|
まずはじめに、今回の東日本大震災で被害にあわれた方々の 1日も早い復興、そして日常を取り戻されることをお祈りいたします。 今回、ぶんぶんを含め4人でスタートさせたこの取り組みですが、 実は全員震災に関わりのあるメンバーです。 ぶんぶんについていえば、阪神大震災(震度7)と呉広島地震(震度5)、玄海沖地震(震度5) そして先日の、東日本大震災に震度5地域の水戸で遭遇しております。 発足のいきさつを語るにあたって、阪神大地震のこと、ちょっと書いてみたいと思います。 1995年1月17日午前5時46分、轟音とともに大地が揺れました。
ぶんぶんはその時、クライアントへの提案資料を徹夜で仕上げていました。 この頃はまだ住宅、建築の仕事はしていません。 広告代理店のクリエイティブディレクターでした。(  ̄ー ̄) ニヤリ 轟音と地響きが近づいてきたと思った瞬間、上下の感覚が分からなくなる位 もみくちゃにされました。全くなにがおこったのか考えることもできません。 照明がパシュ!!と切れ、真っ暗闇です! フローリングの上を、なにか生暖かいものが流れてきます。(なんじゃこれ?) 企画書を作っていたワープロ(オアシス)も吹っ飛んでいきました。 隣の部屋で寝ていた日本人奥さんの絶叫が聞えてきます。 真っ先に頭に浮かんだのは、とにかく火事を起こしたらあかん!! という思いで(オイルファンヒーター使ってたので) 床に流れてきた暖かいものが、オイルじゃないかとビビリました。 この時、芦屋の鉄筋コンクリートのマンションに住んでいました。 相当の揺れですが、幸い倒壊することもなく命には別状ありませんでした。 とにかく、奥さんと脱出しようとしましたが、玄関が歪んであきません・・・ 暗闇の中すったもんだして、こじ開けて外に出て、マンションの住人数組と固まって、 真っ暗な町中を、芦屋の市役所まで避難しました。 そのあいだも、震度5以上の余震が何度も襲ってきます。(((( ;゜Д゜)))ヒィーーーーーー 人間ってあまりにも受け入れがたい出来事に、感情が欠落することがあるんですね。 市役所に避難してきた横の人は、家に押しつぶされて、生き残ったのは 自分だけですと、涙もなくうつろに語ってくれました・・・悲惨・・・ とりあえず神戸の実家に携帯で電話入れましたが、つながりません。 大阪の姉のところにはつながり無事であることを報告しました。 長い長い夜が明け翌朝、明るくなったところで、街中を見回し、
ことの異常さと重大さに驚愕しました。 芦屋の駅前商店街は全滅、駅舎は倒壊、高速道路は(◎◎;)ギョ・・・ が、驚いていられません。イヤ、オドロキッパナシデシタガ。。。 マンションに戻ってみると、なにがなんだか滅茶苦茶です(泣) 床に流れた生暖かいものは、熱帯魚水槽の水でした。 水槽が吹っ飛び、ぶんぶんが大事に飼っていたお魚たちが、 天国に召されていきました(ノ_<。)・・・グスン 日本人奥さんが大事にしていた食器類、ウェッジウッドやロイヤルコペハ、 マイセンやバカラなどは木っ端微塵です。(T.T) そこで、ふたりは何をしたか? 部屋の掃除です!! はやく片付けなぁ〜〜・・・ってアホでしょ!! イミなし、放心状態!! そこに住めるかっちゅうねん(><) ハッとわれに返り、実家がどうなったのか??? 連絡がついていません。 瓦礫の山を掻き分け、芦屋から神戸まで奥さんと二人で歩きました。 実家に行き着いてみると・・・2棟続きであった建物の片側が、崩壊し、 前の道路に瓦礫が散乱しています! 住まいとして利用していた棟は、 その倒壊に引きずられ、接続部分の壁が全て崩落し、傾いています。 家の内部がそこから覗ける状況でした。Σ(oД〇;‖)・・・ 実家には父親が一人で住んでいたので、安否を確認のため分け入ろうとしましたが、 ドアに張り紙があり、今小学校に避難しているというメッセージが残ってました。 とりあえず命は無事だということが分かり、ほっとしました。 (写真は実家の今の姿ですが、右側のガレージになっているところにも 建物がありました。完全に崩壊しました。 残った左側の傾いた家を、鋼管杭によるジャッキアップ大工事をし、住める状態にしました。 ここを事務所として使って、活動をはじめます(^^)b) しか〜し、ほんとはここからが大変で!! それからのライフラインを絶たれたなかでの生活や、衛生面、糞尿の処理、 大阪への脱出劇、家屋の復旧、避難生活などなど、苦労話は筆舌に尽くせないもの がありましたが、それは、また次に機会があれば、お話することにします。 先ほど述べたように、2棟続きの建物の半分は倒壊しました。もしいっしょに
全体が崩れていたら、父親は助かってなかったでしょう・・・ 母親は震災の3年前に亡くなっていました。原因は脳梗塞ですが、なくなる前 半年間を自宅で介護しました。 築年数が40年近くなる木造の家だったため、そのままでは介護用ベッドや 昇降リフトなどを設置するのが心もとない状態でした。 そこで、床や土台の補強を大規模な改修工事で実施したうえで、介護用器具を いろいろと設置し、自宅で寝たきりの状態でも介護できるようにしたのでした。 幸か不幸か母親は震災に会わずにこの世を去りましたが、母親を介護するために 施した補強工事が、奇しくも耐震工事とまで言わなくても住宅の構造の補強になり、 隣棟の崩壊に巻き込まれることなく、傾きはしましたが、なんとか住む人間の 命を守る結果になったようでした。 母親が脳梗塞で倒れたとき、またその看護で大変な苦労をしましたが、そのお陰で、 地震では命が助かり、母親に守られたなあと、しみじみ家族で語りました。 運命のめぐり合わせとは、ほんとに不思議なものですね^^ ・・・その震災からもう16年たちまして、 親父も3年前に他界し、震災後に親父が大修繕を施した実家も 無人状態が続いていました。 (このまま放っておくのももったいない、有効活用できないか?) という気持ちと、くぼっち自身も、諸事情から脱サラ(死語?) を真剣に考えていました。 とりあえずものであふれかえっている、実家をきれいにすれば 事務所としても活用できるのでは?と思い オークションを利用して、親父の遺品の整理をやっておりました。 今も整理のできたものから出品中です(皆様よろしく♪) そんな折、旧来の知人であったもっちゃんから声をかけてもらい、 「がんばろう 日本! 俺らもなんかできへんか?」 いっしょに何か事を起こそうと盛り上がり、 「「仕事にもなり、復興の手助けにもなることやりたい」」という思いで、 多芸多才なメンバーがここに集ったわけでございます! 梁山泊みたいでかっこいいっしょ♪ 人生には、何度か大きな岐路が訪れるものですね、 ぶんぶんにとって、この震災は間違いなくそのひとつでした。 震災がきっかけとなり独立自営の決心をして 頼れる仲間と事を起こす〜 まあ、なんにしても、日々悔いを残さぬよう、
みなさん、人生を精一杯楽しみましょうね♪ |
おうちにまつわるお話
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]







