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さて武田信玄の亡き後、頑張った勝頼(かつより)ではあったが、多くの近臣武将の裏切り似合い、織田軍に追われ、天目山で若き生涯を閉じた。勝頼の死については諸説るが、どれも地域贔屓の説ばかりで的を得ない。また近臣の裏切りを末期とする説が多いが、穴山梅雪の裏切りは定説よりはるかに遡るものであり、勝頼が韮崎新府城に城を築いていた頃は、既に武田滅亡のシナリオは出来ていた。やがて徳川家康に仕えた人物の多さと仕官した時期からそれがわかる。武田滅亡から大正初期まで、山梨県の人々は武田信玄も思い出すことなく、甲府は関東でも有数な博打場と化していった。戦時中など、親不孝で息子殺しの信玄は片隅に追いやられ、「戦場常在」の馬場美濃守信房(信春は間違い)が武田軍を代表して大いに持て囃された。
○武田勝頼天目山討死が本説の事(随筆「翁草」所収)
福島正則内内伊藤右衛は武田勝頼の首を取し士なり。伊右衛門が噺なりとて、「津田幸庵物語」に、甲州滅亡の時、勝頼父子Φ行方がわからず、瀧川左近将官監一益が先に甲州の国中を尋ねる。
田野の奥天目山の麓に落人の男女60人が居ると聞いて、押し寄せて見るとみんな飢えて死にそうであった。戦えるものは殆ど無く、簡単に全員討ち取ってしまった。然るところに一益が旗本が来て話すのには、
勝頼は信州高遠へ取籠候間、その元を捨て早々帰るべきと告げるにより、これまで来れる証拠に、首ども少々馬につけて府中に帰るところに、勝頼高遠に在と云うは虚説なれば、、高遠発向は止め、また元の田野あたりを捜し求めているうちに、村人たちが田野の溝堀の辺りにて、皆頭巾様のもを脱ぎ一礼をして通るに付け、その仔細を問えば、あの堀の中に屋形様御父子御首御座候故、恐れ多くて如此と涙を流す。各是に驚いて堀を捜せば果して首ども溝より出る。
則土民に勝頼の首を選出させ、その外名のある武将の首を持って信忠へ献ずる。信忠是を実検せられ宣ひけるは、勝頼首は瀧川が内にて確が取りたるぞ、同じくは一益の甥の瀧川儀太夫抔(など)が取たれば、世の聞えも然るぺからんとて、儀太夫を召て見せ給ふに、是は某が取たる首にては無候と申す。
よって広い庭にある四十級計の首を見せらるるに、是は某が謀が取たる首なりと選出する。則、土屋惣藏の首なり、伊藤伊右衛門は庭上の首の中には我取たる首の覚無と云う。
勝瀬の首を見て、此の首が我取し首と云ふ。その証拠を尋ねられると、田野より塩手にくくり付け、道中摺れ申しに付き、首の切り口に某が乗馬栗毛粕毛血に交わり付可有之と申す。
即ち被改処に伊右衛椚が申すとおりなれば、伊藤が討しに究まる。
【割註】
落人の首を討捨にせしと見れば、ここの文談にてはな首を携たる趣なり。途中にて捨たるか不審。
信忠、その時伊藤に向かい、その方は取りし首は大将勝頼が首なり。汝は士の冥加に叶えたりと、被称、然るに近年の記録どもを見れば勝頼切腹と書いてあるもの有り、叉事々敷働らいて討死とも見えたり。いずれも虚説なり。われその時分は小平次とて瀧川方に奉公して、右の伊右衛門とも傍輩まれば、右に記すところ相違無しと、板倉周防守重宗亭にて、「津田幸庵物語」なりと云々
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