では、次は遊撃丸を見に行きましょう。
遊撃丸の石垣です。所々崩されてますが、割と残りは良い方では。
遊撃丸の虎口です。折れ曲がり虎口と、意外にあっさりとしています。
遊撃丸は、天守のすぐ下に位置する曲輪で、四方を土塁が廻り、表裏共に石垣で固められています。
文禄2年(1593)に明国の講話使節(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪と云われています。
発掘調査の結果、門の礎石や土塁への石段などが発見されました。また、船手門側や天守側から金箔瓦が見つかっています。
遊撃丸の現況です。のどかなもんです。
それでは、次は弾正丸に行ってみましょう。
途中で見えるのは、本丸の破城の痕跡。すごい崩し方ですね。この崩し方をちゃんと残しているのが名護屋城の特色かと。
弾正丸の虎口です。ここは昔から技巧的なものがなかったのか、最近になって取り払われたのかはわかりません。中には水道施設があり、車がバンバン通るので。
弾正丸は、城の西方、搦手口を固める曲輪です。浅野弾正長政が詰めていたと云われています。
現在は曲輪の約半分ぐらいの面積に水道施設が置かれています。屏風絵では、二層櫓や土塀・御殿風建築物などがあったようです。
搦手口は折れ曲がり虎口となっており、櫓台の下から瓦敷の排水溝の跡が見つかりました。
搦手口を正面から眺めます。けっこうな斜面です。
搦手口からの光景です。遙か彼方に見えるのは、今話題の玄海原発です。
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さて、本丸北門跡を下って、水の手曲輪に行くとしましょう。
行ったら、本丸の石垣修復のため閉鎖中でした。ずいぶん新しい石ですね。
このまま一旦下の水の手口まで降ります。
降りる途中、右手を見ると、山里曲輪の石垣群が見えます。こちらは後で行きます。
まず、縄張り図を見ましょう。赤で小さく「現在地」って書いている所です。
本丸北門跡から通ってきた道って、途中で石垣ぶっ壊して作られているんですね。道理で不自然な道だったんだ。
では、ここから遊撃丸の下を抜けて二の丸に行きましょう。
二の丸への道です。たぶん、本来の城の道ではないはず。のどかな道です。
左手上を見ると、遊撃丸の石垣が見えてきます。
そのまま進むと、
二の丸への入口が見えてきました。この右手に船手口があります。ここに門があったかは不明です。
この二の丸には、武器や兵糧などの建物や番所があったと云われています。
ただ、本丸に近いながらも、本丸に較べて12〜13m低い事、本丸への直接の通路も見当たらない事から、本当に二の丸の呼称がふさわしいのかについては疑問があるようです。
さて、二の丸のすぐ入ったところ、西面に合い坂があります。
この合い坂の最下段で、軒丸瓦や丸瓦を重ね合わせた瓦積みが6列並んだ状態で発見されました。
これらの瓦群の上に石材や裏栗石が堆積していた事から、瓦を置いた後に石垣や石段を破壊したと考えられます。
二の丸のほぼ中央に掘立柱建物跡が3棟見つかっています。
そのうち2棟は5m×20mで、間仕切り壁により4つの部屋に分かれていたそうです。
真ん中の1棟は、3m×6mと小振りですが、規則的に並ぶ8個の土壙が見つかりました。
これは名護屋城の建築物というより、名護屋築城時の仮設建物と考えられています。
結局、二の丸には、この3棟の建物と柵や鍛冶跡ぐらいしか見つかっていないようですね。屏風絵を見ても、あんまり建物は建っていないですし。
次は、遊撃丸を見に行きましょう。
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さて、天守跡を降りて、本丸をぶらぶらと。
こちらは、名護屋城跡と言えば、定番の光景。
「太閤が 睨みし海の 霞かな」
