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台中だより
新社にある二人の日本人の記念碑
台中市新社区に、二人の日本人の記念碑があります。一つは殉職した日本人教師の記念碑で、もう一つは白冷圳(新社での水利事業)を完成させた磯田謙雄(いそだのりお)技師の記念碑です。
(一) 慰霊祭に参加
去る五月十日の土曜日、新社高中(日本の高校に当たる)には台中ばかりでなく北は台北から南は高雄まで、そして日本からも、この日の慰霊祭に参加するために、たくさんの人々が続々と集まってきました。慰霊祭とは、戦前農林国民学校(新社高中の前身)の先生だった山岡栄先生の慰霊祭のことで、現地の台湾人が主催しているのです。
今から八十四年前の昭和五年(一九三〇)一月に、故郷の愛媛県に子供二人と妻のお腹の中にもう一人の子供を残して、当時の東勢農林國民學校(現:新社高中)に単身赴任したのが、山岡先生(明治三十五年生まれ)でした。
その年の五月九日、同校の授業中に、突然まるで台風が来たかの如く豪雨となり、学校側は放課後の帰宅では生徒の安否が懸念されるので、臨時処置として、早速授業を打ち切り下校させたのでした。ところが、公学校の児童が父兄に付き添われ徒歩で帰る途中、突然川が氾濫し、竹で作られた橋が流されたのです。そして、川の中州で進退きわまって救助を求めたのです。
近くの住民が集まりましたが施すすべがなく、ワイワイ騒いでいる中に急報に接した山岡先生がかけつけ、自分の身の危険を顧みず、逆巻く濁流に飛び込み勇敢に救助に向かいました。しかし、急流に押し流され溺死し、遺体は下流で発見されたのでした。幸いなことに中州に避難していた児童・父兄は水が引いたところで全員無事救助されました。山岡先生が台湾に来てわずか四か月、享年二十九歳の若さでした。
先生のとっさの決心と行動に対して「無謀すぎる、台湾の川を知らないからだ」という声もあったそうですが、「怖いよう!助けて!」という生徒たちの声を聞いて、この子供たちを助けたいという一念だけだったのでしょう。
地元の人たちは、山岡先生のために「殉職山岡先生の碑」を建て、毎年命日に追悼式を行い、そのことは教科書にも載ったそうです。そして、村人たちは、もちろん子供たちもこの碑のそばを通るたび、足を止め両手を合わせていたといいます。
終戦後は国が変わり、記念儀式は排除され、教科書からもその記述が消えてしまいました。以後、記念碑と山岡先生の夫人が植樹した二株のいぶきも、年月の経過とともに雑草の中に埋もれてしまったのです。 今年の慰霊祭には、主催者側からの呼び掛けにぼくら台日交流聯誼会(台日会)のほかに台中・高雄の日本人学校の先生方も参加しました。慰霊祭の終了後、学校の体育館で昼食会があり、一段落したところで来賓あいさつがあり、山岡先生の遺族である孫娘の駄場恵美子さんは、「祖父の自己犠牲の精神は理解できるが、それでもやはり家族の悲しみは深かった。」と話していたのが印象的でした。
(二)磯田技師と白冷圳
白冷圳は、戦前金沢出身の磯田技師が築いた水利事業で、昭和三年(一九二八)から工事が始まり、昭和八年(一九三二)に完成しました。二十二のトンネルと十四の水路橋、さらに大甲渓中流の白冷台地と新社台地の高低差(二二、六㍍)を利用して、水を移動させる二つの逆サイホン装置も造り、地形の変化を使い、電気などの動力を一切使わない全長一六キロ余に及ぶ送水路が出来たのです。
一九九九年の台湾大地震が発生するまで六十八年間、新社地区に灌漑と生活用水を運んでいたのです。白冷圳記念公園のそばの山肌には、日本時代のものを大事に保存し、現在使われている水管と二本並べているのです。そして、この水管の見える所に一昨年磯田技師の記念碑ができたのです。
観光ガイドブックには載ってない日本人必見の場所です。ぜひ台中に寄った際は、新社まで足を延ばして訪れてみてください。ご希望の方には案内をします。
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