芭蕉のすべて&山口素堂

芭蕉は多くの文学者によって創られた俳諧人

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素堂と芭蕉

私の研究する山口素堂と芭蕉の関係は蜜月時代に入っている。延宝三年に「西山宗因歓迎百韻」に同席し、延宝四年には信章(素堂)との「天満宮奉納二百韻」、延宝四年には出入りする内藤風虎主催の「六百番俳諧発句合」、冬には京都の伊藤信徳・信章との「三吟百韻」を興行、延宝六年春には「三吟百韻二巻」を興行している。さらに『江戸広小路』。『江戸新道』にも両者が入集、延宝七年か八年には「両吟発句脇二組」や夷宅を交えての「三吟三物一組」成る。天和元年には木因との素堂亭訪問の打ち合わせをし、七月には素堂・木因・芭蕉との三物、天和二年春には京都の望月千春が東下、十二吟百韻に同席、同じ頃の「七吟世吉」にも同席している。二年八月十四日には高山麋塒の主催の「月見」に京都の信徳、素堂と共に臨み、素堂は「月見の記」を書く。そして大火災に遭遇する。素堂は天和三年九月には前述の「芭蕉庵再建勧進簿」と続く。風律の書には素堂は秋元但馬守に蚊足を世話している。素堂抜きには芭蕉の甲斐逗留は語れない。

 甲斐出身とされる山口素堂でさへ生まれた年は、一月四日(『連俳睦百韻』)、五月五日(『甲斐国志』)説があり定かではない。当時の著名人の生まれた年は没年より逆算して決めることが多く、生年が明確な人以外は殆どが逆算したものである。
 名前にしても『甲斐国志』は幼名重五郎、長じて市右衛門とあり『連俳睦百韻』では太郎兵衛、「とくとくの句合」では松兵衛の名も見える。この様に確定する資料のないまま素堂家は何時の間にか、巨摩郡字山口に生まれ幼少の頃府中(甲府)に移住し忽ち富豪になり人々に「山口殿」と称され、二十歳の時江戸に出て云々となってしまい、今では真実の如くに各書に引用され辞書類も殆どがこの説を引用し記載している。
 こうした仮説でも著名な人が書き、引用が度重なると、多くの庶民は洗脳されて真実の歴史と思ってしまうものである。
 秋元家、芭蕉、麋塒、杉風、素堂などは俳諧では語れない絆で結ばれていて、それが何であるか究明しないと真実に近づけないのではないかと思われる。

 尚、森島弥十郎基進の『甲斐国志草稿』には素堂の和歌が掲載されて居る。(『甲斐国志』には記載なし)    P69 俳諧師素堂 此人手沢ニ希也故 此ニ出 歳暮 素堂    
「春の日も夜も長月もあすか川 ながれて年のけふもくれぬる」

不思議の話ではある。文学や歴史の研究者はこうした民間の研究者の自説と離れた説は無視する事は常である。自説や自己の見識以外については無視する事で自説を守ろうとする習性があるようで、地域で踏査して研究して居る人達への暖かい配慮に欠けておられる。この説をどうして最もっと真正面から採り上げなかったのか、何の根拠もない推論より遙かに真実に誓い説を見逃して居てはいつまで経っても真実は解からない。
又『研究紀要』では最近(昭和四十三年頃)の話として「南都留郡中野村山中字〔堂の前〕のH家の祖先に五平衛という人が居り、旧家であり豪農であって、芭蕉が来て泊まったという事が山中湖付近の口伝として今もなお伝わっていて、菩提寺である寿徳寺の過去帳に倣しても誤りなかろうと言う新説が出たがこれも断定するには未だ早急である」としてこの説も日の目を見ないで終わってしまっている。誠に寂しい限りである。
さて芭蕉の甲斐流寓の話に戻るが、小林貞夫氏・赤堀文吉氏の研究は他の文学者のそれよりも遙かに読む人の心に訴える熱い物がある。それは踏査と人生の有る部分を賭けた労作であるからで、こうした先生方でさえも事実が掴みきれない出来事が時間の経過と共に確定論となって行く。それも歴史なのだろうか。
著名な先生方も思い違いや読み誤りもあると思われる。事実を示す新・真資料が出て自説と違っていたらそれを訂正する勇気と寛容な姿勢が必要であり、又、地道な地域歴史研究者の声を聞き受け入れる度量こそが大切であろう。 結局のところ芭蕉の甲斐谷村流寓年時月日を確定する示す資料は確たるものはないのである。
 さらに、
  十八、本山桂河氏…一時甲斐の国に退遁し仏頂和尚の弟子六祖五平方や初雁村の万福
寺に仮寓して越年した。云々
  十九、吉本燦浪氏…芭蕉は甲州に赴きて杉風の姉、又は仏頂の弟子六祖五平などを頼
りていたりしが。
  二十、沼沢竜雄氏…天和二年の暮、江戸の大火にて芭蕉庵焼失の時、杉風の勧めにて、
正月から五月頃まで、初雁村の杉風の家に滞在、その間に東山
梨郡等々力村万福寺にも仮寓、云々

