それでは、天守閣に登るとしましょう。
ちなみに、天守閣内は撮影禁止です。
天守閣からの眺望です。こちらは城の東側。
海岸線に沿って帯のように緑が広がっているのは、初代藩主の寺沢広高の偉業とされている虹の松原です。
確か浅見光彦シリーズの『佐世姫伝説殺人事件』の舞台になっていたような。
その後に見える台形状の山は鏡山。
こちらは、城の北面。本丸はかなり修理中です。
海の向こうに見えるのが、最近有名になった宝当神社のある高島です。
こちらは、城の南面、城下町方面です。左隅が城の駐車場です。
ここで、気になるものを発見。
街中に櫓が建っています。後で見に行きましょう。
こちらは、城の西面。名護屋城跡はこの方角の遙か向こうです。
さて、それでは天守閣を降りて、他の遺構を探しに行きましょう。
こちらは、二の丸の石垣。以前は御殿が建っていましたが、現在は高校が建っています。
この道を海沿いにまっすぐ行けば武家屋敷通りです。
海沿いの腰曲輪を見ましょう。
波打ち際にも立派な石垣が立っています。
砂浜には、修復中でしょうか、石垣の石がいっぱい並べられています。
腰曲輪です。城を構成する山と海岸線の間にある細長い曲輪です。
今は、松並木のある散策コースになっています。
海岸線にも、きっちりと石垣が作られています。良いですね。
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さて、総締門跡を抜けると、
見えてきたのは天守閣。こちらの天守閣は昭和41年建設。実際には、江戸時代を通じて天守閣は築かれなかったようです。
現在は、本丸石垣の修復工事中で、立入箇所がかなり制限されています。
では、本丸に登るとしましょう。工事中のため、本丸に入るには、この櫓門しかありません。
本丸の大部分も工事中です。でも、フェンスに唐津曳山の写真とか飾って、飽きさせないよう配慮しています。
こちらは天守脇の西門。その右手にも櫓が確かあったようですが、ものの見事に壊されています。これも修復のためでしょうか。
では、天守に登るとしましょう。
登り口からは石垣の状況がよく見えます。
何でも、ここから地鎮祭の土器などが出土したようですね。
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さて今回は、唐津城跡に行きました。
場所はこちらになります。
詳しい地図で見る
唐津城は、豊臣秀吉の家臣であった寺沢広高が、慶長7年(1602)から7年かけて完成させた城です。
築城に際しては、名護屋城の解体資材を多く用いたと伝えられています。
寺沢氏はその後島原に転封となり、以後、大久保・松平・土井・水野・小笠原などの諸氏が入封しました。
「天保の改革」で有名な水野忠邦も一時期、唐津城主だったようですね。
唐津は、表高7万石でしたが、特産物に恵まれ、実際はそれより遙かに多い収入を得られたようです。また、要衝の地である事から、長崎奉行を補佐して異国船警備をするという重要な任務があったため、幕府の重職に就けないという決まりがあったそうな。
唐津城主であった水野忠邦は、老中になるため浜松への国替えを熱心に働きかけるため、幕府に1万6千石分の所領を上知したり、どえらい借財を領民に付したりしたようです。
唐津神社の祭礼の時に転封の噂が飛び交い、祭の熱気が一気に冷めて人がいなくなったというから、相当なもんですね(野口武彦『幕末バトルロワイヤル』)。
水野氏が出て行き、小笠原氏が奥州棚倉から入封した時、ちょっとした一揆や直訴が起こったそうですね。
ま、そういう、ちょっと曰くありげな城です。
それでは、行ってみましょう。
駐車場は、城の南側、かつての水曲輪(確かこんな名称)跡で、米蔵があった所にあります。ここから地下通路を渡って城に向かいます。
現在の城はこのようになっています。色々と整備しているみたいですね。
城へ向かうにはとても長い坂を登っていきます。女子高生の大群が登っていくところに出くわしたので、写真が撮りにくいのなんのって。こういうご時世ですからね。
途中、櫓か番所でもあったのかなあというような平地に出くわします。
やっと坂の終点が見えました。
坂の終点から、今度は左に折れます。
両脇には立派な礎石が残っています。かつてここは、「総締門」と呼ばれていたそうです。
総締門跡脇の石垣。目を揃えたいのか、そうでないんだか。
総締門跡を抜けるとまた坂道が。正面には、その季節には見事であろう藤棚があります。
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さて、名護屋城の最後は、山里曲輪です。
一応、城の一部なのですが、直接行くのはちょっとしんどいので、車で移動です。
山里曲輪は、豊臣秀吉が日常生活を送っていたとされている曲輪で、発掘調査の結果、飛び石や玉石敷・井戸・茶室と見られるなどが発見されています。
突然、この石垣がお出迎えです。
個人的には、名護屋城跡の中で最も見応えがあるような。
九十九折れのような連続した折れ曲がりです。確か熊本城でも同じようなものを見たような。
私的空間なのに、どの虎口よりも重厚なのは何故なんでしょう?