作者は青木月斗(1879〜1949)。昭和8年に名護屋城跡を訪れた時に詠んだもの。この句碑は昭和15年に建てられました。
当時のこの城は相当山だった気もしますが。
日が高かったせいか、海は霞んでました。でも、穏やかでした。
行ったこの日は、ちょうど呼子の大綱引きの日。写真に見える橋の辺りは、たぶんごった返していたはず。
さて、本丸内を見てみましょう。
本丸には、かつて当時の宣教師から「驚嘆に値する程の美麗・清潔・新鮮・巨大なもの」と称される程の大規模な御殿がひしめいていたようです。
発掘調査の結果、本丸全面、建物以外の場所に玉石を敷き詰めていた事がわかり、13棟の建物とそれらをつなぐ廊下、門などが確認されました。最も大きな建物は、約300畳ほどもあったようです。
瓦の出土が非常に少ない事から、屏風絵のような檜皮葺や柿葺が主体であったようです。
建物はこんな感じだったようです。
では、本丸を降りて他の場所を見ましょうか。
本丸北門から降りてみましょう。
本丸北門跡です。ここにもかつて門がありました。
外側から本丸北門跡を眺めます。
その道を下ると、先ほどの三の丸からの通路に出逢います。さすがに、真夏にこの道を通り抜ける勇気はありませんでした。
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さて、それでは天守跡に向かうとしましょう。
先ほどの多聞櫓跡から見た玄界灘です。ちょっと天気良すぎてわかりませんが。手前にある土塁は、遊撃丸という曲輪の跡です。
本丸は現在も発掘調査中。
天守の方面から、先ほどの多聞櫓跡を眺めます。今は多聞櫓部分の石垣が出っ張ってますが、初期の石垣は天守から南西櫓跡まで真っ直ぐだったんですね。
こちらが天守跡。穴蔵を持つ五層七階、高さ約60mというとんでもない大きさだったようです。穴蔵の床は、玉石が丁寧に敷き詰められていた。かなり破壊されているものの、なぜか江戸時代前期の瓦が大量に堆積しており、廃城により徹底的に破壊したにも関わらず、その後何かの施設を置いた可能性があるとの事。
天守台の周辺には、拳大の玉石が丁寧に敷き詰められていたようです。その玉石の上層に天守閣で使用されていたと思われる金箔瓦が、そのまた上に石砂などが堆積している事から、天守閣と天守台の破壊に時間差があると推定されています。
屏風絵ではこんな感じだったようです。
天守跡から玄界灘を眺めます。
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さて、先ほどの埋められた石垣の先には、
今度は、新しい石垣上に築かれた櫓跡です。並んだ土台石の上に木を寝かせ、その上から柱を立てて櫓を建てたようです。
櫓の周囲には玉石を敷き詰められていたようです。
石垣に沿ってそのまま進むと、
今度は、南西隅櫓跡。本丸拡張時に作られた櫓です。
発掘調査の結果、10m×10mの二層櫓の礎石が発見されています。
また、名護屋城破却の際に建物を解体した後、跡地に厚さ30㎝以上もの盛り土をかぶせ、完全に埋め込んでいた事もわかりました。
赤い舗装が盛り土の範囲です。本来なら礎石は盛り土に隠れて見えません。
そして、この南西隅櫓跡から天守に向かって伸びるのが、
多聞櫓跡。これも本丸拡張時に新たに建てられました櫓です。
この多聞櫓、全長55m、幅約8mという、途方もない大きさだったようです。
発掘調査時の様子です。新旧の石垣が混在しているんですね。
多聞櫓跡に沿って、本丸側のほぼ全面に玉石敷の跡が発見されました。建物に近い方には細かい石を、その外側には大きい石を配しています。小さな石は櫓の軒先からの雨落ちに、大きな石は通路として使用されたようです。
赤い舗装の前に見える、芝生を伴った仕切りのような石垣が、旧本丸の石垣です。
それでは、いよいよ天守に向かうとしましょう。
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