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烏亭焉馬の『市川家家譜』によると、

 代々甲州の武士で、永正年間(1504〜20)に北条氏康の家臣になり、天正にいたって小田原没落後、下総國埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、重蔵の代にな
って市川に移って郷士となり、江戸初期の慶安、承応(1648〜55)のころ江戸に出たという。 

『山梨県人物博物館』には

 この初代団十郎の父が堀越重蔵、祖父の重左衛門、曾祖父の十郎家宣は共に甲斐武田家 の一門、一条信龍の家臣であった。堀越十郎については、永禄十二年(1569)の相州三益峠の法条氏との戦いで手柄を挙げたことが感状(戦功を賞した文書)として残されて いる。
 堀越一族は天正十年(1569)三月、主家の滅亡後、相模に逃れ、さらに下総国旙谷村(千葉)に逃れた。 

 三珠町の「歌舞伎会館資料」は、

 この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武  田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。

 焉馬の『市川家家譜』では、初祖は永正年間にすでに甲斐を離れている。永世年間といえば、武田信虎の時代であり、大永元年(1521)には信玄が生まれている。よって初祖は甲斐に生まれたが武田家の家臣ではなかったことになる。武田家の家臣を幾ら探っても「堀越」を姓とする武将は居ない。山梨県には「堀越」の地名も存在していない。「歌舞伎会館資料」の、堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。の下りは史実と言うより創作色が強く感じられる。こうした事象が若し事実であれば、その根拠となる史料の提示が欲しい、その資料の信憑性を確認したい。
 多くの人は単純に、「市川団十郎の初祖は市川大門の出身である」と思っているのではないか。三珠町に近接する市川大門町と団十郎の関係はないのであろうか。
 さらに言えば武田信玄の能の師匠に堀越十郎家宣という人物が居たことも史料には見えない。 また一条信龍の家臣だったとの記述も論拠を持たない説と思われる。適切で有効な史料の出現が待たれるところである。

 『俳優世々の接木』による市川團十郎は

  本国 甲斐
   傳ニ曰、先祖は甲斐市川村ノ産にて其子重蔵ハ下総國佐倉領幡谷村の郷士と成苗代をつぐ。□農堀越氏といふ。 (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 このほうが史実のように聞こえるがいかがなものであろうか。    

 団十郎が記載されている著書は多く見られる。

▽ 『明和伎鑑』…… 明和六年(1769)

 元祖市川團十郎、三ケ津立役の開山。才牛。下総國佐倉の住人。幡谷村(一本成田)。堀越某カ男、幼名海老蔵。
(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

▽ 「團十郎の家紋、三升」

 市川團十郎の定紋。米を計る升の大・中・小三個を入れ子にして、上から見た形を図案 化したものである。
 一説に、初代團十郎が不破伴左衛門の役の衣装に使った稲妻の模様から転じたとも伝える。(『役者名物袖日記』)
  
 また、團十郎の祖先は甲斐國東山梨郡市川村の出身とする説を踏まえ、この地方の升は「甲州の大升」といわれ、一升が普通に升の三升に相当するほどの大きさからヒントを得  たという説もある。正確な由来はわからない。(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)  ここで、市川家家系について記述し本人も談洲桜と名乗って、団十郎と無二の親友であった烏亭焉馬について調べてみた。

▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 

  『江戸時代おもしろ人物百科』 
   寛保三年(1743)に生まれる。
 
 本名は中村利貞。字は英祝。通称和泉屋和助。別号立川焉馬。談洲桜。桃栗山人柿発斎。本所に住む大工の棟梁だったので、狂名は鑿 言墨金という狂歌師であり、洒落本、黄表紙、合巻などの戯作もあり、五代目市川団十郎と義兄弟になって戯作にも手を染めた。落語は彼の余戯であったが、天明六年(1786)四月十二日、大田南畝、鹿都部真顔の協力をえて、向島武蔵屋方で噺の会を開いた事が契機となり、以後も文人達の協力で再三噺の会をひらき、噺本も刊行して、鹿野武左衛門以後絶えていた江戸落語中興の祖という役割を果たした。

 主著は演劇史『歌舞伎年代記』、洒落本『客者評判記』、噺本『喜美談話』『詞葉の花』 『無事志有意』など。文政五年(1822)六月二日に没した。享年八十歳。

▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬

  『江戸文人おもしろ史話』杉田幸三氏著

   年80歳。江戸出身。寛保三(1743)〜文政五(1822)
 本所の相生町にいた大工の棟梁和泉屋和助が通称である。五世団十郎と仲がよく、団十郎の名をもじって「談洲楼」という号がある。
 父の職を継ぎ大工の棟梁となった。が、どういうもか自宅では木綿製の足袋を売っていた。大工の棟梁からきた狂号を「鑿 言墨金」( )と称した。
 相生町の家は、上り口から六尺四方の三升(三升とは紋所の名。大・中・小三個の升を入れ子にし、上から見た形を図案化したもの。団十郎の家紋として有名)形。上部には、五世団十郎が男之助に扮した時の上下でつくった揚幕を垂らしていた。
 さらに二階に二室あったが、畳に三升の模様を織り出し、一室の天井は同様、三升形の網代天井とし、障子の骨まで三升だった。
 また襖や畳の縁を見ると、団十郎の十八番の暫に着た柿色の素袍を使っていた。それでいて、洒落本、草双本、笑話作家なのである。云々
   
▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬  

   『歌舞伎の世界』「象引考證」服部幸雄氏著

 烏亭焉馬が熱烈な五代目団十郎の贔屓で知られ、義兄弟の契りを交して、談洲楼(だんじゅうろう)と名乗ったほどであったことを、改めて言うに及ぶまい。馬(焉馬)の守護神である猿(五代目は俳名の文字を白猿と改めた)の民族についての知識も、両者の関係の親密さを物るもののように思う。
 焉馬は「花江都歌舞伎年代記」を編纂する一方、天明九年(1789)刊の「江戸客気団十郎贔屓」を端緒として、寛政四年(1792)刊の「御江都錺蝦」から文政元年(1  818)刊の「以代美満寿」に至る、いわゆる「白猿七部集」を次々と編集し、出版した。これらの書を検すると、焉馬が早い時期から、市川団十郎代々の当り芸を抜き出して紹介  しようという意識を抱いていたことがはっきり見てとれる。云々

▽ 『明和伎鑑』……「筑波大学図書館所蔵」

   『市川団十郎』内掲載。西山松之助氏著  市川家
   元祖市川團十郎三ケ津立役の開山
   才牛。下総佐倉の住人。幡谷村(一本、成田)
   堀越某の男。幼名海老蔵。居宅、深川木場。

 


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