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さて市川家と甲斐の関係が見える資料に次の著がる。
▽ 甲府の芝居と亀屋座(四)…… 小沢柳涯著 『甲斐』第四號所収
○ 寛政五年(1793)六月、市川蝦蔵(五代目團十郎)来る、狂言は「御前戀相撲曽
我」に「鏡山」。 局岩藤。工藤祐經(蝦蔵)、お初(富三郎)これは江戸河原崎 座の於ける狂言にて、市山富三郎 は瀬川菊之丞なりと。
○ 此年秋八月、お馴染みの坂東彦三郎、瀬川菊之丞と共に来り、「假名手本忠臣蔵」を演じ、彦三の由良之助と菊之丞 の顔見尤も好評あり。
○ 同七年六月、又々蝦蔵一座、亀屋座に来る。狂言は「碁盤太平記白石噺」、大切浄瑠璃の作事「積變雪關扉」にて、初代男女蔵初めて登場。男女蔵は白猿門下の秀才 にて此時歳漸く十五。
○ 同九年六月、重ねて市川蝦蔵来る。白猿一世一代の触込にて、乗込み前より夥( ) しき人気なり。外題「菅原傳授手習鑑」。
○ 役割は、源蔵女房千代(佐野川市松)。菅丞相、武部源蔵(坂東三津五郎)、松王丸(蝦蔵)
○ 蝦蔵は前年(寛政八年)十一月、江戸の都座にて「大當源氏」に碓井貞光「暫」に修 業者實は相馬太郎、二番目に山姥の分身を勤め、之を一世一代として舞臺を退き、成田屋七左衛門と改名して江東向島に閑居せりとある故、甲府へはお名残りの為時に出演せりと思はる。
さて市川団十郎と言えば成田山新勝寺との関係が深い。その成田山と団十郎の関係については次の著がある。
▽ 成田山新勝寺……『郷土資料辞典』「千葉県・刊行と旅」
(前文略)
寺は中世に入ると衰退したが永禄九年(1566)成田古薬師に移転され、近世初期、 佐倉藩の祈願所として復興された。元禄十三年(1700)香取郡医王院から入山した昭 範上人は寺の再興を図り、宝永二年(1715)寺基を現在地に移して諸堂塔を造営、寺観を整えるとともに、不動尊の霊験を世に広く宣伝し、多くの信者を集めて、今日の隆盛 の基礎をつくった。昭範上人が中興第一世とされている。
江戸の市民たちの、信仰とレクリエ−ションを兼ねた「成田詣で」が盛んになったのもこのころからで、その要因の一つとして、江戸出開帳と、歌舞伎役者の初代市川団十郎が あげられる。
江戸出開帳とは不動明王本尊と二童子像を厨子に納め、佐倉街道を経て江戸に出向くことをいい、第一回は元禄十六年におこなわれ、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝したという。以後明治31年最後の深川出開帳まで十五回を数え、江戸市民と成田山の接触を深めた。
初代市川団十郎は今の成田市幡谷の出身で、団十郎の屋号を成田屋と呼ぶのも、これに よる。子宝に恵まれなかったが、ひたすら不動尊に念じて一子九蔵、後の二代目団十郎を授けられてから不動尊を取り入れた芝居、いわゆる荒事芸を演ずるようになった。これが当たって、市川団十郎とともに成田不動の名を、江戸市民に深く印象づけることとなった。七代目団十郎も成田山の授り子といわれ、天保十三年(1842)、老中水野忠邦によ る天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸を追われたとき、成田屋七左衛門と名を改め、暫く成田山内の延命院に身を寄せている。
▽ 初世市川団十郎……荒事開山(『日本の歴史』「任侠の群像」今尾哲也氏著)
江戸の随市(一)川とたたえられて久しく江戸歌舞伎に君臨した市川家の祖初団十郎は町奴の子であった。
