芭蕉のすべて&山口素堂

芭蕉は多くの文学者によって創られた俳諧人

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素堂と芭蕉

私の研究する山口素堂と芭蕉の関係は蜜月時代に入っている。延宝三年に「西山宗因歓迎百韻」に同席し、延宝四年には信章(素堂)との「天満宮奉納二百韻」、延宝四年には出入りする内藤風虎主催の「六百番俳諧発句合」、冬には京都の伊藤信徳・信章との「三吟百韻」を興行、延宝六年春には「三吟百韻二巻」を興行している。さらに『江戸広小路』。『江戸新道』にも両者が入集、延宝七年か八年には「両吟発句脇二組」や夷宅を交えての「三吟三物一組」成る。天和元年には木因との素堂亭訪問の打ち合わせをし、七月には素堂・木因・芭蕉との三物、天和二年春には京都の望月千春が東下、十二吟百韻に同席、同じ頃の「七吟世吉」にも同席している。二年八月十四日には高山麋塒の主催の「月見」に京都の信徳、素堂と共に臨み、素堂は「月見の記」を書く。そして大火災に遭遇する。素堂は天和三年九月には前述の「芭蕉庵再建勧進簿」と続く。風律の書には素堂は秋元但馬守に蚊足を世話している。素堂抜きには芭蕉の甲斐逗留は語れない。

 甲斐出身とされる山口素堂でさへ生まれた年は、一月四日(『連俳睦百韻』)、五月五日(『甲斐国志』)説があり定かではない。当時の著名人の生まれた年は没年より逆算して決めることが多く、生年が明確な人以外は殆どが逆算したものである。
 名前にしても『甲斐国志』は幼名重五郎、長じて市右衛門とあり『連俳睦百韻』では太郎兵衛、「とくとくの句合」では松兵衛の名も見える。この様に確定する資料のないまま素堂家は何時の間にか、巨摩郡字山口に生まれ幼少の頃府中(甲府)に移住し忽ち富豪になり人々に「山口殿」と称され、二十歳の時江戸に出て云々となってしまい、今では真実の如くに各書に引用され辞書類も殆どがこの説を引用し記載している。
 こうした仮説でも著名な人が書き、引用が度重なると、多くの庶民は洗脳されて真実の歴史と思ってしまうものである。
 秋元家、芭蕉、麋塒、杉風、素堂などは俳諧では語れない絆で結ばれていて、それが何であるか究明しないと真実に近づけないのではないかと思われる。

 尚、森島弥十郎基進の『甲斐国志草稿』には素堂の和歌が掲載されて居る。(『甲斐国志』には記載なし)    P69 俳諧師素堂 此人手沢ニ希也故 此ニ出 歳暮 素堂    
「春の日も夜も長月もあすか川 ながれて年のけふもくれぬる」


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