫裏や本堂での会議、庭園の視察など、平泉ならでは、の会議でした。 最後に、浄土庭園を見ましょう。 南大門から見た円隆寺跡です。南大門には、きれいに並ぶ礎石が残っています。 南大門と円隆寺の間には、中島があります。よく見ると橋桁が残っているのがわかります。ここに橋が架かっていたようです。 池に屹立する「池中立石」。震災によりわずかに傾いてしまいましたが、先日修復が完了しました。 それに伴い、出島石組等も調査したそうです。 毛越寺の庭園は、私の写真で見るよりも、ずーっときれいですよ。 秋と仏の景色が見られなかったのが心残りです。 https://history.blogmura.com/his_shiseki/index.html (にほんブログ村〜歴史ブログ〜史跡・神社仏閣) ↑よろしければクリックお願いします。 |
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続いて参りましょう。
開山堂に最も近いのが、毛越寺の始まりである嘉祥寺跡。 土壇の上に大きな礎石が残ります。 嘉祥寺跡の隣にある講堂跡。藤原基衡が建立したと言われています。とてつもない大木な土壇に、これまた非常に大きな礎石が並びます。 その隣にあるのが、金堂円隆寺跡。毛越寺の中で最も重要な位置を占め、丈六の薬師如来像が本尊として祀られていたようです。 また、東西廊の端には、それぞれ経楼と鐘楼がありました。 円隆寺の隣に広い庭があります。その片隅にあるのが、この遣り水です。 発掘調査により発見されたそうです。 この遣り水を越えると、見えてくるのが常行堂。 享保17年(1732)、仙台藩主伊達吉村の武運長久を願い再建されました。 茅葺きなんて、東北ならでは、です。 この常行堂の隣には、常行堂・法華堂の跡があります。 発掘調査の結果、今ある常行堂は、もともとはこちらにあった事が判明しましたが、残念ながら保存の状況が悪く、規模等は不明のようです。 法華堂は土壇や礎石など保存状態が良く、常行堂と渡り廊下で結ばれた、一体化した建築物であったようです。 次は庭を見ましょう。 続きはまた後ほど。 https://history.blogmura.com/his_shiseki/index.html (にほんブログ村・歴史ブログ・史跡神社仏閣) ↑よろしければクリックお願いします。 |









