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<参考文献>
山梨侠客講座
史料 「甲州やくざ考」
侠客のメッカといわれる甲州の風
そこから輩出した侠客の実態
参考資料『歴史読本』特集 幕末任侠伝
昭和46年3月特別号 所収
竹内勇太郎先生著
幼年期の見聞
大正の末期の話である。当時、私の家は甲州の東山梨郡七里村下塩後(山梨県塩山市下
塩後)という処に住んでいた。蒸気機関車の停車する中央線塩山駅から、西に約三キロ、
純然たる農村地帯の一部落である。
この部落に楠次郎という老人がいた。深い皺を日焼した顔いっぱいにみせて、枯木のよ
うになえた近在の老人と違って、色白で堂々たる恰幅の上に、柔和のうちにも気品のよう
なものがその顔にあった。
道などですれ違った幼い頃の私などに、楠老人は親しみのある微笑をうかぺて、くった
くなく話しかけたものだ。服装も常に絹か上質のつむぎの着流しで、たまさか野良着にな
って畑に出ても、終日働くという訳ではない。趣味の農作業といった感じである。家屋敷
も堂々としていて、ずしんとした感じの屋根瓦の母屋は、当時としては名家らしい格式の
なかに、モダンな風雅さというものを感じさせた。
楠家は名家であることも事実で、現社会党の代議士の小林信一氏も、たしかこの家と縁
続きになっているはずである。この楠老人に対する村人たちの態度は畏敬の一言に尽き
る。村長でも村議でもないこの老人に対して、村人たちは素朴な尊敬と信頼のようなもの
をみせて、冠婚葬祭や村のもめごとなどのたびに、この老人のもとを訪れていた。
村人たちはこの老人のことを「親分」と呼んでいた。勿論、地方農村における地主対小
作人、あるいは旧本家に対する分家などによるマキとして親分子分のそれとは異質であ
る。つまり、博徒の「親分」としての呼称が、楠老人に奉られていた訳である。
この老人が明治の末期から大正の始め頃にかけて、甲州きっての大親分であったこと
を、ずっと後年になって私は知った。もっとも私が老人に接した頃は、一家を解散して悠
々自適の晩年だったが、この楠老人の印象は、「凶暴無頼の博徒」というものを、別の観
点からみつめようとする姿勢を私に与えたような気がする。
ところで、その頃、私の隣家に、日原某という繭の仲買人が住んでいた。なかなかの好
男子で、あいそのいい腰のひくい人だった。妻君の方も粋な感じの美人で、幼い頃の私が
お使いになど行くと、当時としては高級のカステラなどを半紙にくるんでくれた。
ある午後、私が家の前で遊びほうけていると、突然、十二三人の刑事がこの日原家を襲
った。事情が判らずあきれかえってみて、いる私の前に、次々に近在の農夫や、商店主た
ちが、後手にくくりつけられて出て来た。日原夫婦も勿論である。寨博突の現行犯として
の逮捕である。
それから二三ケ月たって、塩山駅の近く菅田天神社の横で、殺人事件が起きた。賭場で
イカサマがばれての、博徒同士の喧嘩の呆てである。大正末期、私が幼年期に暫く住んで
いた甲州七里村の一時期の見聞録である。
これをみても、いかに甲州という土地柄が、博架あるいは博徒に深いかかわりを持ぢ、
つい先頃までその命脈が保たれていたがが判ると思う。
博奕を利用した信玄
甲州の博突の歴史を考えてみると、相当古い時代までさかのぼらなければならない。
『吾妻鑑』に双六は武士だけは許可するが、下臈は禁止するということがあるが、当時
の記録には陸奥、常陸、下総が最も盛んで、他に甲州、美濃、上野がこれに次ぐとされて
いる。最も当時の博突は、双六局(盤)に中央に一条の道を設け、その左右に十二目をつ
くって、これにおのおの白黒の駒(馬という)をならべ、筒に入れた釆二個を投げて、そ
れによって駒を動かして勝負を決したというのだから、賽の目に命を張ったといった殺気
をみせる賭場風景ではなく、遊去の一つの形式でもあったようだ。甲州で博突を一つの目
的として利用した人に、乱世の英雄武田信玄がいる。勿論、武田信玄が特に博突を好み、
率先して行なったという訳ではない。あくまでも戦略的にこれを利用したにすぎない。
乱世の武将が戦略上その謀諜機関として、所謂忍者というものを最大限に利用したのは
周知の事実である。
北条の風馬党、上杉の素波、そして武田の乱波。
もっとも信玄直属の忍者には、世に云う乱波以外に三ツ者と呼ばれる一団があった。乱
波は所謂山岳民「山窩」を中心に組織する直截的なスパイ団であり、三ッ者は士分や農民
でも多分に知的な才覚のある知能集団である。
…博突を弄して敵の腹中に入る…
というスパイ術が、この三ッ者の手段であった。映画やテレビでみる忍者は、男装束に
黒覆面、かずかずの忍び道具を持って現れるが、現実のスパイ活動は、とてもそんな芝居
ごとでは出来ない。旅の塩売、薬売、旅医者や旅芸人や山伏など極めて平凡な市井の徒輩
としての肝常活動が、結果的にその謀諜目的に結びつくのである。当時の武将の家臣団の
組織は、親族衆や譜代の被官が直属、その下に有力家臣団があり、その家臣団の鉗地にあ
る農民が卒として参加している。この農民兵に,接近した三ッ者が、短期間に深い親交を
持つ手,段に賽の目が利用された訳だ。
寺銭という言葉は、荘園地代に寺社が主催して、公然と賭場を開いて場銭をとったこと
