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新山梨歴史講座  新たな歴史が展開する
甲斐と飛騨を結ぶものそれは(まずは資料収集から)

                                   


     初祖 飛騨屋久兵衛
    (武川長助倍紹について)



参考資料 『飛騨屋久兵衛』による、武川久兵衛
一、「第三章  飛騨と武川久兵衛」
武川家の祖先
 甲斐源氏長助倍紹(ますあき)が飛騨の国下呂温泉湯之島に来たのは天正十一年(1583)である。甲斐の国武田氏の家臣であった事を理由に、従来の武川姓を名のることを条件として中島家の養子となった。倍紹は織田・徳川連合軍の最も恐れていた武田騎馬隊の一員であったようである。(云々)
倍紹が下呂へ落ちのびた当時
 現在下呂町在住の武川久兵衛氏は、倍紹から数えて十三代目である。倍紹は甲斐の国を遁れて飛騨に落ちのび、隠れ住む場所として湯之島を選んだ。しかも武田家臣であることを告げ、武川姓を名のった。(云々)
 ○高原郷の江間左間之助時盛は川中島の合戦に武田の呼びかけに応じて挙兵している。
 天正九年(1581)江間信盛(輝盛の弟)は遠州高天神城で武田勢に加わり戦死している。  
 ○三木自綱はその息宣綱が武田に通じていたことを理由に信長の命令によって、自害せしめた事もあり、信長が三木に命じて江間氏や広瀬城主山城守を後略せしめた事もある。
二、 「第六章 武川家菩提所について」
武川家初代の碑銘に
 天正十一年癸未、倍紹始至干当村。可令称自姓武川之旨約定、而為婚、従先祖数十代於甲斐国、受武田御家之御恩禄、因、当代初七代目、不可食他家之禄旨遺誠之、申傳之相守處也。〔天正十一年…1583)
 とあり、裏面には、
初代倍紹 甲斐源氏
武川長助 永禄四年辛酉年(1561)
甲斐国武川庄生(かひのくにむかわしょう)
寛永十八年辛巳年四月十九日卒去(1641)
壽 八十一才
  「甲州卒故当国之無墳墓之」
下呂温泉寺 寛文11年(1671)武川家3代久右衛門倍良が開基となり、開山として剛山和尚を拝講した菩提寺。
読み下し
 「天正十一年癸未、倍紹始めて当村に到る。自ら姓を武川と称せ令む可きの旨を約定して、而婿と為る。先祖従り数十代甲斐の国に於て、武田御家の御恩禄を受く。因って、当代を始め七代目、他家の禄を食むべからずの旨遺誡して、之を申し伝え相守處也。」云々
「甲州卒故に当国の中に墳墓これ無し」
 この碑銘は(中略)「武川家系譜」に記されているものを、昭和三十八年現代の久兵衛氏が、初代の年回に当り、その墳墓が当地に無い事を、長年苦慮されてきたことから、新たに建立するについて、系譜より写され、刻名されたものである。尤もこの系譜は武川家第十代久次郎の時代、同一人に依る記載らしい筆蹟が認められる。
(略)碑銘の信憑性は兎も角、武川家の先祖を知る今は唯一のもととなっている。この碑
銘をもとに机案してみると、武川家初代、武川長助倍紹の生まれた永禄四年は西暦一五六一に当り、「天正十一年始到干当村」この時、倍紹は当年二十三歳になっていた。
 仄聞する所に依ると、甲斐の武川村(山梨県《北》巨摩郡武川村)は当時、勇猛果敢で、勇名を馳せた武田騎馬隊の勇士の多く出た地域とか。恐らく武田、上杉の抗争を始め、戦国の世の相次ぐ戦いに出陣し、一族は天正十年武田家の滅亡に無念の涙をのみ、倍紹は飛騨に移住したものであろう。
 同じ天正十年飛騨では、武田に組して飛騨を領していた江馬氏は、三木自綱の火綱戦術に敗れて滅され、代わって三木氏が飛騨全土を平定したようである。
 この天正十年は、武田信玄が快川紹喜を住持として拝請し、武田家菩提寺として定めた甲斐の恵林寺をが、織田信長勢によって焼かれた。その折、火定三昧にに入った快川国師の事は有名である。(略)
 だが偶然か、武田家の帰依の篤かった恵林寺の快川国師は、禅昌寺の開山明叔慶浚和尚と非常に親交のあった事が知られている。その意味では、武田家恩顧の篤かった武川倍紹にとっては、ただならぬ因縁を感じ禅昌寺と菩提寺と定めた事だとおもう。(略)
 其後禅昌寺第四代希菴和尚も、武田家と深い因縁があったようである。希菴和尚は武田信玄の拝請による一度は恵林寺の住持になっている。しかし再度信玄より恵林寺の住持にとの懇請があったが、ついに肯う事なく、却って信玄の逆鱗に触れる結果となった。希菴は恵林寺の住持の時代に、信玄の内室の葬いをなし、その偈(げ)が今にも残されている。当時の禅昌寺は、恵林寺の因縁で武田家とは、直接間接の関係があった様である。
 筆註…
 希庵玄密は指摘の通り、甲斐との深い関係がある。山梨県内でも余り見れない『甲陽軍艦』「末書九品之九」〔ホ−−ムペ−ジ「九 大円寺(明覚山)〕ことが記述してある。
抜粋してみると、    
  『甲陽軍艦』末書九品之九
 関山宗の名和尚希菴と申すを、甲州へ御呼び候へども、御成なきて、信玄公、空き家名伯耆守に被お仰付け、御殺し候。元亀三年十一月二十六日に如比。伯耆守申付被出抜は伊那の松沢源五郎、小田切与介、林勘介是三人なり。
 何れも十五日の内に狂気さし、あるひは癲狂をかき落馬して死する。
 信玄公も其次の年天正元年四月十二日に御他界也。禅宗の名知識などに悪しく御あたり有るべからざる候。其のため有り様に書付申候也。云々
 『飛騨屋旧兵衛』 三代久右衛門倍良の項(筆註…二代は記載がない)
  寛永六年己巳年生 元禄十一年卒去 七十才
 寛文十一辛亥年禅昌剛山老和尚 於当村温泉寺建立 因持山内寄付為寺地並境内。云々
 (略)温泉寺開山剛山祖金和尚は、もともと甲州の人であり、武田家菩提寺の恵林寺より、禅昌寺第八世として、第七世香道超雲和尚の後董に迎えられた人である。その人に自ら倍良が温泉寺の開基となり、一寺を建立して、剛山和尚を開山として拝請したことは、武田家との因縁の深さを感じ、温泉寺の建立を以て、発菩提心となしたのではないかと思う。
  筆註…温泉寺開基についての一文献 
 天香山妙善寺 内藤賢一氏著(『中央線』第三十二号所収) 
   
