古写真

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 三代久右衛門倍良の項(筆註…二代は記載がない)

 寛永六年己巳年生 元禄十一年卒去 七十才
  寛文十一辛亥年禅昌剛山老和尚 於当村温泉寺建立 因 持山内寄付為寺地
  並境内。云々

 (略)温泉寺開山剛山祖金和尚は、もともと甲州の人であり、武田家菩提寺の恵林寺より、禅昌寺第八世として、第七世香道超雲和尚の後董に迎えられた人である。その人に自ら倍良が温泉寺の開基となり、一寺を建立して、剛山和尚を開山として拝請したことは、武田家との因縁の深さを感じ、温泉寺の建立を以て、発菩提心となしたのではないかと思う。

   三、特別展示資料より
  ◎  武川家の祖
  武川家の祖、武川長助倍紹(たけかわちょうすけますあき)が戦国時代の雄、武田氏の家臣でしたが、武田氏が織田・徳川連合軍に破れたため、1583(天正11年)、下呂郷湯之島(現在の下呂町湯之島)に逃れました。 倍紹は甲斐国の釜無川上流にあった武川郷(現在の山梨県北巨摩郡武川村の内)の出身でしたので、武川を姓とする事を条件に、湯之島の庄屋であった中島家の養子となり武川家を興しました。武川家は現代で十四代を数えています。
調査報告(山梨県側の資料による)

 一、『甲斐国志』…文化十三年刊

  …巻之二十二 山川部第三−「西部川」(カナを平仮名に)
 奥仙上の中発源して大澤川(略)乃其の他渓水七八道相渡り、南流して北原 より牧平に出つ。上流を漆川と云う。牧平村の下に至り赤芝川に会して、東 流し中村、下村、倉科を過ぎ窪平、隼村の間にて笛吹川に入る。川筋帳に云 
 ○ 御普請所長六十六町余、此川牧平にて武川(たけかわ)と称する事は、古蹟部に詳にす。(略)橋梁四所、武川橋(牧平村にあり。長さ八間、幅八 尺云々)

 …巻之三十八 古蹟部第一−「小田山城蹟」(西部下村−にしぶしもむら)
 墟は下村、中村の中間よに在る御料山なり。此處は残簡風土記に巨摩郡東限に小田谷とありて、山内広く境を巨摩郡に接す。古時は西部四村(中村・下 村・北原、牧平)一体に小田谷と呼びたるを、中世牧庄を置き牧場となし、 
 ○ 馬城(とりこめば)に由りて中牧、武河、西保(略)等の支名出来ると見えたり。云々

  …巻之三十八 古蹟部第一−「武河牧」(たけかわ)
 東鑑(あづまかがみ)建久五年(1194)三月十三日、甲斐武河(たけか わ)牧、駒八疋参着(略)、牧平村にて漆河、赤芝川合して竹川と名つく。 即ち西部河なり。竹川橋と云うは本御普請所なり。石水寺の要害より切差( きりさす)を歴て、雁坂口に出づる通路なり。金峰、御岳の方へも路あり。
 竹川監物の宅蹟(竹川の事は士庶部に出す)是は警護の役せし士なりと云う。
 東鑑に武河と書たる故に、巨摩郡の武河に混じたり。此處は高岳より流れ下る河なれは、猛烈の義にて、「タケ」と訓すべし。「竹」「武」二字共に仮字なり。牧荘の内一般の馬城(とりこめば)とみえたり。

  …巻之百 人物部第九−竹川監物(たけかわけんもつ)
 天正壬午(十年/1582)の起請文に甘利衆(竹川監物は)。同(竹川)新三郎は典厩(武田信虎の二男/信玄の弟)衆なり。竹川の舊址は万力筋にあり。岩間村、竹川金佐衛門。西部村、竹川門右衛門。小笠原村、竹川縫殿進の由緒書を校するに、竹川但馬守、其の子六郎兵衛、武田の時、長篠に戦死す。其の子彌九郎、監物を称す。監物は天正壬午の後幕府に仕え奉じ、町奉行と為る。渡辺と相役にて数世監物を家名として相承けて、之を勤める。
 正保四年(1647)五月、教安寺の鐘銘に、願主竹川監物丞秀勝とある是なり。甲府殿領知の時は、高八十八石(今福村の内)百四十俵を賜ふ、役料与力、同心等、渡辺氏と同じ。

