全体表示

[ リスト ]

六月十六日
晴信、市川籐若宛書状(「信濃史料叢書」 謙信公御代御書集』)
急いで客僧をもってお伝えします。そもそも長尾景虎が六月十一日に飯山に陣を移した様子で、風聞では高梨政頼がそちらへの融和工作をしているようですが、いうまでもなく、誓約の旨のとおりこちらの心底は残らず申し届けてあるとおりです。幸いに当方の陣は警固であり、さらに来る十八日には、上州勢がことごとく加勢にこちらのほうへ出張し、上田方面には北条綱成が着陣する予定です。越後勢は日を追って滅ぶでしょう。それが晴信の本意であることを知ってください。早々に軍備の調えを切に頼むこと、相変わらずの忠節を望むところです。なお、追って使者を送り一部始終を申し上げます。恐々謹言
     六月十六日                 晴信(花押)
市川籐若殿
(山日新聞による)










☆六月廿三日
晴信、市川籐若宛書状
●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。
★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。                (北海道、市河良一家文書)

注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地
へ取り懸かるべき模様、又武略に入り候と雖も、同意無く、
剰え備堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由誠に心地よく候。何れも今度、其の方の擬たものしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰の義、飛脚に預り候き。すなわち倉賀野へ越し上原与三左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与三左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばず候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下地を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本管助口上有るべく候。
恐々謹言。
       六月廿三日   晴信(花押)
市河藤若殿










●七月三日、是より先水内郡飯山城将高梨政頼、越後春日山城将直江實綱を音
 文する。                         (高梨文書)

●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。

●七月五日、武田晴信感状。
   於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕、剰被疵二ヶ所候
条、戦功感入候、弥可抽忠信者也。仍如件。
     七月十一日  晴信(龍朱印)
        溝口
(信濃史料)
●七月五日、武田晴信の軍、安曇郡小谷に長尾景虎の軍と戦う。尋いで、晴信、
諸士の功を賞する。
 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕之條、忠節感入候、
弥可抽戦巧者者也。仍如件。
弘治三年七月十一日        晴信(朱印)
 小平木工丞殿
 筆註  
☆ 同様の文書が多数ある。(「信濃史料」『諸州古文書』)
 岩波六郎左衛門殿・篠原藤十郎殿・三井助七郎殿・小井弖藤四郎殿
 岩波藤五郎殿・大村与右衛門殿

● 「千野文書」諏訪市本町 千野俊次氏所蔵 抜粋
  小谷城御本意の時分、構際に於いて弓を涯分仕り候。板垣具に言上故、高
白斎を以って深志の御対面所へ召し出し、此の類なく相挊ぐの由、御褒美
候事。

● 七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。

☆ 八月、信玄公は途中であった上野の信濃守の居城箕輪城を攻めた。十月中旬に信玄公は帰る。                    (甲陽軍艦)

●八月六日、武田晴信、安曇郡山田左近をして、本領を安堵せしむ。(山田文書)

●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦)
   今度於信州上野原(水内郡)一戦、働無比類次第ニ候、向後弥挊之事肝
   心に儀。謹言。
   (弘治三年)八月廿九日             景虎
     南雲治良了右衛門とのへ
(同様の文書の宛先 大橋弥次郎殿)

● 九月二十日、越後方の大将、長尾政景の感状
   信州上野原に於いて、晴信に対して、合戦を遂げ、勝利を得候砌、神妙
の働き比類なく候。向後いよいよ稼がるべきこと専要(大切)に候。
謹言。
      九月廿日              政景
下平弥七郎殿

● (「川中島の戦い」小林計一郎氏)


●十月九日、武田晴信、安曇郡千国谷に高札を掲げ、谷中の乱妨狼籍を禁止する。

●十月十六日、馬入。窪川孫二郎討死。【王代】

● 11月六日、武田家奉行衆、小尾藤七良に対し、京進面付として五百六十文の納入を命ずる。(正親町天皇即位に伴う経費の捻出か)
   就京進面付之事(略)
    弘治三年十一月六日
      長坂筑後虎房 (花押)
      三枝右衛門尉 (花押)
      室住豊後守虎光(花押)
    小尾藤七良代
(「須玉町誌」史料編第一巻)

●此年、将軍足利義輝、長尾景虎上洛のため景虎、武田晴信の和睦をはかり、聖護院道澄を派遣する。

●弘治元年(1555)閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。この年の二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。
 (甲府市史)

●此年、武田晴信、善光寺の仏像・仏具を小県郡彌津に移す。信濃善光寺とその門前町が寂れる。
●弘治年間、武田晴信、伊那郡に小野川・波合関所を設ける。この頃、清内路・帯川・心川関所も置く。

《参考》川中島の戦い。『川中島五箇度合戦記』

第一回 天文廿二年八月(1553)
第二回 天文廿四年四月(1555) 百五十日間
第三回 弘治 三年  (1557)
第四回 永禄 四年九月(1561)
第五回 永禄 七年八月(1564)


.

過去の記事一覧

山梨の歴史資料(北杜市)
山梨の歴史資料(北杜市)
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事