|
台湾映画「海角七号」は台湾中を席巻する大ヒット作品となり、これまでの挨拶言葉
「ごはん食べた?」が巷では「もう海角7号見た?」となったとか。
海角七号とは、昭和20年12月に台湾から引き揚げた日本人教師が台湾の女学生あてに
出したラブレターのあて先で、この教師が亡くなったあと娘さんが遺品を整理してい
る中から手紙を見つけ、60年の歳月を経て台湾に届いたこの手紙をもとにした作品です。
(日本でも上映されるかも知れません)
この映画を見て島崎義行先生から以前頂いた「我愛汝無汝我愛死」の文章はまさに
この「海角七号」の映画の話ではなく、本当にあった物語として、また先生の終世の
念願を叶えさせあげたいために、過日自由時報新聞社に駆け込み、それが今週水曜日
(29日)に大きく報道されたのです。
では「我愛汝無汝我愛死」の全文を(プライベートで公開できない部分を割愛して)
皆さんに紹介したいと思います。
●我愛汝無汝我愛死 島崎義行
九月も半ばを過ぎると,常夏の島台湾にも,秋の到来を思わせるウロコ雲が,澄み切
った空の上空にひろがり始めていた。この空をつい一月程前まで,毎日,比島基地を発
進した双胴のロッキードP38ライトニングや,コンソリデーテッドB24リベレーター
が飛び回り,所かまわず爆弾を投下したり,超低空で機銃掃射をしていたことが遠い過
去の夢をみているように思えてならなかった。
私は,今日も,青茶色の国民服に下駄ばきという恰好で,昭和国民学校に出勤してい
た。学校の屋根瓦は,一枚残らず爆風でめくれ上がったままで,殆ど使用されなかった
校庭の地上退避壕が,夏草におおわれていた。北側の校舍の柱には,無数の爆弾の破片
が突きささったまま,銹つきはじめていた。
九月に入ると,学校は中華民国政府に接收され,五十嵐校長はじめ日本人教職員は,
数名の留用者を残し解職された。私は留用教員の一人として残ることになった。光復後
の初代校長として赴任して来たのは,台中師範講習科の先輩,昭和二年卒の邱水鏘氏で
あった。邱氏は教諭から一躍,光復後の初代校長を命ぜられた責任の重大さの為か,
いつも,緊張した面持ちで笑顏を見せることは殆ど無かった。
悪夢の太平洋戰爭は終った。皇国の勝利を固く信じて疑わなかった私は,敗戦のショ
ックで,虚脱状態からなかなか脱し切れなかった。留用となり出勤はしても,毎日,
これから先の待ち受けている運命を考えると,暗い気持ちにならざるを得なかった。
疎開して,散り散りばらばらになっていた児童は,八月十五日に戦争が終って一ケ月
たっても,なかなか登校して来なかった。昨日一人,今日二人,と言う具合に徐徐に増
えて来たが,まだ半数に満たない有樣だった。朝会は,終戦前と同じく,「整列」、
「前へ並へ」、「気を付け」、「休め」と,日本語の号令がかけられ,児童たちは,日
の丸に代る青天白日旗を見上げながら,三民主義の歌をぎこちなく斉唱した。台湾人の
邱校長をはじめ,児童は勿論,誰一人北京語を知らないのだから,なんともちぐはぐな
朝会になるのは,止むを得ないことだった。授業は,算数、理科、体育だけで、国語、
地理、歷史の授業は禁止,午前中で授業は終了し,児童は下校していった。午後になる
と,校舍や校庭の後片付けで時間を過ごした。
昭和国民学校には,女の子の給仕が二人いた。二人とも,昭和の前身校,幸女子公学
校の卒業生で,年上の方が,十六才の陳明珠であった。明珠は先生方から「明ちゃん」
の愛称で可愛がられていた。幸公でリレーの選手だった明珠は,すらりと均勢のとれた
肢体をしており,切れ長の眉,つぶらな澄んだ瞳,首まで伸ばしたお河童の髮が良く以
合って,戦後のアイドル歌手の一人,山口百恵にそっくりであった。明珠が,いつ頃か
ら私に好意に似た感情を持ち始めたかは知らない。
昭和十九年四月,台中市の西方郊外の大屯郡西屯国民学校から,新設の台中市昭和国
民学校に赴任してから,二ケ月程経ってからのことであった。每朝行われる職員打ち合
