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<名将言行録>
北杜市 歴史講座 馬場美濃守信房公
馬場美濃守の記載のある書の紹介
『名将言行録巻之九』 印…筆者註
馬場信房
初め教来石民部少輔景政(きょうらいいしみんぶしょうゆかげまさ)と称し、後馬場氏を冒し、美濃守信房と改む。真木島城に往し、二万五丁石を領す。武田家四臣の一人なり天正三年(1575)五月二十一日戦死、年六十二。
生まれの記録は無いが単純に逝去年から年齢を引くと永正十一年 (1514)の生まれとなり武田信玄より七歳の年長となる
諏訪を平らぐ 信房 ?歳
信房末だ教来石に居たりし時、信州の諏訪明神に日詣をしけり。後には大祝もに知る人になりて、懇(ねんごろ)に言替はしつゝ、何事の願ありて、斯く計り厚く信心を凝し給ふにやと問ふ。信房、某は甲州の小給人にて候が、年々軍の供えの当るが迷惑にて、陣用意の当らんと覚ゆる時は、此明神へ参詣して候へば、不在なれば力なく陣の供を外れ候と答ふ。祝の心には、臆病至極の男哉と思へども、甲州の風聞を探り知らんには、此男能き方人と、猶も労(いた)はりければ、武田家に事実を少しづゝ語る程に、祝(ほうり)弥々芳心を加へ、様々の引出物して酒を進め杯(など)しつに信房快よげに、酒を飲み、遂に沈酔して前後も知らず臥したりけり。祝、之を見て、密かに信房が刀脇差を抜き見るに、赤く錆て、実に見苦敷物なれば、速に鞘に納め、燧袋(ひうちふくろ)臂袋(ひじふくろ)之を開き見るに怪むべき程の物なく、但是在住の足軽に疑なし。是に於て祝日く、御辺は軍に出ること嫌ひ給はゞ、此明神の氏人と成りて、此神郡へ移られなば、永く兵仗の難を免かれ給はんと勧むれば、信房大に喜びて、忽ちに甲州の産を収めて、諏訪へ移る。祝則ち神郡の内にて、山深き所に住ましむ。信房、諏訪に存ること凡そ三年、諏訪郡の内の案内悉く熟知せり。依て時々甲州に至て、内外の消息を求めて、祝等に告げ知らす。祝等も信房の愚直を隣み、神郡の大小事、之を秘するに及ばず。信房悉く諏訪の所置を見定め、爰を攻て彼を取り、彼を討たば、爰を疾ましむべきと云ふことを考へ、偖(さて)甲州へ帰り、晴付を勧めて、諏訪を撃平げたり。
輝虎の清野攻めを守る 信房 四十歳
天文二十三年(1554)六月、上杉輝虎、便を遺はし、浦野宿を焼んと言ふ。晴信、信房に防戦を命ず。信房則ち郷民を集め、宿の左の屋の上に、鉄焔足軽を伏せ、右の崖の上に、弓足軽を伏せ、家々に士二三人づつ郷人に副へて入れ置き、別に火を消す役人を定め、夜宿の入り口右の山手に、証拠の旗を建つ。是敵の押来るを知らする為めなり。又老臣波合主膳に士五十騎頂く。是は宿中の差引をさせん為めなり。夜、郷民大勢を清野と鼠宿との間、所々に伏せ置きたり。信房は備をば宿に残し、自身は従者八騎連れて、宿を離れて斥候(ものみ)に出たり。輝虎は五千騎を三手に作て押来る。宿の入り口、道端狭し。信房、敵を見切て宿へ帰り、輝虎の先備を寄せし図を見合はせ、一の貝を吹くと等く、銕炮足軽、屋の上に顕はれ、輝虎の二の備へ打掛ける。一の備之に驚き、上を通る銕炮の丸に心を奪はれたる所を、二つの只を吹くと等く、弓足軽屋の上に顕はれ、差し下ろして散
々に射る。之に依て、一の備騒ぎたる所に、三の貝を吹くと等く、家の内に居たる人数、戸壁を敲きて関を作る時、相図ありて、跡の伏兵、形は顕はさずして、一同に関を作る。
越後勢、前後の関に驚きて、悉く色めく所を、信房備を進めて突掛る。此節も猶屋の上の足軽は、銃砲を二の備へ打入れて、路を打切り、輝虎の一の備悉く敗れて、二の備へ崩掛る。二の備は先に代はらんとすれども、道狭ければ叶はずして、共に敗れたり。信房厳しく追撃して、軽く引揚げ、宿に入て堅く守りけり。晴信一万の人数を引率し、小室より出て、清野に十町程手前まで、来り居たり。此備にも関を揚げし故、弥々大勢の様に越後勢思ひしとぞ。
甘糟景持を破る
河中島の役、廿糟景持退口の時、信房犀川(さいかわ)まで、之を追撃つこと三度、景持踏止まりて備を立つれば、信房退て待てり。都合三度に及びし故、景持最早追まじと思ひ、犀川を人数半分渡る時、信房備を乱して之を迫ひ、大に景持を敗れり。
薩タ山の砦を焼く