下から見た分にはそれほど感じませんでしたが、上に来るとけっこう道路と高低差があるのがわかります。
「この上はどうなってるの?」といやが上にも期待が高まります。
上に到着しました。
そこから先は私有地のため、柵でブロックされています。ちょっと残念。
改めて、別の入口を捜す事に。
ここから少し北に登ったところに別の入口を発見。
さっきの虎口とは雰囲気が全く違います。こちらは非常に狭くて、折れ曲がりも割と単純です。
山里曲輪は、現在は広沢寺というお寺の敷地になっています。
正面奥に見える柵が、さきほどの虎口方面です。
現在のお堂は大正年間に建てられたとか。
以上で、名護屋城跡はおしまいです。
次は、名護屋城跡とも関わりの深い、唐津城に向かいます。
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さて、弾正丸も見たという事で、残る場所は二の丸と三の丸をつなぐ馬場跡のみです。
では、見てみましょう。
弾正丸の入口から三の丸方面を眺めます。この真っ直ぐな部分が馬場跡との事です。当初は三の丸との境目に大きな櫓門があったそうですが、改築後、なくなってしまったようです。
右手に櫓台跡が見えます。
この馬場櫓跡は、なぜか曲輪の途中に設けられています。発掘調査の結果、この櫓の周辺に門などの遺構は見あたらなかったそうです。外部にもさして影響のないような場所なのに。
三の丸方面から弾正丸入口を眺めます。右手の本丸石垣の崩れっぷりがすごいですね。
馬場跡を抜けると、本丸石垣を利用した折れ曲がり虎口のような所にぶつかります。
この右手に櫓台跡があります。この櫓台跡は、名護屋城跡の中でも最大規模で、馬場跡方面に城内最大の鏡石を用いています。
大きな石が3つあるのがわかります。でも、何で馬場みたいな内部通路に向けて?徳川大坂城などからすると、表玄関に置くのに。
この櫓の下の、三の丸と馬場を分ける部分には、上から、
(1)玉砂利敷や名護屋城建築物の瓦・崩壊した石垣
(2)門の礎石
(3)古い時期の石垣
の順に発見されました。
発掘調査の結果から、最初に石垣を作ったものの、改築時に作り替えられ、櫓下には門が設置されました。しかし、その後門を撤去して玉砂利敷にし、最後はその状態で廃城になったと考えられています。
とにかく、何とも不思議な城です。
行き当たりばっかりというか、複数にわたる改修工事といい、鏡石の使い方といい、どういう築城思想に基づいて作られたのかがさっぱりわかりません。
豊臣秀吉は、この頃はどこか精神的に麻痺していたのかな?とも思ってしまいます。
大体本城部分は見ましたので、次は山里曲輪に向かいます。
続きはまた後ほど。
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