|
弘治 二年 1556】
☆六月中旬、信玄公、伊那へ出馬。七月・八月・九月と合わせて四ヶ月間で伊那を平定する。成敗した武将は、溝口殿・松島殿・黒河内殿・波部殿・小田切殿・伊那部殿・殿島殿・宮田殿。 (甲陽軍艦)
●三月十一日、武田晴信、水内郡静松寺住持に葛山衆の盟主落合一族を切り崩し、武田方へつかせた功を賞する。 (長野県史)
● 五月十二日、香坂筑前守宛書状
八郎丸之郷百貫之内、定所務六十五貫四百文之分出置候、相残所者、速
可奉納者也。仍如件。
弘治二年五月十二日
香坂筑前守殿
(「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部 上水内郡牟礼村 高野家文書)
● 六月二日、武田晴信判物写。
綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候、恐々謹言
弘治弐年六月二日 晴信(花押影)
井上左衛門尉殿
(「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部)
市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵)
●六月廿七日、
小幡尾州へ津金修理亮を遣はし候、そこ許に於いて諸事馳走肝要に候なり。謹言
六月廿七日 晴信(花押)
市川右馬助殿
同 右近助殿
読み下し (信濃史料叢書)
●六月廿八日、武田晴信、大須賀久兵衛尉に、欠落(かけおち)した被官人を還住させる。 (長野県史)
● 六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、
長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書
―――景虎出奔―――
(前文略)
信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・
嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。
(弘治二年)六月二十八日
長尾弾正少弼入道宗心
長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師
(「川中島の戦」小林計一郎氏著)
● 八月十七日、謙信、政景あて文書
私が隠居を決意したのは決して偽りではないが、あなたをはじめ国中の人々が自分を止めてくれる心を振り捨てるわけにもいかず、また私が戦争を怖がって隠居するのだといわれるのも心外だから、あなたの意見にまかせて隠居を思い止ります。
(「川中島の戦」小林計一郎氏著)
市河文書
●七月十九日
○別而可抽忠信之由、承候間、安田遺跡出置者也、恐々謹言
弘治二年七月十九日 晴信(花押)
市川孫三郎殿
●八月二日、武田晴信、水科修理亮に、善光寺と甲府の行き来につき、一カ月馬二疋ずつの諸役を命じる。 (長野県史)
●八月八日、武田晴信、真田幸隆に東条氏の埴科郡雨飾城の攻略を促す。ついで幸隆、同城を落とす。 (長野県史)
● 東条普請の儀、頼み入り候旨一輪を染め候ところに、すなはちその意に応ぜられ、自身着城あり、辛労の至、ことさら去年以来還附未だ安居あるべからず候ところに、かくの如きの儀、誠に以って謝するところを知らず候。いよいよ相挊がるるに就いては、快悦たるべく候、恐々謹言
八月廿五日 晴信(花押)
西条殿 (長野史料叢書 山形県西条信武氏所蔵)
●九月吉日、武田晴信願文(「山梨県史」中世資料県外文書 山形県の部)
☆市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵)
●十月廿七日、
(武田晴信)朱印
其方俵物借用之人、無相違可弁済候、有難渋之族者、可有注進候也。仍
如件。
十月廿七日
☆ 十月下旬、秋山伯キ守の相備え、坂西(ばんざい)・市野瀬・知久・春近衆合わせて二百騎が秋山の与力。秋山の城は高遠城に置く。
☆ 飯富三郎兵衛の相備え伊那衆、松尾百騎、下条百五十騎・松岡五十騎と武功に優れたもの五十騎を加え、三郎兵衛の二百騎と合わせて五百騎。
☆ 小山田備中は尼飾城(長野市松代町 越後に逃げた東条氏の居城)
☆ 春日弾正は海津城。和田・余里・布下・楽岩寺から武功の優れた三百騎、当初からの百五十騎を合わせて四百五十騎。
信州の香坂の苗字を受けて春日から高坂弾正となる。
川中島衆の西条・清野・芋川などが高坂の相備えとなる。
☆ 二の郭は足軽大将、小幡山城の子息又兵衛
●十二月二十三日、武田晴信、岩波八郎右衛門尉に諏訪郡金子・栗林の地を充
行する。 (信濃資料叢書 岩波文書)
● 十二月二十四日、是より先、武田晴信西条知部少輔をして、水内郡小田切方川北の本領を安堵せしむ、是日、晴信更に更級郡、原・今里の地を充行ふ。
(信濃資料叢書 西条文書)
原・今里の儀について、香坂入道より様々承る旨之条、当分相違覚悟の
外に候、何時に候とも、小田切方川北の本領一両箇所安堵に至っては、
先判の旨に任せ、原・今里相渡すべく候。この趣先書に染むといえ雖も、
若し疑心あるべきの由、校量せしめ候間、重ねて書き出すところなり、
仍って件の如し。
弘治二年十二月二十四日 (朱印)
西条治部少輔殿
☆市河文書(市川育英氏所蔵)
●十二月二十六日、武田晴信、市河右馬助に、兵糧米の保管を保証する。
其方所持之粮、預置信州佐久郡之処、悪党巳下威敗之砌紛失之候間、於自今以後不可有相違候条、可被存心易者也。仍如件
弘治二年十二月廿六日 晴信(花押)
市河右馬助殿
同右近助殿
その方所持の粮米、信州佐久郡に預け置くのところ悪党巳下成敗の由に
候の間、今より以後に於いて相違べからず候条、心易く存ぜられるべき
ものなり。仍って件の如し。
筆註
同様の文書が「山梨県史」資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部に「武田家朱印状」p717に掲載されている。(龍朱印)で晴信花押は見えない。
|