徒然

人に於けるどんな高尚な悩みの探求さえ自己満足に尽きる

心の在り場

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足枷

 私は、何故私なのか・・・。
娑婆(忍土)の柵から逃れて、出家(苦の無い世界に生きる)したいと思っても、
面倒を見なければ成らない親(恩がある)や、子(責任がある)が有る事は、
如何しょうも無い足枷となる。
 つまり、妥協して生きる道を選ばざるを得ないのが現実だ。
けだし、これが、私自身に強い意志が無く、
不断の努力が足りない事への言い訳に過ぎないと言えるだろうか?。
時には、不遜にも”母の無い子であったなら”と思得てしまう。
 出家者は、手枷足枷となる係累を持たず、世俗的欲望から自由で居られるから、
実現不可能な宗教的理想
(”愛”を絶てば煩悩は無くなり、よって苦も無くなる)を、
追求できるのである。
 現代は、余りにも物質主義で、杓子定規で、
社会保障ですら、用件を満たさなければ、何もしてくれない。
パイを大きくすれば確かに資金は集まり、形としての制度は、整うかもしれないが、
現実に機能しない事が多々ある。
家庭内暴力でも児童虐待でも、幾たびも報道されたように見過ごされている。
生活保護が、在るのに如何してホームレスが存在するのか?
 ある自殺を思い留まらせるボランティアをしている方が、
生活費に行き詰まり自殺寸前の老夫婦を、役所に相談に行けば救済措置があるからと引き止めたが、
役所では、手立ては無いと返され、結局自殺してしまったと。
パイが大きすぎて、痒い処には手が届かないのが現状なのである。
 明治以前は、大きい意味での社会保障が無い代わりに、
慈善事業的、駆け込み寺の類があり、其処では何の条件も無く、受け入れて貰えた。
経済のグローバル化の中、国の活力を失わない為の経済優先の政策により
格差の時代に突入しつつある今。
社会保障のみで弱者を救済する事は難しく、
勝組みによる利益の社会還元が望まれる。

如是我聞

今日、NHKスペシャルで、ワーキングプア―について特集していた。
 政治の貧困を思う。
ある友人が、「やはり政治家に成らなくてはダメだ」と。
理由は、己にとって都合の良い法律を造る事が出来ると。
結局、政治は、政治献金の出来る、経済界と金持ちに牛耳られている。
 コメンテーター達が、一致していた点は、教育の機会均等と言う事。
本人達に責任が無い、努力しなかった訳ではない、
お金がない為にチャンスさえ与えられないと言うのは、人間の尊厳に関わると。
トライしてダメで、落ちぶれた者全てを、国が保証する必要は無いと思うが、
トライする機会さえ与えない社会は疲弊すると。
 力の無い国では、保障も出来ないから、経済が優先される事は必然だ。
代わりに、そこで利益を得た成功者(会社)による、
慈善事業や寄付で持って、セーフガードすべきだと。
 確かに、阿修羅と帝釈天の話しではないが、力が無くては、正義も守れない。
しかし未だ日本には、事業の利益を社会に還元する仕組みも、
ましてやその意識すら、芽生えていない。
 悲しい事だ。 日本とは、 日本人とは、この程度のものなのか。
これも日本人に、確固たる宗教が無いからなのだろうか?
日本人は論理厳密性というものが苦手で、
妥協の無い論理には、ついて行けず、ゆとりとごまかしの、まあまあ主義の中で生きている。
それは、オブラートに包んだ道徳や教訓の類を宗教的ものと錯覚させている。
 平均的な人間でも、実現(実践)出来るのが、道徳で、
    何人にも実現(実践)出来ないのが宗教。
 仏教の経典は全て「如是我聞」と成っていて、
「釈尊はこのように教えられた」とは書かれていない。
つまり、聞く人によって、解釈が違っても、
各自、主体的に考えなくてはいけないと言う事。
 つまり、己の意見は”思う”程度でも、発言するのが主体性であり、
自信が無いからと「知らない」と言うのは、
”没主体性”が美徳とされる、日本ならこそ。
                釈尊が説かれたのは、
       日本人が錯覚しているような、水で薄めた世俗的道徳ではなく、
                  宗教的理想。

現実を生きる

 思えば、テレビの無い時期の、楽しかった事。
 毎晩毎晩、父に話をせがんだ。 父の話は実に面白かった。
 夜の帳が下りると、裸電球の明かりを消せば、もう顔に近づける自分の指さえ見えない漆黒の闇。
 聞こえてくるのは、道下の川のせせらぎだけ。
 これは、物語の為のプロローグでも何でもない、昭和30年代の、山村のひとこま。
 娘時代、短大の同級生を実家に誘った。
 明るいと寝ずらいでしょ、と灯りを消した時の事。
 彼女は叫んだ。 ”うっそー、何にも見えない!!自分の手が見えない!!生まれて初めてー!!”