   二、芭蕉の再来甲  貞享二年

 芭蕉と甲斐郡内のかかわりはもう一件ある。『芭蕉年譜大成』によると、  
  
貞享二年四月中旬頃 甲斐の山中を訪れる  
 甲斐の山中に立ち寄りて   行く駒の麦に慰む宿り哉
 甲斐山中    山賎のおとがひ閑づる葎かな
  貞享二年四月末甲州街道経由で江戸に帰省。(木曾路経由の予定を東海道に変更)

とあり、この「山中」についても「さんちゅう」か地名「やまなか」と読むかが論争点になっている。    
 四月九日には鳴海の知足亭を訪れ一宿、四月十日には知足亭を出発、帰路は東海道を下った可能性が大である。と今栄蔵氏は推察されている。がこれさえも定かではない。諸説があり又、芭蕉の身辺についても記述された部分(甲斐の)が少なく推論でしか語れない事になる。「推説」は「定説」にはならない。
今氏によると東海道から甲斐山中に立ち寄ったことになり、天和三年(1683)に続いて貞享二年(1685)の甲斐入りは年代も近く、全く無関係ではあるまい。天和二年の甲斐流寓が確実なものであれば貞享二年の芭蕉の行動も先年の謝礼のために甲斐山中に立ち寄る事情があった事は人間としてごく自然であり、その関連を追求すれ天和三年の甲斐逗留も明確になる可能性が有り、研究の余地が残されている。絶対的な資料が無い限りは今後も定説はないままに諸書に著述されて行く事になる。是非小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』赤堀文吉氏の『研究紀要』所集の「天和三年の芭蕉と甲州」の御一読をお薦めする。
 天和二年の『武蔵曲』・『錦どる』には芭蕉・麋塒・素堂翁も参加している。芭蕉と麋塒もだが麋塒と素堂翁も前述の谷村城主秋元但馬守と素堂の関係も官職を通じ深い繋がりがあったと思われる。素堂は晩晩年、川越を訪れている。この天和二年当時は芭蕉・三十九歳。麋塒三十四歳。素堂四十一歳である。もっとも芭蕉の生まれたとされる正保元年(1644)は寛永二十年十二月十六日に改元があり十二月十六日〜三十一日までの十六日間が正保元年となり、芭蕉はこの間に生まれた事になるとの見解を示す研究者もおられる。

 『夏草道中』では貞享二年の芭蕉の甲斐入を次のように明言している。
    《芭蕉の第二回の入峡は、貞享二年初夏四月ことである。貞享元年八月から二年四月までの「野晒紀行」
     の途次で、二年の春「思ふ立つ木曾や四月の桜狩」と熱田で吟じて、木曾路に入り塩尻、諏訪を経て、甲州道中信州路を東に下った。初狩村の杉風の姉の許に立ち寄って、一昨天和三年暫く世話になった礼をも述べたことであろう。
   追而申入候。此中にふじに長々逗流、其上何角世話に成候へば、別而御内方御世
話に候。いそがしき中に、うかうかいたし居候而きのどくに候。長雨にふりこめられ候事、とかうに及びがたく候。
  行駒の麦になぐさむやどりかな
   いずれへもよろしく御まうし可被給候。くはしきは重而々以上
   十三日 桃  青
     空 水 様
    そして
    (書簡の日付は)帰庵後の五月十三日と思われる甲斐の俳人、空水宛ての此の書翰でも明らかのように、空水(『夏草道中』筆者注−不明)のところで、雨に降りこめられなどしたが、今度は、甲州道中二十五次を踏破して、四月末に深川の芭蕉庵に帰った。》
 とあるが、その論拠は何を基にしているであろうか。