わせの時,どういう訳か,今まで何時もいちばん先に五十嵐校長にお茶を注ぎに行って
いた明珠が,突然私のところに先にお茶を注ぎに来た。一瞬,これは何かの間違いでな
いかと私は思った。上席の新盛先生はじめ,年配の先生方は一様に呆気にとられた面持
ちで眺めていた。その日以来,明珠は毎日いちばん先に,私のところへお茶を持って来
るようになった。明珠がお茶を持って職員室に入って来ると,一齊に先生方の視線が彼
女に注がれた。彼女は,自分に視線が集まっていることに,全く気が付かないかのよう
にごく自然に振舞い,私の前にお茶を注ぎに来た。
ある日,私は湯沸し場にいた明珠に向かって,「明ちゃん,いちばん先に私にお茶を
注ぐの止めてくれ,校長先生に先に注ぐのがあたり前だろう。」と言った。すると明珠
は,可愛らしい唇をちょっと尖らせて,「わたし,先生にいちばん先に,お茶を注いで
どうしていけないの。」と,不満そうに言った。私はそれ以上何も言えず,默って明珠
のほんのりと紅潮した顏をみつめた。
八月十五日,運命の日が遂に来た。長い長い戦争は終った。満州事変以来,唯ひたすら,
皇国日本の勝利を念じて来た私は,完全に打ちのめされた。そんな中にあっても,明珠
は一日も休むことなく出勤し,お湯を沸かし,空席の目立つ職員室のテーブルを拭き,
打ち合わせの始まるのを待っていた。
今日も,授業らしい授業を受けることもなく,登校して来た十数名の子供たちは午前
中に帰って行った。私は,別に誰からも指示された訳でないが,午後から宿直室の後片
付をはじめた。つい此の間まで,学校に宿営していた陸軍通信部隊が引揚げた後,残し
て行った通信機材が到る所に散乱していた。この部隊は関東軍から比島戦線に投入され
る筈の精鋭部隊であったが,輸送船は無くなるし,間に合わなくなり,台湾にそのまま
残ることになったのだ。
突然「先生」と,明珠の弾んだ呼ぶ声が聞こえた。「こっちに来て」と,手招きされ
るまま湯沸し室に入ると,明珠は,蒸し立てのさつま芋を皿に盛って差し出してくれた。
このさつま芋は,雨天体操場の東側の学校農園に,私や宮坂君が春先に児童たちと植え
つけて置いたものだった。
「ああ,おいしい,明ちゃん有難う。」
「先生,こんな言葉知っている。」明珠は,ホオを少し紅潮させながら突然
「我愛汝無汝我愛死」と一語ずつ,はっきり私に言い聞かせるように言った。
「うん,初めて聞いたが意味は分かるよ。私は貴方を愛している。若し貴方がいなけれ
ば私は死にたい。つまり,死ぬ程貴方を愛していると言うのだろう。」
「我愛汝無汝我愛死」と台湾語で暗誦してみせた。
「そう,その通りよ。先生の台湾語台湾人と同じ,とても上手よ。」と,にっこり頰笑
んだ。
「そう,そんなに上手かなあ—。もう少し台湾語しゃべってみようか。」
「鮒(チッラア)、鯉(タイヤアー)、鯰(リヤマー)、鰻(モアー)、ハヤ(ケーコ
アー)。」
と,知っている限りの魚を台湾語で言った。
「どうしてそんなに知っているの。」
「うん,生まれた所が埔里だし,小学校二年生の時も,土牛の台湾人の家に間借りして
いて,遊び仲間は,全部広東人の子供だったから,誰も日本人の子供と思わなかったよ。」
「そうなの,先生,これからどうするの,日本に帰るの。」
「さあ—,どうなるか---自分でも分からないよ。だいいち內地に帰る所も無いし--」
「そんなら先生,帰えらないでいいでしょう。台湾語上手だからこのまま台湾に残った
方がいいよ。」
実際,その頃の私にはこの先どうなるか,判然とした見通しは全く無かった。数日後,
私は明珠を誘って映画を見に行った。明珠は薄化粧をし,唇には紅が塗られていた。
素顏でも色白で膚が綺麗なのに,化粧して来た其の顔は少女のそれでなく大人の美しさ
を匂わせて魅力的であった。
映画館には,日本人の観客は殆ど見当らなかった。台湾人に報復された話があちこち
から伝わり,夜間に外出する日本人はいなかった。私と明珠は,いちばん後の高い座席