  …巻之百 人物部第九−甲府宰相綱豊卿 町奉行二人
 渡辺禰兵衛(二百石) 竹川監物 八十八石に百四十俵二人の者、天正中より役レ之、前に詳かなり。

   万力筋……現、山梨市万力
   岩間村……現、西八代郡六郷町岩間
   西部村……現、山梨市牧丘町西部 (旧、東山梨郡牧丘町西部)
   小笠原村…現、南アルプス市小笠原(旧、中巨摩郡櫛形町小笠原)

  …巻之百五 士庶部第四−石原彌五右衛門−一宮村
 苗字帯刀の浪人なり。家乗に壬午の時、石原又左衛門と云う者本村に蟄居す
 と云う。延宝九年(1681)六月五日由緒書を上る。案文一章を蔵む。此時は五郎右衛門と云う。竹川監物の婿なり。

  …巻之百十三−士庶部第十二 巨摩郡武川筋 武川左馬助
 一蓮寺過去帳に、文明十四(1469)正月十五日、蓮阿とあり。壬午の時武川市兵衛と云う者、幕府に奉仕す。子胤なりや否(但し竹川氏又作二武川一者あり。相混せり。同氏なるべし。竹川は万力筋に記す。

   巻之百三−士庶部第二 山梨郡万力筋 竹川但馬守−牧平村
 其男を監物と云う。壬午起請文に甘利衆とあり。同典厩衆に竹川新三郎と云 うものあり。牧平村に宅跡あり。因て本村にては西保河を竹川と云ひ、橋を 竹川橋と云う。古は公役にて架したりし由、此道は積翠寺要害台より雁坂口 へ山越の間道なれば、左もありしならんと。監物の二男右衛門は大坂の役に 死して子、権左衛門本村に蟄居す。其の子を彦七と云う。宝永四亥年(17 17)浪人親類書の稿一通を伝ふ。今に至りて三世共に門右衛門と称す。里 長なり。同族今幕府乃西郡(にしごおり)小笠原村、東河内岩間村にもあり。
 監物の事は人物部に委し、同主膳本村に慈眼寺を創す。古墓あり。仏寺部に記す。

   巻之七十四−仏寺部 山梨郡万力筋 長石山西光寺 牧平村
 伝云う、同村に竹川山竜泉寺とて、竹川氏の墳寺ありき、今は廃して観音堂のみ在す。日向畔と云処に五輪石塔二墓あり。

   巻之七十五−仏寺部 山梨郡栗原筋 乾徳山慧林寺(恵林寺)
 藤木、小屋敷、三日市場三村の界に在り。古時牧庄の内なり。臨済宗開山派 妙心寺末、御朱印寺領五十九石五斗余。寺内三万六千四百坪、山林万壱里、外に除地七石九升六合(樹木屋敷と云う)云々

  …巻之百十三−士庶部第十二 武川衆
 (甲斐源氏)武田石和五郎信光の末男六郎信長と云う者、忠頼の家蹟を継きて一条氏と号す。其の子八郎信経、東鑑にも見えたり。信経の男一条源八と称し、甲斐の守護職に任せらる。男子十数輩あり、武川筋の村里に分封して各々其地名を氏号とす。

  禅昌寺と恵林寺
   『飛騨屋久兵衛』 追記 三、禅昌寺と恵林寺
 下呂温泉寺住職、桐原東叔が、本文、第六章、武川家菩提寺について、の中で記載されている、勅願字龍澤山禅昌寺と、山梨県塩山、笛吹川のほとりにある名刹、乾徳山恵林寺との関連について、恵林寺資料第三巻によって付記したい。(略)
 
 ?  快川国師は、弘治三年(1555)から弘治二年(?)まで、恵林寺の住職を務め、後永禄七年(1567)再び恵林寺に入り、天正十年(1582)までの十八年間、武田家菩提寺の住職として、武田家並びにその家臣の禅道の教導に努めていたわけである。

  筆註…快川国師は、弘治二年(1554)から弘治三年(1555)まで、)か

 この快川紹喜国師の再度入山の前年、即ち、永禄六年に希菴玄密和尚が恵林 寺住職として入山している。この希菴和尚は禅昌寺の第四代の住職である。希菴玄密和尚は、妙心寺三十八世となった名僧である。
 甲斐源氏長助倍紹は、希菴玄密和尚が恵林寺住職の頃は三歳である。それから二十年を過ぎて下呂へ来たことになるのであるが、その間の経緯や倍紹の祖先については、桐原氏も述べておられように定かではない。云々


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