京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史

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 昨年夏の毎日新聞京都版に載った記事を転載させて頂きます。(ただし、この転載許可は私が当該記事を転載することに限って頂戴したものであり、以下を、毎日新聞社や担当の記者の事前承諾なしに勝手に他へ転載などなさらないようにお願いいたします。)なお、写真は略すことになります。

 
 '06平和考・京都:視覚障害者と戦争/中 海軍病院でマッサージ

       (毎日新聞大阪本社、2006年8月18日京都版より)

           写真・府立盲学校に残る「三療報國」のバッジ

 ◇「三療奉仕しか我々にはなかった」、「公用」スタンプに喜び勇み

 「三療報國」の文字が浮き出たバッジが、府立盲学校(北区)に数十個
残る。鍼(はり)・灸(きゅう)・マッサージを指して「三療」。醍醐照
三さん(78)=奈良市=は、1945年3月に卒業するとすぐ、舞鶴海
軍病院に軍属の「技療士」として配属され、敗戦まで傷病兵らにマッサー
ジを続けた。「勤労奉仕と言われても目が悪いと限界がある。三療奉仕し
か我々にはなかった」と、当時を振り返る。

 日本海を臨む舞鶴港は佐世保(長崎)・横須賀(神奈川)・呉(広島)
と並ぶ、明治以来の海軍の重要な軍港だった。卒業後、すぐに海軍病院へ
行ったのは学校の推薦があったから。学校長あてに来た「マッサージ施術
者斡旋(あっせん)方ノ件依頼」という文書をもとに、成績優秀者が推薦
された。型通りのテストと身体検査を受けると、海軍病院の幹部名で、4
月2日午前8時に着任するよう通知が来た。視力は0・06〜0・05と、
わずかに見えていた目で通知に押された赤く大きな「公用」のスタンプを
確認。「お国のために働ける。もちろん喜び勇んで行きました」

 貫通銃創の傷はふさがっても、筋肉と皮膚や骨が癒着して動かない。そ
こをほぐすリハビリである「戦傷マッサージ」が、主な仕事だった。学校
で習った技術とは違い、多少荒くても早く治して戦場に戻れる状態にする
ことが何よりも重要。動かない腕などをもみほぐし、ゆっくりと曲げる。
「痛くてもかまわない。早く隊に戻りたい」と、傷病兵は歯を食いしばっ
て耐えていた。同病院で働いていた学校の先輩2人の技術に学び、寝返り
もうてず、しゃべることもできない患者にもマッサージを続けた。

 着任日、あいさつしようとした途端に空襲警報が鳴り響き室内にいた約
10人の軍人たちは駆け出ていった。来たばかりで何も分からないうえ、
誰も誘導してくれない。広い部屋で1人立ち尽くし、警報が解除されるの
を約30分間待っていた。「若かったんでしょう。軍属としての誇りもあ
ったのかもしれません」

 「三療報國」バッジは何のために作られたのか。卒業生らに尋ねても明
確な答えは得られなかった。「学校をあげて三療報国という時代でしたか
ら」と話す醍醐さんも知らない。「軍隊には入れない。それでも少しでも
国のために」と望む気持ちが常にあった。だから「技療士」として選ばれ
たことを喜んだ。

 戦後、醍醐さんは盲学校の教員となり、引き続き「三療」に携わってき
た。マッサージは醍醐さんにとって「人生」そのものだった。日本が勝つ
ことを信じて疑わず、傷病兵にマッサージを続けた当時を思う時、鮮明に
浮かぶのは、回復して戦場へ戻る兵たちがかけてくれた「ありがとう」と
いう声だ。
                     毎日新聞 2006年8月18日

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