 天香山妙善寺は現在の甲斐市(旧北巨摩郡双葉町)の古蹟「一ツ橋陣屋跡」の向かいにある、名刹である。本文は内藤賢一氏が妙善寺を訪れた際のことや昔の思いでについて述べているが、その中で妙善寺本堂の 《扁額『妙智岩』願主書》 が目にとまり、この「願主書」の願主といったい誰なのかと思ったが誰にも分からずいる折りに、日吉河先生という方古書の写しを戴いたという。それによると、    
  信濃州温泉寺願王禅師伝
 師諱全堤 名禅曙 字願主 武州人 出家野之浄因 行脚初掛塔
 芝阜長徳寺 既而遊井山侍妙法 遂受其印記 後抵温泉 
 咨参天眼眼当退温泉 選師為其嗣 大化元年 師進山偈日
 八萬法門一不通 豈堪江岳住山翁 目前幸温泉在。共俗五湖四海衆
 自是鉗鎚四来 輪下常減数十衆 又応諸方請行化 殆無虚日
 師崇敬「地蔵薩 」尤深 因字王或云 初字願玉 暑記之後
 玉傍点 自然消滅 終称願王焉(後略)
  筆註…
 この信濃州温泉寺が信州温泉寺と濃州温泉寺と関わりがあるようで、僧、「願玉」の「玉」が長い間に点が取れて「王」になってしまったという。この僧は武蔵国の人。
 (後述)


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