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快川紹喜について
この快川紹喜国師の再度入山の前年、即ち、永禄六年に希菴玄密和尚が恵林寺住職として入山している。この希菴和尚は禅昌寺の第四代の住職である。希菴玄密和尚は、妙心寺三十八世となった名僧である。
甲斐源氏長助倍紹は、希菴玄密和尚が恵林寺住職の頃は三歳である。それから二十年を過ぎて下呂へ来たことになるのであるが、その間の経緯や倍紹の祖先については、桐原氏も述べておられように定かではない。云々
《 調査報告 》 希菴玄密
臨済禅妙心寺派の東海進出と大円寺(ホ−ムペ−ジ)一部改述
京都の人で時に天文十二、三年頃、東濃愚渓寺に明叔禅師を尋ね、教えを求め、達得し法を嗣いだ。明叔の命により京都の妙心寺の塔頭大心院に住した。天文の末岩村城主遠山景前に迎えられ、大円寺に先師明叔の跡を嗣ぐ。
弘治二年(1556)正月、希菴から甲州成就院にいた遠叔の許に送った書簡がある。
希菴はこの年の秋に飛騨の禅昌寺に移った。
禅昌寺 禅昌寺は先師明叔の開創した寺で、
• 開創 明叔慶浚
• 二世 果天
• 三世 仁谷(弘治二年歿)
• 四世 希菴玄密
希菴は四世として迎えられたのである。この時希菴が禅昌寺に入って書いた掟が現存している。希菴は永禄元年(1558)岩村城主遠山景前三年忌の法要を営んだ。永禄三年(1660)希菴は勅を奉じて妙心寺に出世した。それより大心院に居ながら妙心寺に入ること五回に及んだ。
希菴の名声を聞き及んだ武田信玄は請じて恵林寺に迎えた。永禄七年(1564)希菴は恵林寺に於いて信玄の母大井氏の十三回忌を営んだ。
希菴は短い在住で甲斐を去り、京都に出てまた大円寺に迎えられる。元亀元年(1570)に在り、信玄はその後再三恵林寺に迎えようと希菴に使者を送るが、固辞した。(略)信玄は要請を断る希菴に腹を立て、秋山春近に命じて、東野侵入の元亀三年(1572)十一月、刺客を向けて大円寺にあり希菴を覗わしめた。 希菴は逃れて飯羽に至ったが、刺客はこれを遂うて橋上に殺した。同時に大円寺も焼かれてしまった。現在もこの橋を希菴橋といい、その傍らの丘上に塞があり希菴塚という。
『甲陽軍艦』末書九品之九
関山宗の名和尚希菴と申すを、甲州へ御呼び候へども、御成なきて、信玄公、空き家名伯耆守に被お仰付け、御殺し候。元亀三年十一月二十六日に如比。伯耆守申付被出抜は伊那の松沢源五郎、小田切与介、林勘介是三人なり。
何れも十五日の内に狂気さし、あるひは癲狂をかき落馬して死する。
信玄公も其次の年天正元年四月十二日に御他界也。禅宗の名知識などに悪しく御あたり有るべからざる候。其のため有り様に書付申候也。云々
遠山氏(ホ−ムペ−ジ)『武家家伝』)
……やがて信濃の攻略を終えた信玄は、東美濃・三河方面への進出を画策し勢力の安泰を図った。弘治年間(1555〜)になると、織田信長は着々と尾張を制圧し、美濃では斉藤道三が嫡男義龍と戦って敗死した。この頃武田武将秋山信友が伊那郡代をつとめ、高遠城主となった。大円寺住職の希菴禅師は武田氏と遠山氏の間をとりなしたようで、希菴禅師が京都に去ると、にわかに事態は変化を見せることとなる。云々
『武田信玄傳』広瀬廣一氏著 「希庵玄密 明叔慶浚法嗣」
京兆妙心希庵玄密禅師、不詳姓氏、平安城入、拝建仁月谷岫剃髪受具、依雪嶺瑾甚久、翻然棄去明叔于濃之愚渓、平生学得底、一字不用著、従此発憤参究、杲徹言外、檀越藤景前請前聘住濃之明覚山。永禄初、奉勅住正法山、一住五回、名重輦下。信州大守源晴信招以甲之慧林、三請而應、不久遷大円上堂、師文亀元年十二月二十七日賊黨窺室加刄而去、委順而化。
《 調査報告 》 明叔慶浚
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