に腰を下した。どんな映画だったか,殆ど記憶が残っていない。覚えているのは,周囲
の台湾人の視線が,みんな私と明珠に向けられていたことである。「何でこんな台湾人
の美少女が敗戦国の日本人青年と,一緒に映画を見に来ているのだろう……。」と思っ
ているに違いないと思いながら,スクリ—ンに眼を向けていた。
映画が終りそうになった時,明珠に「出よう。」と声を掛け,静かに,そして足早に
映画館を出た。秋の夜風がひんやりと流れ,星が美しくきらめいていた。いつの間にか,
私は明珠の手を握っていた。柳川の橋を渡り楽舞台の前まで来ると,明珠の家は間近い。
私は,明珠の家がもっと遠ければいいのにと,まっすぐ来てしまったことを後悔した。
このまま別れるのは惜しい気がしたが,今の自分には全く将来の展望が無いし,彼女は
まだ十六才の少女なのだ。愛してはいけないのだと,自分に言い聞かせ燃えかかる胸の
ときめきにブレーキをかけて,「さよなら,お休み。」と言って,そのまま家へ帰った。
あれから四十三年,突然の引揚げで,別れの言葉を残すことも無く,日本に帰国させ
られた私は,無縁の地仙台に住むことになり,古稀を過ぎた。だが,明珠のことを一日
も忘れたことはない。未だに明珠の面影を追い続けている。引揚後四回台湾に行ったが,
そのたびに明珠の消息を尋ね回った。だが誰も知っている人はいなかった。澄み切った
青空に南風の吹く日,遙か台湾の方に顏を向け,眼をつぶると,「我愛汝,無汝我愛死」,
明珠の可憐な姿が幻のように浮かび,やさしい声が切なく聞こえてくる。
●先生は台中師範(現、台中教育大学)の卒業後終戦前後までの台湾人の子弟の通う公
学校の先生をしており、この文章は20年前に書かれたものです。知人から招待を受け
台中師範創立80周年記念(2003年)に参加したことがきっかけでそれ以来お付き合い
させていただいており、その後先生から頂いたこの前述の文章をはじめ「教官殿」
「新高山登山」「望郷」など原稿数編を『遥かなる故郷』という一冊の冊子にまとめて
贈呈したりしてきました。
先生は「今住んでいる仙台は妻の故郷であって、私の故郷ではない。私の唯一の故郷
埔里の水源地の川に、骨の一部を流してもらうよう台湾の生徒たちに依頼している。」
(望郷より)と語っていて、いつも南の空を見つめつつ脳裏には台湾で過ごした日々が
走馬灯のごとく浮かんでくるんだそうです。
心臓病の持病をかかえ年齢も90星霜を数えた先生が、唯一ずっと気にかけている明
珠さん〜今なお健在であれば80歳のおばあちゃん〜の消息を知らせてあげたく、先生
に断りなく独断で知り合いの新聞社、ラジオ局に協力を要請した結果、新聞には「海
角七号真実版」として一面割いて大きく報道されました。そして来週末にはFM毎日
放送でも特別番組を組んで放送されることになっています。今回の報道で台中市や母
校の篤行国小でも全面的に協力してくれており、一日も早く明珠さんの消息がわかっ
たらいいなあと念じている昨今です。
注:昭和国民学校の前身は幸公学校で、戦後は篤行国小と改称されました。
|
( ´ー`)y─┛チァーパーボェー
映画はまだ見ていませんが この実話もなかなか心に来るものがありますね。
傑作
2008/11/2(日) 午前 0:08
自分の祖父も台湾からの引き上げ者で、亡くなる時に「台湾に帰りたい…」と言っていました。
だから、このお話もあまり他人事には思えない気がします。
2009/2/25(水) 午前 2:07 [ ミート ]
昭和15・6年頃、島崎さんは軍功公学校、私の亡父は北屯公学校に勤務していました。言わば同僚みたいな間柄だったようです。
当時の日本人として、一緒に引揚げてくることも、台湾に残ることも出来なっかたと思います。私の知人の先輩は、台湾女性と結婚し、共に内地に引揚げたそうですが、結果としては、不幸な事になったらしいです。
日本人同士でもありました。
2009/5/3(日) 午後 4:59 [ env**ope*bb ]