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<柳沢吉保、家臣を武川へ(1)>
  新山梨歴史講座 柳沢吉保

今こそ柳沢吉保
  資料で綴る柳沢吉保の真実
   峡中紀行 風流使者記
 (前文省略)

  韮崎宿

……韮崎の宿場に入るとそれまで強かった風が少し柔らかになる。
 韮崎宿は駿州・信州の街道のある宿場で、宿も造りも対応も非常によい。
 適当に賑やかで、宿の右手の人家の竹林の間に小道が有るに似たり。その道の入り口に
  窟観音

一つ小さな石が立ててある。則ち太子洞(窟観音)に続く道である。
 駕籠をおりてこれを訪れゝば、歩くこと半町ほどで窟観音のところに至る。崖の高さは数十仞。岩腹を掘りて堂を作る。堂に二つ、左の堂には地蔵を安置し、右は太子像あり。皆空海が造ったものである。洞の中間に釣鐘を一つ掛けてある。その他に観る処は少ない。石畳の坂道を進んで堂のある場所へ行く。はなはだ急険しくて苦労する。洞の入り口に大きな石が山より落ちかかるものあり。石段に覆い被さっていりようである。その石の右は堂の土台と一つに連なるなり。うつむき、かがみながらその石の下を進む。始めて石段を得て行く。石段を登り詰めるた場所に、堂を右にして左に堂がある。始めて堂に入ると中は真暗で、左右の壁をさぐりながら進む。石段を幾段も登り下りし、つまづきながら進むと洞の中は少し広がっている。右に沿って行くと洞の出口があり、そこが開けて眼前が明かるくなる。この窟は岸壁の中を横に掘りたるもので、出口は甚だ狭くて縦横は三尺(91 )ばかりなり。頭から出して望めば新府の城跡前方に見える。下は皆田畑が広がっている。 
 郷士の道案内を呼んで、「ここから青木村へ行くことが出来るか」と問へば、「甚だ遠回りなり」と云ふ。あきらめてて元の処へ戻る。入口より出ると、二十才ばかりの一人の僧が手をこまねきて、待ち受けていた。これは寺僧と見える。寺庵は堂の右手の場所の上にあり、物さみしいような構え、ようよう太い柱が数本の建物なり。相迎へて庵で茶など一服してくださいと、すすめられるが、行きを急いでいるので庵には寄らずに寺僧と話しながら門を出る。話では「この堂は八百年も以前に鬼神が一夜のうちに、この崖を掘り、中に太子像を奉る。堂は昔から人々がこの処へ参詣したる道沿いにあった。世の中が変わり、この辺りも開け村となり、人家も多くなりて、国の指導で立ち寄れる宿場を置く。堂の前もみな田地となり、今は抜道のようになってしまった」と云う。
 元禄十六年冬の地震の時の事を尋ねれば、堂も洞も庵も全て少しも影響を受ける事はなかったと云う。寺僧に別れて目的地に向かって出発する。一つ家村(一ツ谷村)を通り、釜無川の川端をあちこち曲がりながら進む。北の方に行けば風なお止まず。左の白嶺の上を眺めれば黒雲湧き出て、甑(蒸籠・せいろう)を蒸す烟のようである。
 あの様子では、翌日は大方雨かと心配し、柳沢の古跡を訪ずれる道中のことを案じる。土地の人が、なお二日は天候は大丈夫いう。

  祖母石

 祖母石( )宿に至る。ここは、「田中に石があり、老婆立って居る様である」と。路傍には見えないので通りすぎる。この宿の中に小径があり、左へ別れて進む。韮崎よりここに至るまでは本街道なり。祖母石の小径を進み西に行く。釜無川をわたり、桐沢に沿って釜無川を渡る。沢の水ぎわは皆石原が続く。縦横半里ばかり後ろの方の木の繁りたる場所を振り替えって見れば、信玄の後の主、勝頼が城を移す処で世間でいう新府なり。遙に長い崖が数里続いているのを見る。崖はみな山より落ちかゝっているように筋を成して垂直の形状をしている。数万の石柱が並び立っている形のようである。その岸壁から石があちこち落ちて来る処もある。殊更に見事である。沢口が尽きる処の右岸上に人家が四軒あり、竹藪の間に見え隠れするのは折井村なり。左の岸の上の小道に沿って南の方に行く。また富士山が見える。微笑んで駕籠を迎えてくれているようだ。

