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聞いた話。
普段はお祖母ちゃんが食事の支度をしてくれていて、
後片付けの時、器を食器戸棚に戻すのに、良く使う食器は手前に在った方が使い易いと置き換えても、
直ぐに元に戻されてしまう、馬鹿な事と思え、在所で話した所、
聴いてくれる所か、「お前は馬鹿じゃないか、そんな事は如何でも言い事、立場をわきまえなさい」
そんな調子で、この方が合理的と判り切った事でも、理屈ではない、嫁に行ったのだから従えば良いと、
只それだけ。
理不尽に思っていることを話しても、叱られるだけなので、
とうとう在所に帰るのが嫌になったと。
姑さんは、在所に帰りたがらない嫁に、「普通は在所に帰りたいものだが、
アンタは変わってるね」と言われる様になったのだそうな。
世の中には、出来た人も在る者だ。と言うべきか・・・。
理論的に正しい事と、人間的に正しい事の違い。
しかし、私には、理論的に正しい事を通せない事の、虚しさを思う。
人間が、社会で生きる事の難しさと矛盾。
義理の弟が「姉さんは、真実は一つ」と言う考えなんだよねと言った。
そんな私にとって、当然、理論的に正しい事を、曲げなければ成らないと言う不本意。
しかし、生死に係わる問題でなければ、負けるが勝ちと言う事らしい。
確かに些細な事で、問題を大きくするのは馬鹿なことには違いない。
でも、其れが身に付いてしまうと、何もかもが、如何でも良く成ってしまう。
其れは、良い事と言えるのだろうか。
他人に優しく成れるが、自分にもだらしなくなってしまう傾向に成ってしまう。
ある教えに、「白い物を、黒いと言われても、“はい”と下がれ」と言う教えがある。
確かにそれでは、決して争いは起こらないだろう。でも、其れは誰が“はい”と下がるのだろうか。
先に話したものが勝ちと言う事なのだろうか。その場の争いだけを避ければ良いと言う事なのだろうか。
親身に成ればこそ、苦言を言ってくれるのであり、そうでなければ、腹で笑っていれば良い事。
清濁併せ呑む度量が無いと言われるかもしれないが、私も正義の神“阿修羅”の気持ちが良く判る。
力が無いから、心にゆとりを持て無いのだろう。
力の神“帝釈天”は余裕があるから、気まぐれで、少々見逃しても体制に影響は無いから、
おおらかにしていられる訳だ。
佐賀の、がばい婆ちゃんの事を思い出した。
力が無くても、貧乏でも、達観してしまえば・・、明るか貧乏なら、
心にゆとりが持て、何を言われても、笑い飛ばす事が出来るのだろう。
中途半端が一番辛い、いっそどん底まで落ちれば、見栄も外聞も無い。
人間諦めが肝心と言う事か・・・
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