 芭蕉は熱田からの帰路に木曾路から甲州街道に入り、郡内に至る道筋を踏破した事は文献資料には見えず、諸説混迷しているのが現状である。
 『芭蕉傳記考説』「行實編」(阿倍正美氏著)によると、芭蕉は四月九日熱田を出立して、鳴海へ、十日江戸へ下る(『知足齋々日記』)。その後の芭蕉の行動は不明である。木曾路なのか、東海道を通ったかは資料不足で決定していない。それに関する書簡などがあっても、『野晒紀行』には甲斐の途中吟などは見えず、

甲斐の国山中に立寄て 
  行 駒 の 麦 に 慰 む や ど り か な

 の記載となる。阿倍正美氏『芭蕉傳記考説』によると、この「山中」のは
かひの国山家に立ちよる……………真蹟長巻
甲斐の国山家にたちよりて…………泊舶集
甲斐の山中に立ちよりて……………真蹟絵巻本
甲斐の国山中に立寄て………………濁子絵巻本
 とありその読み方も「やまなか」か「さんちゅう」か意見が別れる所ではあるが、芭蕉が鳴海から東海道経て、御殿場から須走を通り籠坂峠 山中 谷村(流寓か) 甲州街道を通過して江戸に戻ったか、木曾路をへて諏訪から甲州街道を経て郡内谷村に入ったのか、資料文献からは決定することはできない。
 しかし先述の『夏草道中』には芭蕉は甲州街道を利用し江戸へ戻ったと明記してある。こうした確説のような話は、後に比較資料を持たずにその書を読む人には真実として伝わる事となるのである。
 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵氏著)には、

 四月中旬頃、甲斐の山中を訪れる(経路未詳)
 
甲斐の山中に立ち寄りて
  行 駒 の 麦 慰 む 宿 哉  (紀行)
甲斐山中
  山 賤 のお と か ひ 閉 づ る 葎 か な (『續虚栗集』)
《註…葎やえむぐらなど、繁茂してやぶをつくるつる草の総称》
 四月末、甲州街道経由で江戸に帰着。
 卯月の末庵に帰りて、旅の疲れをはらすほどに
  夏 衣 い ま だ 虱 を 取 り つ く さ ず  (紀行)

 資料を繕いながら推説を広げることは小説ではよくあるが、史実を伝える事蹟文献については、一考を要するのではないか。
 萩原蘿月氏著の『芭蕉の全貌』には次の記載がある。

 『芭蕉翁略傳』には
   自書云、甲斐の国郡内と云所に至る途中の苦吟
  夏 ほ く ほ く 我 を 繪 に 見 る 夏 野 哉 
   此句ばかりかと存候
柏水丈   はせを
 又、松瑟の「水の友」(享保九年刊)には畫讃と題してこの句が出ている。

 『句選年考』には芭蕉の、
  瓜 の 花 雫 い か な る わ す れ 草
 を掲げて、その註に、
    天和末、貞享の初の吟なるや。類柑子に其角が瓜の花の一花の文あり。其文に曰、河野松波老人(宗対馬守公の茶道)一物三用の器をもてあそべり、長嘯子のめで給へる記あり、ほとゝぎすまた聞はえする此、かの鉢たゝき所望して見んと、芭蕉翁高山何がし言水等是かれ訪ひ侍りけるに云々。
 とあり、この句は貞享元年か二年の句としている。
 さらに芭蕉の
  木 曾 の 情 雪 や 生 え ぬ く 春 の 草
 の句の註には
   『芭蕉傳』を見るに、深川六間掘と云ふ所に庵を設けて、天和二年迄在住ありしに、其冬回禄の災にあひて、暫く甲州に赴き、彼国に年を越え、翌三年の夏末ならんか、深川の舊地へ帰ぬ。もしや此甲斐遊杖天和三年の春の吟なるや。
   『枯尾花』序には、天和三年深川庵焼亡、翌年(四年)夏甲斐が根、帰府、庵再建芭蕉野分けしての吟有りと記せり。是を見る時は夏秋のみにして、春甲斐遊杖あらざる故春の句有る可きにあらず。又『枯尾花』の天和三年焼亡翌年とあるは天和四年即ち貞享改元の年なり。此元年の秋は古郷伊賀へ旅立ち「野ざらし紀行」あり。是を見彼れを察するに、秋庵再建直ちに旅立もいぶかし。もしや『枯尾花』に、天和二年を三年と印板を書損にや。
 この様に芭蕉句の解説文には様々な文言が飛び交い、読む人はどの説が正しいのか悩むばかりである。

