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さて今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』によると芭蕉の天和三年の行動は次のようになる。
天和二年(1682)十二月二十八日 芭蕉庵類焼、その後当分の居所定かならず。
天和三年(1683) 一月 当年歳旦吟(採茶庵梅人稿『桃青伝』に「天和 三癸さ
い旦」として記載。) 元日や思へばさびし秋の暮れ(真蹟歳旦)
春 (一月〜三月)五吟歌仙成る。
【連衆】芭晶・一晶・嵐雪・其角・嵐蘭
花にうき世我酒白く食黒し 芭蕉
夏 (四月〜六月)甲斐谷村高山麋塒を訪れ逗留。
一晶同道。逗留中三吟歌仙二巻成る。
この後の五月には其角の『虚栗』刊行され、芭蕉は序文を書す。芭蕉の寄寓先の高山麋塒の句も見える。
天和二年 餅を焼て富を知ル日の轉士哉 麋塒
参考 烟の中に年の昏( )けるを
霞むらん火々出見の世の朝渚 似春
天和三年 浪ヲ焼かと白魚星の遠津潟 麋塒
雨花ヲ咲て枳殻の怒ル心あり 麋塒
《連衆…露沾・幻呼・似春・麋塒・露草・云笑・四友・杉風・嵐蘭・千春》
人は寐て心ぞ夜ヲ秋の昏 麋塒
花を心地狸に醉る雪のくれ 麋塒
参考 花を心地に狸々醉る雪のくれ
(『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』)
これによれば、芭蕉は天和二年暮れの江戸大火の後、直ちに甲斐に来たわけではなく、天和三年の四月以降のことで、この火事では秋元家の江戸屋敷も火災に見舞われているので、国家老との高山麋塒にしても芭蕉の処遇どころではなかった筈である。又五月には江戸に戻り、其角編の『虚栗』の跋文を書している。
次の歌仙が芭蕉が甲斐谷村に高山麋塒を訪ねて逗流した折に巻いたものとして、芭蕉が甲斐に入った事を示す実証として用いられている。
………逗留中三吟歌仙二巻………
『蓑虫庵小集』猪来編。文政七年(1824)刊。
「胡草」(歌仙)【へぼちぐさ】
胡草垣穂に木瓜もむ家かな 麋塒
笠おもしろや卯の実むら雨 一晶
ちるほたる沓にさくらを払ふらん 芭蕉
『一葉集』湖中編。文政十年(1827)刊。
夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
変り手濡るる滝凋む滝 麋塒
蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て 一晶
当時は春(一月〜三月)夏(四月〜六月)秋(七月〜九月)冬(十月〜十二月)であり、『芭蕉年譜大成』の夏、甲斐谷村に高山塒麋を訪ねて逗留。五月江戸に戻るので、芭蕉の逗留期間は非常に短期間と云う事になる。さらに先述した『虚栗』には、麋塒の句も入集しているが、これらの句が甲斐に居て詠まれた句かは定かではない。さらに『虚栗』の編集期間の問題もあり、芭蕉が五月に跋文を書して、又入集句に目を通し板行する期間も短期間となり、ましたや『虚栗』は弟子其角のはじめての選集である。刊行なったのは六月であっても、準備は以前から進められていたとするのが自然で、当たり前の事であるが句作は刊行より以前となる。
私には句作の季節や句意などは分からないが、芭蕉が跋文のみで終わるという事はなく、『虚栗』の末では其角と芭蕉の連歌が記載されている。両者の句作はどの時期に行われたのであろうか。
『虚栗集』所載の句…………………………
○ 酒債尋常往ク處ニ有人−生七−十古来稀ナリ
詩あきんど年を貪ル酒債(サカテ)哉 其角
冬-湖日暮て駕(ノスル)レ馬ニ鯉 芭蕉(以下略)
改夏
ほとゝぎす正(ム)月は梅の花 芭蕉
待わびて古今夏之部みる夜哉 四友
山彦と啼ク子規夢ヲ切ル斧 素堂(以下略)
○ 憂テハ方ニ知リ 酒ノ聖ヲ 貧シテハ始テ覚ル 銭ノ神ヲ
花にうき世我酒白く食黒し 芭蕉
眠テ盡ス陽炎(カゲホシ)の痩 一唱
(以下略)
《連衆…芭蕉・一唱・嵐雪・其角・嵐蘭》
○ 素堂荷興十唱(略)
○ 改秋
臨 素堂秋−池ニ
風秋の荷葉二扇をくゝる也 其角
『芭蕉年譜大成』によると、一月、歳旦吟。春、五吟歌仙 憂方知 酒聖 ・貧始覚 銭神
花にうき世我酒白く食黒し 芭蕉
眠ヲ尽す陽炎の痩せ 一晶『虚栗』所収の秋冬の句は、刊行が天和三年六月であるから、前年、天和二年以前の秋冬(七月〜十二月)の句である。
芭蕉は夏、谷村逗留の後に五月江戸へ戻る。五月其角編『虚栗』の跋文を草す、六月刊。
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