父は堀越重(十)蔵。下総国羽生郡幡谷村の富農の家に生まれたが、生来農業を嫌い、任侠の道を好んで、正保年中(1644〜47)、家を弟に譲り、江戸に出て和泉町に住 み、名を幡谷重蔵と称した。豪気な性格に加えて筆も立ち、計理の才もあったところから、地主の代理人となって信望を集めた、その間、唐犬組の首領唐犬与兵衛(のちに十右衛門)や幡随院長兵衛などの遊侠の徒と交わり、異名菰の重蔵とも面疵の重蔵とも呼ばれた。母はやはり町奴遅蒔重兵衛の娘。
その父が三十二歳、母が二十一歳の年に団十郎が生まれた。万治三年(1660)五月のことであった。唐犬十右衛門は親友に男の子ができたのを喜び、お七夜の日、名付け親となって海老蔵と命名し、自宅に掛けてあった海老の絵を贈ったという。海老蔵は幼時から芝居を好み近くの劇場に毎日のように遊びに出かけ、やがては自分も役者になりたいものだと願っていた。
ちょうど父の友人に座主三世山村長太夫がいた。その世話で、間も無く彼の願いはかなえられ、延宝元年(1673)、十四歳の折、市川団十郎と名乗って中村座で初舞台を踏んだと伝えられている。
貞享二年(1685)という年は、彼個人にとっても、一時期を画する輝かしい年となった。市村座の『金平六条通い』に、坂田金時に扮した団十郎が、荒事の芸に、新しい道を開いたからである。荒事とは和事に対する呼び名で、怪力勇猛の武人や超人的な威力の持ち主の、荒々しい所業を表わす演技の一様式をいう。
昔から日本人には、ある事物、ある現象の在り方を和と荒の対立によってとらえる習慣 があった。神霊の平和で静かな状態をさして、人々はそれを荒御霊といった。御霊の勢い が烈しさ、猛々しさを示す言葉であったのだ。荒事と呼ばれる演技は、奴つまり任侠、無 頼の徒の粗暴な風俗を写すことからはじまったらしい。ついでそれは、祭らぬ者に恐ろしい祟りをもたらす荒ぶる神(御霊神)のイメ−ジを介して、怒り、荒れ狂い、世の秩序を 破壊しょうとする悪人の表現に用いられた。
団十郎はすでに、そのいずれにも通じていた。その土台の上に、彼は、金平という人物の創造をとおして、悪を威圧して正義を貫く、超人的な力をもつ武人を表わす荒事芸を生 み出したのである。云々
▽ 元祖團十郎傳並肖像(『近世奇跡考』山東京傳著)
江戸の俳優初代市川團十郎は、堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯(1651)江戸に生る。重蔵は下総国成田の産、(〔割註〕或云、佐倉幡谷村の産、『役者大全』に云ふ市川村)なり。江戸に移り住む。曾て任侠を好み、幡随院長兵衛、唐犬十右衛門等と友たり。團十郎生れて七夜にあたる日、唐犬十右衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよし。(〔割註〕今の白猿ものがたりぬ)初名を段十郎とよび、後に團十郎に更む。
曾て俳諧を好み、奮徳翁才麿の門人となり、俳号を才牛といふ。延宝のはじめ、和泉太夫金平人形のはたらきを見て、荒事といふことをおもひつきたるよし、(〔割註〕『侠客傳』に見ゆ)延宝三年(1675)五月、木挽町山村座、凱歌合曽我と云ふ狂言に、曽我五郎の役を始てつとむ。(〔割註〕時に年二十五才)延宝八年(1680)不破伴左衛門の役を始てつとむ。(〔割註〕時に年三十才)衣装の模様、雲に稲妻のものずきは、
稲妻のはしまで見たり不破の関
といふ句にもとづきたるよし(『江戸著聞集』)に見ゆ、鳴神上人の役を始てつとむ。 (〔割註〕時に年三十四才)鳴神を堕落さする女の名を絶間となづけしは、團十郎のおも ひつきたるよし、これ等を以て其才の秀でたるをはかり知るべし。元禄七年イニ六年、京 に上り、同十年江戸に下れり。(〔割註〕貞享五年(元禄元年)『役者評判記』「野郎立 役二町弓」といふ書に、左のごとくあり。此頃の評判記は、おほく半紙本なり。位付なし。 元禄の末横切本となり、位付あり。
