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武川長助倍紹について
白州ふるさと文庫 山口素堂資料室
私は、製材業を営んでいる者です。そのかたわらで地域の歴史や近県と甲斐のつながりなどを気楽に研究しています。 3年前くらいにツア−で下呂温泉に宿泊した折に、宿に「武田二十四将」の図があり、さらに近所の売店が「武田屋」で、その家の苗字が、武川」(むかわ)であり、そこの婦人の話ではそのル−ツを求めて、山梨県北巨摩郡武川村を訪ねてこともあると聞きました。
その後、飛騨に仕事で出かけ裏木曾街道を通りました。岐阜県益田郡萩原町中呂にさしかかった折に左側の寺の棟に武田菱の紋があるのが目に入り、あわてて立ち寄ってみました。その寺が「禅昌寺」ったのです。武田菱のことも訪ねたのですが、はっきりしたことはわかりませんでした。そばにあった歴史資料館は工事中で拝見できませんでしたが、下呂温泉に立ち寄って『飛騨屋久兵衛」の本を手に入れ、興味深く読みました。
「武川」について、混乱があるようですが、山梨県の地名で北巨摩郡武川(むかわ)村(現在、北杜市武川町)は新しい村名で、昭和のはじめ頃できた村名です。
『飛騨屋久兵衛』のでてくる「武川」は たけかわ ・ むかわ の呼び方があるよう
ですが、山梨県にある地名は、 むかわ です。現在の北杜市白州町大武川(おおむかわ)集落。河川名、大武川(おおむかわ)・小武川(こむかわ)などがあります。また恵林寺の近くにある牧丘町(現在、山梨市)にある氏及び河川名に武川や竹川があります。
恵林寺と益田郡萩原町の禅昌寺の関わりについても『飛騨屋久兵衛』で触れていますが、禅昌寺の山門の武田菱の紋の持つ意味の深さと、両者の位置の関係から、何か武川長助倍紹(ますあき)の出自に関係あると思われます。
また武川衆(武河衆)は存在しても甲斐源氏の中には武川を姓とする武将は存在しませ
ん。また武田家臣団の中にも武川を姓とする武将はいません。(後述)
武川長助倍紹(ますあき)の出自は、恵林寺に住持したことのある快川紹喜や当時、武川の地名があった牧丘町(現在)にある竹川・武川(たけかわ・むかわ)によると考えたほうが自然だと思われます。
さて長助倍紹(ますあき)の出自に関係ある甲斐国武川について諸文献を調べてみましたので、ご報告申し上げます。参考にしていただければ幸いです。
『飛騨屋久兵衛』による、武川久兵衛
一、「第三章 飛騨と武川久兵衛」
武川家の祖先
甲斐源氏長助倍紹(ますあき)が飛騨の国下呂温泉湯之島に来たのは天正十一年
(1583)である。甲斐の国武田氏の家臣であった事を理由に、従来の武川姓を
名のることを条件として中島家の養子となった。
倍紹は織田・徳川連合軍の最も恐れていた武田騎馬隊の一員であったようである。(云々)
倍紹が下呂へ落ちのびた当時
現在下呂町在住の武川久兵衛氏は、倍紹から数えて十三代目である。倍紹は甲
斐の国を遁れて飛騨に落ちのび、隠れ住む場所として湯之島を選んだ。しかも武田家臣であることを告げ、武川姓を名のった。(云々)
高原郷の江間左間之助時盛は川中島の合戦に武田の呼びかけに応じて挙兵して
いる。天正九年(1581)江間信盛(輝盛の弟)は遠州高天神城で武田勢に加わり戦死している。
三木自綱はその息宣綱が武田に通じていたことを理由に信長の命令によって、自害せしめた事もあり、信長が三木に命じて江間氏や広瀬城主山城守を後略せしめた事もある。
二、「第六章 武川家菩提所について」
武川家初代の碑銘に
天正十一年癸未、倍紹始至干当村。可令称自姓武川之旨約定、而為婚、従先祖
数十代於甲斐国、受武田御家之御恩禄、因、当代初七代目、不可食他家之禄旨遺
誠之、申傳之相守處也。〔天正十一年…1583)
とあり、裏面には、
初代倍紹 甲斐源氏
武川長助 永禄四年辛酉年(1561)
甲斐国武川庄生(かひのくにむかわ章)
寛永十八年辛巳年四月十九日卒去(1641)
壽 八十一才
「甲州卒故当国之無墳墓之」
下呂温泉寺 寛文11年(1671)武川家3代久右衛門倍良が開基となり、
開山として剛山和尚を拝講した菩提寺。
読み下し
「天正十一年癸未、倍紹始めて当村に到る。自ら姓を武川と称せ令む可きの旨を約定して、而婿と為る。先祖従り数十代甲斐の国に於て、武田御家の御恩禄を受く。因って、当代を始め七代目、他家の禄を食むべからずの旨遺誡して、之を申し伝え相守處也。」云々
「甲州卒故に当国の中に墳墓これ無し」
この碑銘は(中略)「武川家系譜」に記されているものを、昭和三十八年現代の久兵衛氏が、初代の年回に当り、その墳墓が当地に無い事を、長年苦慮されてきたことから、新たに建立するについて、系譜より写され、刻名されたものである。尤もこの系譜は武川家第十代久次郎の時代、同一人に依る記載らしい筆蹟が認められる。
(略)碑銘の信憑性は兎も角、武川家の先祖を知る今は唯一のもととなっている。この碑銘をもとに机案してみると、武川家初代、武川長助倍紹の生まれた永禄四年は西暦一五六一に当り、「天正十一年始到干当村」この時、倍紹は当年二 十三歳になっていた。
仄聞する所に依ると、甲斐の武川村(山梨県《北》巨摩郡武川村)は当時、勇猛果敢で、勇名を馳せた武田騎馬隊の勇士の多く出た地域とか。恐らく武田、上杉の抗争を始め、戦国の世の相次ぐ戦いに出陣し、一族は天正十年武田家の滅亡に無念の涙をのみ、倍紹は飛騨に移住したものであろう。
同じ天正十年飛騨では、武田に組して飛騨を領していた江馬氏は、三木自綱の
火綱戦術に敗れて滅され、代わって三木氏が飛騨全土を平定したようである。
この天正十年は、武田信玄が快川紹喜を住持として拝請し、武田家菩提寺として定めた甲斐の恵林寺をが、織田信長勢によって焼かれた。その折、火定三昧に に入った快川国師の事は有名である。(略)
だが偶然か、武田家の帰依の篤かった恵林寺の快川国師は、禅昌寺の開山明叔
慶浚和尚と非常に親交のあった事が知られている。その意味では、武田家恩顧の篤かった武川倍紹にとっては、ただならぬ因縁を感じ禅昌寺と菩提寺と定めた事だとおもう。(略)
其後禅昌寺第四代希菴和尚も、武田家と深い因縁があったようである。希菴和尚は武田信玄の拝請による一度は恵林寺の住持になっている。しかし再度信玄より恵林寺の住持にとの懇請があったが、ついに肯う事なく、却って信玄の逆鱗に触れる結果となった。希菴は恵林寺の住持の時代に、信玄の内室の葬いをなし、その偈(げ)が今にも残されている。当時の禅昌寺は、恵林寺の因縁で武田家とは、直接間接の関係があった様である。
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