がその語源だが、それでも判るように、戦国時代は全国的に博突が行なわれていた。
『北条五代記』などをみると、乱波と忍者と博徒が同意義にとらえられている。
現代でも得意先の接待や、上役のご機嫌とりに麻雀の卓を囲むが、賭ごとを通じての交
わりとうものは二不思議に相手の警戒心をとり去って、一種の仲間意識をかきたてる。
こうして武田忍者たちは、給指揮官、「諸国後使者衆」の指令のもとに、雑兵を相手に
三寸三分に切った竹筒に賽を投げこんで、三河や美濃、信濃や相模に巧妙なスパイ活動を
続けた訳である。
博徒輩出の原因
乱世が終り、徳川幕府の全国統一となったが、この頃からようやく全国的に本格的な賭場
や、準専業の博突うちが輩出して来た。勿論、甲州でも盛況を極めたのは当然だが、これ
に輿する古文書が殆どないので、江戸初期から中期にか一けての、甲州博徒の動静や個々
の人物像などは定かでない。
ただ慶長年間(1596〜1615)江戸随一の顔役だった大鳥逸平が鈴ケ森で刑死し
たのち、全国的に大鳥党の大検挙があり、甲州でも二十余人の博徒が捕えられたという記
録がある。また侠客などといわれている口入業の博徒幡随院長兵衛の子分で篠原の佐兵衛
というのがあるが、「出生は甲州西郡在云々」というので、多分今の中臣摩郡竜王町篠原
出身らしい。
この時代には専業の博徒という者はいない。職人とか仲間とか百姓とかが職業の余特に
所謂博奕を打つという程度で、またそれだげに何某一家の大親分というような人物は出て
いない。これは江戸幕府の権威が、名実ともに備わって、法度に対する摘発や断罪がかな
りきびしく行なわれた結果である。
甲州博徒の大親分ガ輩出拙しはじめたのは、幕府の行政がようやく行き詰った天保年間
(1716〜26)以降である。明治初年に出された「近世侠客有名鏡」をみると関東を
中心とした博奕百五十名が勢ぞろいしている。東大関が信夫の常吉、西方が丹波屋清兵
衛、以下関脇が大庭の久八と大前田英五郎、前頭筆頭が国定忠治と小金井小次郎といった
ぐあいで、甲州出身者は前頭三枚目に武居の安五郎、五枚目に身延の半五郎、それに続い
て黒駒の勝戯、祐天仙之助、少し下って甲府の玉五郎、伊沢の万五郎、三井の卯古、伊沢
の虎五郎、鬼神の喜之助、小天狗の亀吉と続く。ともに甲州の親分は百五十人中上位であ
る。・更に別格で清水の次郎長とならんで甲州谷村の人切長兵衛がある。もっとも新門辰
五郎や幡随院長兵衛が同じく別格で顔をならべているので、時代的のズレを無視した一種
の人気番付とみられる。
上州とならんで博奕の大親分が、どうして甲州にかくも台頭したのかということだが、
これは一にも二にも、曲り角にきた幕府の権威の失墜とその無力にある。
天保十二年(1824)徳川幕府の歳出入を見ると、歳入百十万千四百四十五両、歳出
百六十三万五千三百八十八両で、差引約五十二万四千両の赤字である。勿論、赤字はこの
年に始った訳ではないから、累積赤字は何千万両にも及んでいた訳だ。当然なことだが譜
代、外様に限らず国持大名もその台所は火の車だ。名目をつけて金を大名からということ
も不可能である。しぜん、そのしわ寄せは幕府の支配地、所謂天領に向けられた。
景も天領の宿命とでも云うのか、領民第一に考える国持大名と異って、代官行政はとか
く代官自身の点取主義、出世主義におちいるので苛酷な貢租の取立が行なわれる。
延宝九年(1681)七月に大野村、神沢村、石村では地頭の山上五郎左衛門の非道ぶ
りを訴えている。この時の本年貢のかけ方をみると、
御取カ五ツ六分ニテ御座侯トコロニ
五郎左衛門御壱人年々御高免二仰セ
付ケラレ九ツ三分二召上ゲラレ…
側取カは、御取箇で租額、五ツ六分というのは租率で、「免幾ッ何分何厘何毛」と唱え
る。つまり免一ツは石高一石に対して租米一斗を意味する。石高は村高ともいわれて、検
地の結果によって決定されるが、この石高に免の率を乗じて御取箇が決定されるのであ
る。江戸中期天領にれける租率は、最高六ツ三分、最低一ツ五分、平均三ツ四分で、享保
以降は普通四ツであった。ところが文意をみると、
五郎左衛門は御高率で(高厘)で九ツ三分(九公一民)という驚くべき高率をかけてき
たのである。(上野靖朗『甲州風土記』)。
この時も逃散百姓が多く出たが、これらは再度帰農は許されなかった。
これが幕末になると更に酷くな、って、各地で苛酷な石代のために逃散、娘売り、出稼
ぎ勿論、中井清太夫のような名代官も出たが、もともと幕政官体が財政的に追いこまれて
いたので、余程のことでないと天領民の訴えに耳をかそうとしなかった。
元来が甲州は地味の豊かでない痩地である。山岳が多く当然ながら、田畑の一戸当所有
率も少い。だから二男三男は、他家に婿入りするか、一生生家で居候として作男同然に暮
すしか生きる手段はない。行政権の行届いた大名領を追われた無頼の無宿者が、代官行政
の警察力の弱い天領に流れこむのは当然である。これらの無宿者と、圧政下にあえぐ百姓
業にみきりをつけた二男三男の徒輩が結びついた。
貢租を収めかねて逃散した百姓たちも、同時に無宿者となった。
だから甲州博徒の隆昌は、こうした幕府の末期的な行政の在り方にその因を発したとみ
ていい。
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