 当時、又、心の在り場を求めて、
今思えば、瀬戸内寂聴さんの所ではなかったかと思うのだが、
如何生きて良いか分からないから、尼さんにでも成りたいと、
如何したら良いか教えて欲しいと手紙を書いた。
 返事は、只、まだ何もしていないのだから、就職し結婚するなり、
兎も角、取り敢えず普通に生きて見なさいと、 それだけ。
頼る処も、相談する処も無く、其の事は諦めるしかなかった。
取り敢えず、全て忘れて、現実を生きることとした。
そして、現実にどっぷり浸かり、泣き、笑い、喧嘩をし、
そして時折”如何して私は私なのだろうと・・・”
   
 父の”生きて帰る”と言う強い意志は、継母の連れ子への愛だった。
祖父は、心臓の弱かった父の母(養子娘)に早くに他界され、
暮れなりの良い様にと、息子の嫁に適当な娘を持つ、後家さんを後妻に探していたのだ。
娘も籍に入れると嫁に出来ないので、女学校まで母は祖母と暮らしていた。
が、祖母が田で、突然畦に座り込み、眠るように亡くなり、
母は引き取られ、父達と暮らす事となった。
 年頃になり、戦場に居る父に、母は、見合い話が来ている事をしたためた。
父は、「気に入ったなら嫁に行けば良い」と投函。 は、したものの・・・
が、「もしも、待って居ても良かったら」と投函。 しかし・・・
結局、「生きて帰るから、待ててくれ」
  3通、 母の手には、 同時に、 届いた。

運命と意思

 色々な世間に於けるしがらみ、学校が嫌とか、勉強が嫌いとか言うのではなく。
自分の思い通りにならない、と言うのでもない。
只、考え方の違いを、精神的疑問を、話せる相手が居ない、話せる機会が無い、誰も解っていない。
小学四年生の女の子が、”如何して私は、私なの?”等と誰に聞けると言うのか。
家と言う、しがらみから逃げ出したかった。
でも、何処に行く事も出来ない。
1人では、生きていけないから。
早く大人に成りたかった。
家族に問題が在る訳ではない。
私の心の問題なだけ。
 酒好きで陽気な父、 優しく物静かな母、 黙って其処に居る祖父、 そして3人の弟妹。
戦後の極一般的家庭。 テレビが我が家にやって来るまで、
父は、夜寝るまで、学生時代のこと、戦場での事、母との事、そして創作御伽噺等を聞かせてくれた。  農林受験の合格に至までのエピソード(レールの上と言う解答)。
父は水兵だった。
マストで見張りをしていた時、船が魚雷を喰らった。
甲板に下りた頃にはもう、皆海に飛び込んで逃げていた。
が、何時助けが来るか解らないと、食料庫からウイスキーを持ち出した。
未だ残っていた者達と、筏を作り、沈みかかった甲板から、急ぎ必死に漕ぎ出した。
沈んでゆく行く船の渦に巻き込まれない為に。
此処らまで来れば、もう巻き込まれないと言う所で、船の方を振り返れば、
真っ立てになり沈んでいった。
それからは、助けの船が来るまで、只待つだけ。
 沈んだ所から、外へ外へ丸く捜索するのだ。
離れれば離れるほど助けられるのが遅くなる。
海の上、口が渇いても飲むものが無い。
皆で父の持ち出したウイスキーで渇きを凌いだ。 
3〜4日後救助された。
父たち以外は、誰も助からなかった。
どんな時も、只徒に行動しても役に立たない。
慌てず、よく状況を判断し行動しなければ、命を落とす事もあると言う教訓。
 撤退する陸軍を、夜輸送する為、ボートで浜に向かった所、
既に敵に占領されており、銃撃を受け、本船は撃沈された。
ジャングルに逃げ込み、着の身着のまま、水も食料も無く、
敵陣の中を掻い潜り、味方の陣地まで行軍するしかなくなった。
 行軍途中、意思の弱いものは、幻想を見、”母が呼んでいる”等と在らぬ事を言い、
次々とジャングルの奥に消えて行った。
いくら、”違うから行ってはダメだ”と言っても、もう解らなく成っていたと言う。
100人近く居た者が、味方の陣地に辿り着けたのは10人以下に成っていた。
 究極のサバイバル。楽観主義・生きて帰ると言う強い意志・己への自信、
そして ”運命の女神”は、 父に微笑んだ”。

 私が何故私、
つまりこの肉体に在るのかと
、考えたのは未だ小学4年生の頃、
深く考えれば考えるほど、
深く闇に落ちて行く恐怖に、
考える事を止めたものです。
其れは今も同じ。

 釈迦も、本当の中道を生きる事は、
この娑婆では不可能だと言っています。
だから、娑婆の世界(政治)から隔離された世界として教団を作られたのだと。
しかし釈迦は、只自分の疑問を解決する為に苦行し、
苦行で見出せないまま、瞑想にしたる事により悟りが開け、
其の到達された真理の境地を1人楽しむ事はあったが、
始め、他人に教え様とは思われなかったのです。

 では如何して真理を広める事にしたのか。
自分の教えが、普遍的人間の問題を解決しており,
この解決方法が他人にも役立つことに気付かれたからです。

 ここでは、其の真理(悩みを解消する原因療法)四諦について、紹介して行きましょう。

 1:苦諦(苦に関する真理)=根本認識・・結論「人間は、苦なる存在である」。
  「人間とは、死に向って驀進する存在である」四苦(生・老・病・死)
     「憎い奴なら、さらりと憎め」八苦の残り四苦
   (愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取うん=精神と肉体の事:苦)
 
 2:集諦(原因に関する真理)=「愛こそ”苦”の原因」。
   ”愛”の本質は「盲目的・衝動的欲望」貪(むさぼ)りの心・執着心、
          広くは煩悩、狭くは貪欲=渇愛
     大海原に漂流する者が、喉の渇きを我慢できず、海水を飲んでしまった。
     海水は飲めば飲むほど喉が渇く。 そんな喉の渇きの状態を渇愛と言う。

 3:滅諦(苦の原因の滅に関する真理)=「煩悩の滅却」
     真の涅槃の境地とは、心が灰のように冷えきった状態に成るものではない。
 
 4:道諦(苦の原因の滅の方法に関する真理)=「煩悩を無くす為の八正道」
     正しい 1、物の見方 2、思索 3、言語 4、行為 5,生活 6、努力 7、注意力 8、精神統一

        全て、一朝一夕に出来る事では無い。 日々精進  


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