 『續虚栗集』には甲斐を詠んだ歌が記載されている。そして山中も
 甲斐山中にさまよひける夜、宿かりぬべき
 かたもなくて
  刀 さ げ て あ や し き 霜 の 地 蔵 哉    破 笠
  雪 消 を 出 る 甲 斐 の 馬 工 郎    其 角
 秋 山
  甲 斐 が ね も 見 直 す 秋 の 夕 哉    露 沾
  秋 山 や 駒 も ゆ る が ぬ 鞍 の 上    其 角
 『續虚栗集』「春の部」改正には
  年 の 富 士 は つ ぼ め る す が た か な    麋 塒
 《連衆…釋任口・芭蕉・自悦・杉風・・去来・千春・其角・以下略》

 安部正美氏著の『芭蕉伝記考説』「行実編」は芭蕉の生涯を克明に浮かび出しているが、このあたりの行実解明は捗々しくない。
 元禄三年四月二十四日附、北枝宛。芭蕉書簡の、
  「池魚の災承、我も甲斐の山ざとにひきうつり、さまぐ苦労いたし候へば、御難儀の程察申。」
 や其角の『芭蕉終焉記』には、
  「……爰に猶如火宅の變を悟り、無所住の心を発して。其次の夏の半に、甲斐が根にくらして富士の雪のみつれなければと、それより三更月入 無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしければ、……」
 とあり、芭蕉が甲斐に行ったのは夏の半とあるから五月のことである。芭蕉の甲斐逗留の時に秋元藩国家老高山傳右衛門(麋塒)がどう関与したかは後説であり、史実とするには資料が足りないことだけは間違いない。
 また当期間に芭蕉の詠んだとされる句や、地域に残る芭蕉句を無理に谷村逗留中の句とすることもどうかと思われる。芭蕉の甲斐谷村逗留を史実としたい研究者の意図が見え隠れして気になる。
 

さて、甲斐出身とされる山口素堂はこの芭蕉の最も親しい友である。『甲斐国志』の記載以来、素堂の伝記は大きく歪められてしまっているが。
国志によれば素堂の家は甲府でも富裕の家柄であった云う。弟に家督を譲り、江戸に出たとされる素堂ではあるが、芭蕉庵を再建する発起人となるのであれば、何故芭蕉の甲斐流寓の手助けをしなかったのであろうか。
素堂側に立って「素堂と芭蕉」の親密さを見れば、素堂は芭蕉の甲斐流寓の目的を十分理解していたと思われる。芭蕉が江戸に戻り参加した其角の『虚栗』編集には、素堂は中心的存在で参加している。後の『続虚栗』(其角撰)には素堂は「風月の吟たえずしてしかもゝとの趣向にあらず云々」で始まる序文を与えている。
素堂は、この序文の中で、諸先生方が芭蕉の唱えた説と指摘する、「不易流行」説を既に提唱している。(本文参照)
其角にとっても素堂の存在は大きなものであったのである。もちろん高山麋塒は、幕府儒官林家に出入りする素堂の知識と俳諧に於ける先駆者としての位置づけを承知していた筈である。
 九月、江戸に帰リ、住む所が定まらない芭蕉をみかねて、親友素堂が呼びかけで芭蕉庵を再建する。

山口素堂の『芭蕉庵再建勧化簿』(天和三年秋九月)。
    芭蕉庵裂れて芭蕉庵を求む。力を二三生にたのまんや。めぐみを数十生に待たんや。広く求むるは却って其おもひ安からんと也。甲をこのまず、乙を恥づる事なかれ。各志の有る所に任すとしかいふ。これを清貧とせんや。はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、ただ貧也と。貧のまたひん、許子の貧。それすら一瓢一軒のもとめあり。雨をささへ、風をふせぐ備へなくば、鳥にだも及ばず、誰かしのびざるの心なからん。  是草堂建立のより出づる所也。
    天和三年秋九月 竊汲願主之旨 濺筆於敗荷之下   山素堂

さらに、芭蕉庵の造作は進み、
 
  冬、ふたたび芭蕉庵を造り営みて(年不詳)
     霰 聞 く や こ の 身 は も と の 古 柏  
 芭蕉(下里知足『知足齋々日記』記載)
  となっていく。
又芭蕉の甲斐流寓に同道したとされる芳賀一晶は、天和三年、歳旦帳を出してその春に江戸に下り、芭蕉等と一座し誘われてその夏を甲斐国に過ごした(『俳文学大辞典』、一晶の項……白石悌三氏著)と記載されている。
 芭蕉の甲斐流寓について触れている研究文献は多く見られるので、ここでそれ等を整理してみたい。
 芭蕉の谷村流寓については次の地域の研究文献がある。それは『都留高校研究紀要』である。
 都留高校『研究紀要』(「天和三年の芭蕉と甲斐」)によると、  