▽ 市川團十郎 住所ふきや町がし
此市川と申すは、三千世界にならぶなき、好色第一のぬれ男にて、御器量ならぶものなし。丹前の出立ことに見事なり。せりふ天下道具なり。およそ此人ほど出世なさるゝ藝者、又とあるまじ。事実、悪人、その外何事をいたされても、おろかなるはなし。ことに學文 の達者にて、仕組の妙を知らぬものなし。当世丹前役者の元祖、お江戸においてかたをならぶるものあらじ。威勢天が下にかゞやき、おそらくは末代の役者の鏡ともなるべき人なり。すえずえはなほもはやり玉はん。歌に
市川の流れの水もいさぎよく悟りすましたる藝者哉
貞享年中印本(『舞曲扇 』)
江戸狂言役者
○玉井権八 ○南瓜與惣兵衛 ○宮崎傳吉 ○市川團十郎
かくのごとく、作者のうちにもかぞへぬ。案るに貞享、元禄中の狂言、團十郎の作おほし。(『江戸真砂』)に云、〔寛延中写本なり〕
元禄年、勘三郎座にて、團十郎荒園の役、切り狂言に、鍾馗大臣に成て、大当りせしが、その姿をえがき、鍾馗大臣團十郎とよびて、ちまたを賣ありく、おのれ七八才の頃、めづらしく、五文ヅツに買ぬ。それよりやゝ外の役者はやりいでぬ云々。
團十郎、元禄十七年(改元宝永)二月十九日死。享年五十四。芝三縁山中當照院に葬る。法名 門誉入室覺栄。
柳塘館蔵本に、宝永二年印本(『宝永忠信物語』)と云ふ草紙五冊あり。これ團十郎一周忌追善の書なり。
市村竹之丞芝居、八島壇の浦の仕組、忠信四番続の狂言に、團十郎、次信の役をつとむるうち、二月十九日五十四才にて身まかる。幼名を舛之助といふしよし見えぬ。然則星合十二段といふ狂言の時死せしと云ふ説は非歟。
元祖團十郎実子、二代團十郎柏筵が傳は、あまねく人のしれる事なれは、こゝにもらしつ、今已に名跡七代におよぶは、誠是俳優の名家と云ふべし。
▽ 助六狂言の考(『近世奇跡考』山東京傳著)
……成田山新勝寺の案内文……
成田屋の屋号を名乗る市川團十郎は、代々、成田山とは深くて強い縁で結ばれています。初代市川團十郎は江戸時代の万治三年(1660)に生まれたが、その父堀越重蔵は下総国埴生郡旙谷村(成田市旙谷)出身でした。今でも成田市旙谷の東光寺の墓地には、二代目が建てた初代団十郎の碑があります。
……市川團十郎の墓地……
常照院はかって歌舞伎の名門である市川團十郎の菩提寺であり、当家の墓所がありました。
初代團十郎が刺殺という不慮の死を遂げたのは元禄十七年(1704)でした。いかなる縁かその遺骸は、徳川将軍家の菩提寺で芝増上寺の子院である当常照院に葬られました。現在も三升の紋の香合、五代目が寄進した七代目が修理した一対に唐金(銅)の灯籠、そして七代目文政元年(1818)に贈った石の手水鉢などがその歴史を語っています。八代目團十郎は大阪で自害し、やはり浄土宗である大阪の一心寺に葬られ、常照院には遺髪が納められたそうです。
その後時代は明治に移り、市川家の復興をはかった革新的な九代目の團十郎は神道に改宗、明治三十六年(1903)に亡くなりました。その墓地は神武となり公営の青山霊園に建立されました。以後市川家は神道となりました。
そして大正十二年の起こった関東大震災の被害により寺院の移転、墓地の改修など相次ぐなか、常照院も墓地の整理改修をすることとなりました。そのため、昭和九年(1934)にそれまでの市川家の墓地も青山霊園へ移転改葬されました。
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