甲相八幡平にて対陣の時、信房、薩・山の敵砦を見るに、夜毎に番代はりして人数通行せり。初は夜の四つ交代なりしを、次第に不同になりて、九つに代はる時もあり、八つに代はることもあり。信房、同心の者をして薩・山の砦の門を叩き・相州人の詞を似せて只今代りに来りたり、門明け給へと言ふ。番人喜びて門を開く。非時同心等押入て、向ふ敵を突伏せ、切伏せ、火の役者即時に火を掛けたり。敵大に驚て散走する所を、爰彼所に迫詰りて討補り、薩・山の砦を一時が間に煤落せり。
一年、薩・山に一揆起りし時、信房兵を率ゐ馳向ひしが、敵を見懸けながら、今日は長途を来て士卒労れ、殊に日も暮に及べり。労兵を以て大敵に向ふこと、必勝の利にあらずと言て、進まず。人其遠慮に服せり。 晴信、駿河に攻入りし時、朝比奈を始として軍する者なく、今川氏真落たりしかば、晴信疾く今川の節に馳行て、名物の宝物共奪取り来れと下知す。信房聞きも敢へず、只一騎鞭に鎧を合はせて、馳行き、館に火を掛け、悉く焼払ひたり。是宝物共奪取て貪欲の師なりと嘲られんことを慮てなり。
北条氏康と興津に対陣
晴信、北条氏康と奥津河原にて対陣せし時、晴信一二三より十までと、次第を定め、
一手限りの迫合(せりあい)せり。一日跡部大炊介勝資、番に当り、弓箭功者の人々が働く如くに深入して、松田が為めに二町計り押立られ、剰(あまつさへ) 喰留られ、退く
ことならず、悉く繋るべく見ゆる故、晴信、信房に命ず。信房日く、跡部三百騎を以てさへ、 成らざる所に、某百騎計りにて馳向候とも、難なく引揚ること叶間敷と。晴信、信
房が内藤昌豊両人の内参れと言はる。昌豊日く、あの如く敵に気を負はせ、後れたる所には、馬場美濃の外、誰か候べきと申にぞ、信房に定まりける。信房日く、去らば某参り敵を受取り候はじ、跡部は早々引湯ぐべき由、仰付られ候へと申故に、旗本より此旨中通じければ、勝資足早に引揚げ、信房百騎の兵を三手に作り、三所に置き、四十騎を率ゐ、松田に向ふ。松田小人数と思ひ、気負掛る。信房雑兵合はせて二百、ひたと折敷かしむ。是を見て、松田衆つかへたる所へ、信房二の手四十騎雑兵合はせて二百人に、弓銃互に射立打立させ、横筋違に撃掛り、松田が二百五十騎を打敗り、首七十三級を得たり。信房残る二十騎、雑兵合はせて百二三十の跡備を以て、二の城戸まで押込み、其後堅固に引揚げたり。晴信大に喜ぶ。此時信房同心土肥大弐と日ふ大剛の侍、深手を負へり。昌豊、信房に向ひ、大なる過せられ候と言へば、信房挨拶に、敵の崩るゝゝ両白さに我を忘れ、信房一代の不覚せしと言へり。晴信聞て我家の武辺穿鑿(せんさく) 、頂上に上りたると言は
れしとぞ。
松田憲秀の屋敷を焼く
晴信、小田原に攻入りし叫、町家は青ふに及ばず、侍屋敷まで悉く放火す。松田憲秀の屋敷計り残りたり。晴信日く、尾張後日に我屋敷計り焼せざると、高言吐んこと必定なり。是を焼残したるこそ遺憾なれと。信房日く、此度某は信州御留守居に定められしかども、御法度に背き、小田原御陣見物に参り候へば、御旗本前備に罷在り。何事にも構申さず、客人にて候。容人分にて、松田屋敷を焼き申べく候と望みければ、晴信聞き、此度只五十騎召連候計りにては如何と言はる。信房、左様には候へ共、成らずば、元のものと思召候て、仰付られ候へと申に付、晴信則ち望みの如く申付しかば、頓(やが)て信房焼きたる町の道筋毎に、城より出る所を考へ、今の萱木(かや)貝を吹き候はゞ、火を付けよと申付け、
信房は馬上十騎、足軽三十人引具し、松田屋敷に鳥銃を打せけれども、人声なければ、貝を吹き立、口々の萱木に火を付させ、偖(さて)松田屋敷に火を掛けたり。城兵出て防んと思ひしに、所々に焼揚る猛火にや怖れけん、一人も出る者なし。晴信、信房の術を感称せり。
三増(みませ)の役
三増の役、信房斥候に出て帰る。諸士如何にと尋ねければ、信房定めめて一戦成るべく候と言ふ。然れども其晩氏康引取り戦之なし。是は毎度戦の利あるをなき、なきをあると言ふ。又誉之ある時は、主人の名を楊る心底なり。之に依り、晴信常々信房を崇敬せられけり。
此時信房、晴信に掛りて、御勝利あるべく候へ共、味方手負多く之あるに付、如何と申す。又敵の引色を能く見済まし、其後申しゝことゝぞ。
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