   一、六祖五平を頼る。『随斎諧話』(夏目成美著・文政二年・1819刊)
   二、杉風の姉を頼る。『芭蕉翁略伝』(岡野湖中・弘化二年・1845刊) 
   三、麋塒を頼る。(但し、六祖五平を麋塒とする)『奥細道管菰抄』(安永七年・1778刊)
又、研究者の論議については、 
   一、岩田九郎氏…『芭蕉の俳句俳文』 仏頂和尚の弟子六祖五平を頼る。翌年夏まで逗留。 
   二、小宮豊隆氏…『俳句講座』  同内容 
   三、山本健吉氏…『芭蕉』  同内容 五月まで滞在。 
   四、荻野 清氏…『俳諧大辞典』  塒麋に伴われて谷村逗留。 
   五、飯野哲二氏…『芭蕉辞典』  同内容 仏頂和尚の紹介で五平の許に身を
  寄せる。    
六、穎原退蔵氏…『芭蕉読本』    『随斎諧話』を引き、夏目成美の学識を重視する。
   七、目黒野鳥氏…『芭蕉翁編年誌』  三、四月の交り、六祖五平を頼る。 
   八、高木蒼梧氏…『俳諧人名辞典』  甲州谷村の城代家老高山繁文(麋塒)を頼
る。 
   九、 ・ …『校本芭蕉全集』  罹災後のある時期、甲斐谷村の高山麋塒(秋
元家家老)を頼り、翌年五月頃まで逗留す
る。
   十、高木蒼梧氏…『俳句講座』    杉風の家系には姉は居ない。万福寺は初狩
                 村では無く勝沼町等々力村である。 
  十一、勝峯晋風氏…『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒の研究』 
  十二、萩原井泉水氏…『芭蕉風景』  芭蕉庵焼失後、彼は一時、二本榎の上行寺
(其角の菩提寺)に厄介になり、間も無く杉風の紹介でその姉の所の逗留する。『芭蕉略伝』による。そこに六祖五平というものが居て、その家を宿としたと言う説もある。としている。
  十三、麻生磯次氏…『芭蕉‐その作品と生涯』
 芭蕉は堀江町の其角の家に身を寄せたり、
     その菩提寺である二本榎上行寺に厄介にな
った。(中略)芭蕉は谷村の麋塒の次男五兵衛の所に宿し杉風の姉にも世話になった。 
  十四、井本農一氏…『芭蕉評伝』  谷村秋元国家老の高山麋塒を頼ったことと
思われる。 
  十五、安部正美氏…『芭蕉伝記考説』  谷村流寓説は何の根拠も無く、六祖五平は
全くの架空もの。
  十六、杉浦正一郎氏…『芭蕉研究』  六祖五平は高山麋塒の次男と思われる。麻
生氏と同説。 
  十七、菊山当年男氏…〔芭蕉研究家〕  庵類焼後、直ちに甲斐に逃れた芭蕉は『虚
栗』の跋文を書いているから甲斐からは五月頃江戸へ帰ったらしい。

 前述、 赤掘文吉氏『都留高校研究紀要』の論述のまとめとして、 
 「芭蕉は麋塒を頼って谷村に来た。その根拠…『真澄の鏡』所集、麋塒の子息が書いた〔芭蕉真蹟軸箱の裏書〕他による、とされ六祖五平を頼ったとされる『随斎諧話』・『奥細道管菰抄』の説は高山家の五平衛や高山伝右衛門繁文の次男五平衛が麋塒と混同され芭蕉歿後八十年或いは百二十五年の後に六祖五平として登場したと思われる」。赤堀氏は諸説や谷村・秋元家の研究を通して右記のように結論を出されて居る。そして学会には認められなかった説として次の郷土史家(不詳)の研究文を揚げられている。 
 「先年郷土史家の手により、都留市谷村の桂林寺で五平家の系譜を記した過去帳が発見され、小林友右衛門という人が〔六祖五平〕であることを確認し桂林寺の保存されていた古文書を調べていくうちに、麋塒から友右衛門に宛て芭蕉の世話を依頼した手紙の切れ端が発見され、それに五平衛の文字が出ていて、小林家が初狩の旧家であり、五平衛桑と呼ばれる桑の木までも現存しているところから、五平衛の家が初狩に現存したと報道があったが学会からは認められなかった。」
 