  徳島堰

 右に徳姓の渠がある。これは四五十年前に、江戸深川徳島某なる人が、釜無川の水を取り入れてこれを造る。渠の長さは三十余里、取水口は円井村に在る。

  青木村常光寺

 徳島渠に沿って西の方角に行くこと数里、常光寺に至る。門前はみな田地なり。田地を隔てゝ人家五六十軒も群がり続く、これ則ち青木村なり。郷を司る奉行は、まかないの事を治める者とこの寺の僧が迎えに出る。挨拶して入り、堂にのぼり、柳沢吉保公の先祖の位牌を拝して、それより方丈へ行って話す。信玄時代の遺事三ケ条を得る。信玄公の時代の封券を観る。人名の門の字はみな問を書きたり。思うに古くは皆しかり。花押もまた時節のものではなく、古風で質素であるが、却って風雅なり。しばらくして湯餅を出したが、冷たく固くて食べれない。そのうちに奉行の言い付けた昼支度も出来て、家来とともに皆これを食べる。

  吉保公の祖先の墓・屋敷

 寺僧を伴い吉保公の祖先の墓を見るに、石碑の仕様今江戸の庶民の用いる物に比べて至極小さく見える。昔の質素なる風俗と思える。文字は剥げ落ちて分からず。それより寺を出て見ると、吉保公先祖の屋敷跡があった。
 来た道を引き返して、桐沢口を出て、折井村に入り、入戸野・円井村を過ぎて行くと、徳島渠の発源の処があり、その水の音は雷のような響きであった。

  「風流使者記」

  常光寺
渠に随ひて行くこと数里可りにして常光寺に到る。寺門東向し、門前皆田
なり。田を隔てて人家数十簇を作す。乃ち青木村なり。郷の有司の先行し
餉を治むる者出でて候つ。住持僧亦た両徒を帯して来り迎ふ。茂卿、省吾
各々揖す。先づ客寮に到り礼服盥漱し、堂に上りて
毘耶府君、
泰翁府君の神主を拝す。乃ち方丈に往ぎて対話し、遺事三条を得たり。僧
亦た旧き封券を出だし示す。券には
機山使君の時の四大夫、神祖に留事せし者の姓名を署す。所謂、桜井安芸
の守信忠、石原四郎右衛門昌明、小田切大隅の守茂富、跡部九郎右衛問昌
忠なり。昌明は即ち
兵部府君の外祖父なり。門ば皆問に作る。花押亦た今時の字様に非ず。古
僕にして頗る趣有り。僧云ふ。「寺は原十郎使君の剏置に係る。使君諱は
常光、故に寺は常光と号す。而るに世代
を崇ぶに在り文字を脱略し、或は常光に作り、或は盛光に作る。山は武隆
と号し、亦た武陵に作る。と。
又語りて云ふ。「開山第一の祖は海秀玄岱和尚、第二世は大清玄 和尚、
第三世は州山玄橘和尚なり。岱は拈笑英和尚の上足、英亦た豆州最勝院吾
宝和尚の門人為り。乃ち府下の興国寺を開く。玄橘は時の点鬼簿に尚ほ存
す云々。」と。
僧湯餅を供するも、冷硬にして喫うに中らず。郷有司治むる所の餉亦た成
る。僕徒輩皆中火す。茂卿・省吾、寺僧を拉きて

  墓

  十郎使君及び毘耶泰翁二府君の基に詣ず。厨右より上り其の所に到る。
  十郎僻君の墓は北に在りて南向し、別に一落を作す。
  毘耶府君及び夫人の墓、
  泰翁府君及び夫人の墓、皆其の南に在りて南向す。
  久山府君及び孺人の墓、
  雄山府君及び孺人の募、皆東向し、八位共に一落たり。其の久山どは
  即ち泰翁府君の子にして、
  兵部府君の兄なり。雄山亦た久山の子、二位者青木君の奉ずる所たり。
  諸府君の碑は皆塔様にして、
  諸孺人は皆五輪なり。其の制今時都下の士庶の用ふる所に較ふれぱ、
  甚だ短小と為す。時世の古質想ふ可し。文字皆剥落し痕跡存せず。乃
  ち年歳久遠のせしむる所なり。再び寺殿に詣で仏像を観る。薬師坐像
  一座、日光、月光二菩薩立像各々一座、倶に基大士の作なり。後に毘
  沙門天王像一坐石り。長さ三尺許り、乃ち
  尾州府君の奉事する所と為すと云ふ。寺を出づれば則ち
  尾州府君の旧は荘寺の北に在りて接隣す。西南は山に依り、東北は徳
  渠の経ると為す。方五十五六歩なる可し。西北に山有り、亦た
  府右の時の採樵せし所と為す。郎君の宅亦た其の東北に在り。長二十
  歩、横二十五歩、皆行きて巡視す。
 