さて今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』によると芭蕉の天和三年の行動は次のようになる。

 天和二年(1682)十二月二十八日 芭蕉庵類焼、その後当分の居所定かならず。
 天和三年(1683) 一月 当年歳旦吟(採茶庵梅人稿『桃青伝』に「天和 三癸さ
い旦」として記載。) 元日や思へばさびし秋の暮れ(真蹟歳旦)
 春 (一月〜三月)五吟歌仙成る。
  【連衆】芭晶・一晶・嵐雪・其角・嵐蘭
花にうき世我酒白く食黒し      芭蕉  
 夏 (四月〜六月)甲斐谷村高山麋塒を訪れ逗留。
一晶同道。逗留中三吟歌仙二巻成る。
 この後の五月には其角の『虚栗』刊行され、芭蕉は序文を書す。芭蕉の寄寓先の高山麋塒の句も見える。
  
天和二年 餅を焼て富を知ル日の轉士哉   麋塒
  
参考   烟の中に年の昏( )けるを

霞むらん火々出見の世の朝渚   似春
  
天和三年 浪ヲ焼かと白魚星の遠津潟   麋塒

雨花ヲ咲て枳殻の怒ル心あり   麋塒

《連衆…露沾・幻呼・似春・麋塒・露草・云笑・四友・杉風・嵐蘭・千春》

人は寐て心ぞ夜ヲ秋の昏   麋塒
花を心地狸に醉る雪のくれ   麋塒
  参考 花を心地に狸々醉る雪のくれ 
(『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』)
 これによれば、芭蕉は天和二年暮れの江戸大火の後、直ちに甲斐に来たわけではなく、天和三年の四月以降のことで、この火事では秋元家の江戸屋敷も火災に見舞われているので、国家老との高山麋塒にしても芭蕉の処遇どころではなかった筈である。又五月には江戸に戻り、其角編の『虚栗』の跋文を書している。
 次の歌仙が芭蕉が甲斐谷村に高山麋塒を訪ねて逗流した折に巻いたものとして、芭蕉が甲斐に入った事を示す実証として用いられている。

 ………逗留中三吟歌仙二巻………
  『蓑虫庵小集』猪来編。文政七年(1824)刊。 
「胡草」(歌仙)【へぼちぐさ】
 胡草垣穂に木瓜もむ家かな   麋塒
   笠おもしろや卯の実むら雨   一晶
      ちるほたる沓にさくらを払ふらん  芭蕉
  『一葉集』湖中編。文政十年(1827)刊。
 夏馬の遅行我を絵に見る心かな   芭蕉 
  変り手濡るる滝凋む滝   麋塒
 蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て   一晶

 当時は春(一月〜三月)夏(四月〜六月)秋(七月〜九月)冬(十月〜十二月)であり、『芭蕉年譜大成』の夏、甲斐谷村に高山塒麋を訪ねて逗留。五月江戸に戻るので、芭蕉の逗留期間は非常に短期間と云う事になる。さらに先述した『虚栗』には、麋塒の句も入集しているが、これらの句が甲斐に居て詠まれた句かは定かではない。さらに『虚栗』の編集期間の問題もあり、芭蕉が五月に跋文を書して、又入集句に目を通し板行する期間も短期間となり、ましたや『虚栗』は弟子其角のはじめての選集である。刊行なったのは六月であっても、準備は以前から進められていたとするのが自然で、当たり前の事であるが句作は刊行より以前となる。  
私には句作の季節や句意などは分からないが、芭蕉が跋文のみで終わるという事はなく、『虚栗』の末では其角と芭蕉の連歌が記載されている。両者の句作はどの時期に行われたのであろうか。
 『虚栗集』所載の句…………………………
○ 酒債尋常往ク處ニ有人−生七−十古来稀ナリ
 詩あきんど年を貪ル酒債(サカテ)哉   其角
   冬-湖日暮て駕(ノスル)レ馬ニ鯉     芭蕉(以下略)
   改夏
    ほとゝぎす正(ム)月は梅の花   芭蕉
    待わびて古今夏之部みる夜哉   四友
     山彦と啼ク子規夢ヲ切ル斧   素堂(以下略)
○ 憂テハ方ニ知リ 酒ノ聖ヲ 貧シテハ始テ覚ル 銭ノ神ヲ
 花にうき世我酒白く食黒し   芭蕉
  眠テ盡ス陽炎(カゲホシ)の痩   一唱
                     (以下略)
《連衆…芭蕉・一唱・嵐雪・其角・嵐蘭》
○ 素堂荷興十唱(略)
○ 改秋
  臨 素堂秋−池ニ
 風秋の荷葉二扇をくゝる也   其角

 『芭蕉年譜大成』によると、一月、歳旦吟。春、五吟歌仙           憂方知 酒聖 ・貧始覚 銭神
 花にうき世我酒白く食黒し   芭蕉 
 眠ヲ尽す陽炎の痩せ   一晶『虚栗』所収の秋冬の句は、刊行が天和三年六月であるから、前年、天和二年以前の秋冬(七月〜十二月)の句である。
 芭蕉は夏、谷村逗留の後に五月江戸へ戻る。五月其角編『虚栗』の跋文を草す、六月刊。
 

其角の『芭蕉翁終焉記』(『枯尾花』上巻所集。元禄七年十二月刊行)によると、

   (前文略)天和三年(諸書には二年の間違いとある)の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかつぎて、煙のうちに生きのびん。是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の變を悟り、無所性の心發して、其次の年夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪みつれなればと、それより三更月下入ル 無我 といひけん。昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて焼原に舊庵を結びしばしも心とゞ   まる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。云々
 
天和二年(1682)の火事は十一月二十八日、巳の刻牛込川田窪竹町より出火し、芝札の辻に至る。
 とあり、この火事の後芭蕉や素堂など諸俳人は一時所在所は不詳となる。
 其角の『芭蕉翁終焉記』は火事の起きた年時については天和三年と記してあり、多くの研究者は天和二年の間違いと指摘されているが、芭蕉の高弟であり、『枯尾花』は芭蕉の追善集であり、当時の門弟や俳人達の記憶も十二年前の事で、仮に其角の記憶違いがあったとしても編集時に正されているはずである。
 この頃の谷村の城主は秋元但馬守喬朝で寺社奉行から若年寄に昇進した。(小林氏著本)天和二年には大手辰ノ口松平因幡守の屋敷を賜わるが、天和二年の火事で類焼する(小林氏著本・岡谷繁実輯)この秋元但馬守に山口素堂は蚊足(和田源助)を口入れをしている。(風律『こばなし』)
蚊足は書・畫が著名であり、芭蕉歿後、芭蕉像を描き庵に置き人々が「まるで芭蕉が生きて居る様だ」と評判になったと云う逸話の持ち主で、又、その画像に素堂の賛があるものも見られる。秋元家に召し抱えられた当時の知行は御番方二百石であった。蚊足と芭蕉の交際は古く芭蕉の最初の選集『貝おほひ』にも名が見える。
 天和三年(1683)九月に素堂の呼びかけで(『芭蕉庵再建勧化簿』)芭蕉庵の再建が成る。この素堂の『勧化簿』の真蹟を所持して居た上州館林松倉九皐は嵐蘭の姪孫であり松倉家は祖父が嵐蘭(蕉門十哲の一人)の兄弟で、その子の右馬助正興の時秋元家に仕へ、累進して家老と成る云々。(勝峯氏)嵐蘭と素堂の交遊も長年にわたった節があり、そうした資料もあるがここでは提出は避ける。
 この様な背景のなかで、芭蕉は秋元家の家老高山傳右衛門繁文(俳号…麋塒)を頼って
甲斐谷村に流寓したとの著書が見える。しかしその事実を伝える歴史資料は曖昧であり、現在も諸説があり確定して居る訳ではない。後世書されたものにはその年時を示す資料の出が不明で、著者の思い込みが強く感じられる。
 そしてまるで規定事実のように紹介されている書や紹介が多くなり、不確かなまま定説の道を歩んでいる。
ここに昭和四十三年の都留高校の『研究紀要』があるがその中に赤堀文吉氏の労著『天和三年の芭蕉と甲州』と云う論文がある。一般にこうした著書は軽んじがちな風潮があるが、私はこうした地域文化を掘り起こした著作を大切にして居る。そこには自ら苦労して研究された汗が滲み出ているからである。先生にお会いする機会には恵まれないが、古本屋で出会ったこの書をいつも眼の届く所に置いておくことにして居る。
それによると、
  
『随斎諧話』(夏目成美著。文政二年・1819刊)
   芭蕉深川の庵池魚の災にかかりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平といふものあるじとす。六祖は彼もののあだ名なり。五平かつて禅法を深く信じて、仏頂和尚に参学す。彼のもの一文字も知らず。故に人呼で六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしとみえり又、
 