 馬頭秋湮沈を問ふ  茂卿
 宅鞠まり草荒れて処として尋ぬる無し
 三尺の小碑山曲に空しく
 儼然として尚ほ見る古人の心。

  墓依然として旧封を認む  省吾
 山河今日垣 を護す
 老人来り説く当時の事    
 未だ必ずしも谷稜陵悉く蹤を変ぜず    

 武川村に入る(峡中紀行)

 小武川を渡り宮脇村に至って日が暮れる。土地の富豪の家に泊まる。この日は寒気が凄まじく、しかもこの村は山中にあれば、尚更なり。夜分庭に出て散策すれば、月痕頗る小さく、樹木蒼然たるを覚える。鬼神が人を落とす様に見える。独り「猛虎一声山月高し」を吟じて、庭に佇み立ち尽くす。暫くして部屋に入れば省吾はすでに寝入っていた。
 十三日、宮脇村を出て牧ノ原を経て、金峰を右に見る。丑寅の方角なり。北は八ヶ岳なり。西北へ進み山高村に入る。道の側らに村人数人が平伏している。人々に問えば柳沢の郷人が迎えに出ていたと云う。

 大武川

 大武川を右に見て西に進む。川は鳳凰山より出て東南の方に流れ小武川と合流して、東の方を流れる釜無川に注ぐ。南の方は青木より、北の方は教来石に至る一帯を武川と呼ぶのはこれによって得たり。
 それにつけても吉保公十二世の祖、源八時信君、十二人の子息をこの武川の地に封じている。
 その在所を問えば答える。
  「三吹は艮( )にあり、六里にして近く、
   白須は子の方角にあり、山を以て境としている。
   横手は戌の方にあり、大武川を境界とする。ここからは僅かに三里ばかりなり。
   教来石は乾の方角にあり、上下二村有り。
   上教来村十二三里、下教来石村は十五六里なり。
   上教来石村に関所があり、山口と云う。則ち信州の境界である。 
   新奥村は宮脇村の西南の山中にあり、

 その東北には馬場、東南に山寺、各々多少の間道あり。またここまで来る路中にあった、青木村・牧の原村・宮脇村を併せて、十二の士族が姓を受けた処であると。ふと見上げれ
ば金峰は東の方角に転じていた。甲府城を出て既に五十里、甲州と信州の境にまで来てし
まっている。
 駒ヶ岳・鳳凰山・駒ヶ岳も駕籠の前に近づいて来ている。これを望めば山の草木の無い
処三里四方に及び、焦げた石を重ね上げたようで、岩の尖った角は一つ一つ数える事が出
来るようで、山の形は勢いは猛々しく、これより前に富士山が微笑むようで、相向かう山
容は似つかない。相伝に昔聖徳太子が飼育する甲斐の黒駒と云うは、この谷の水を飲んで
育ったと成長したと云う。山上に祀る社もなく、ただ化物のようなものに出会った人も居
て、故に地域の人は余程のことが無い限りこの山には登らない。
 昔この山に登ろうした人が居て愚かにして勇なる人で、三日の食料を持って絶頂に登る。独りの老翁に出会う。
 翁は登った人にここは仙人の住む処で、その方などの来る処ではない。と、その髪を掴
んで崖の下に突き放したれば、ぼんやりとしている間に自分の家の後の山に落ちたと云う。鳳凰山の由緒を問えば神鳥が来て棲む処故に鳳凰山と云う。字はまた法王とも書く、法王
は大日如来なり。法王は奇瑞をこの山に表わし賜ふ事ありとも云う。また法王は東へ左遷
された時に、この山に登り京都を望む故にこの名があるとも云う。徂徠はその弓削の道鏡
の事を疑う。


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