『奥の細道管菰抄』(蓑笠庵梨一著。安永七年・1778刊)
   此時仏頂和尚甲州にあり。祖師は六祖五平を主とすと一書に見えたり。六祖五平は高山氏にて秋元家の家老也。幼名五兵衛、後主税と言は通称にて、今も猶しかり。六祖の異名は仏頂和尚の印可を得しより、其徒にての賞名也。祖師と同弟なれば寄宿せられし也。今高山氏に祖師の筆蹟多し。米櫃の横にさへ落書せられしもの残れり。
   『芭蕉翁略傳』(幻窓湖中著・弘化二年・1845)の一説に、
   甲州郡内谷村の初雁村に久敷足をとどめられし事あり。初雁村之等々力山万福寺と言う寺に翁の書れしもの多くあり。又初雁村に杉風(鯉屋・芭蕉の門人・友人・伊勢出身とされる)が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後、かの姉の許へ杉風より添書など持たれて行れしなるべしと言う。と云う説である。
   
『芭蕉翁消息集』(芭蕉の真筆とされる。元禄三年説あり)北枝宛書簡(加賀金沢如本所蔵・『芭蕉年譜大成』では元禄三年四月二十四日付けとある)には自己の火災の体験を伝えている。
  「池魚の災承、我も甲斐の山里に引き移り様々苦労いたし候ば、御難儀のほど察し申し候云々」
とある。北枝宛の書簡は年不詳ではあるが、芭蕉自身の口から甲斐の山里に云々とあり、
彼の素堂の「芭蕉庵再建勧化簿」の著が天和三年九月である事から天和二年十二月の大火
の後であろう事は推察出来るが確証はなく、芭蕉書簡の内の「様々苦労いたし候ば」は何を意味しているのであろうか。
 又芭蕉の甲斐入りの折りに、寄寓されたとする万福寺境内には、万福寺住職三車によって「行駒の麦に慰むやどりかな」の句碑が建てられている。ある調査によれば真蹟であると云われている。又初狩村には芭蕉の最も信頼する杉風の姉が居たとする説も軽視するわけにはいかない。それを示す資料が見当たらないからと言って「事実が無い」ことにはならないのである。主張する説を定説にする為に他の説の抹消は避けなければならない。可能性を残して後世の研究に委ねる事が大切である。
 芭蕉の甲斐谷村流寓説に大きな影響を及ぼしたのは、大虫(明治三年没)の稿本『芭蕉翁年譜稿本』の次の記載による。小林佐多夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』に詳しい内容が記されているが、概略は、

   それまで六祖五平という定かでない人物を頼っていたとする芭蕉の甲斐流寓の旧説を打破して、秋元家の国家老高山傳右衛門繁文(麋塒)を頼ったする新説が大きな要因を占めていると思われる。芭蕉は江戸大火の直後に浜島氏の家に仮寓していて、芭蕉が参禅していた仏頂和尚の門に居て、芭蕉の門弟でもある高山麋塒の帰国の際に芭蕉を誘い、さらに杉風にも相談すると、姉が甲斐初雁村にいるので折々滞留して下さい、との申し出に芭蕉も甘んじる事となる。この際、麋塒の別荘を「桃林軒」と号し、芭蕉はこの「桃林軒」を寓居と定め、心のまゝに城外にも逍遥し玉ふ、云々。

大虫の説と勝峯晋風氏の説が重なり揺るぎないものとして「芭蕉の甲斐谷村流寓」が定説化に向けて進んだのである。しかし確たる資料を持たないものは、研究者の論及も仮説、推説であって定説とはならないのである。
芭蕉の来甲した時期であるが、秋元家の知行所一帯で溜まりに溜まった秋元家への不満と生活の困窮から怒りが爆発した。
延宝八年(1680)の郡内百姓一揆である。騒動は拡大して百姓総代が江戸町奉行に越訴して、受け入れられず翌九年(天和元年・1681)二月二十五日には谷村城下の金井河原に於てはりつけ及び斬首と云う極刑で幕を閉じる。当時の谷村周辺の庶民生活の困窮振りが忍ばれる。騒動が続く中でも秋元家の幕府の役職での躍進は進み増税が進み、庶民の困窮振りはさらに悪化していたと推察できる。芭蕉の谷村流寓は、そうした時代背景の中で為された事なのである。
 芭蕉の火災遭遇期秋元但馬守の江戸屋敷も焼失していて高山麋塒も大変であったはずである。そんな時期に高山麋塒は芭蕉を伴いや村に向かったのであろうか。
芭蕉は決して恵まれた環境の中で甲斐を訪れたわけではない。芭蕉の書簡の「様々苦労いたし候ば」こうした時代背景を意識していたとすれば、妥当な文言ではある。
 

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