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(お茶の水図書館蔵『快川法語』。快川国師顕彰会主宰の棚橋啓太郎氏教示) 
(略)『別本仁岫録』によれば、快川は永正元年(1504)の出生で、天正十年(1582)に七十九歳で亡くなったことになる。  
 (略)『禅林雑記』(松ヶ丘文庫)快川は天正九年(1581)九月に国師号を得ており、その翌春の作品と見れば、通説どおり八十一歳で亡くなったみることができる。
 (略)天文十年秋から十一年にかけては希庵の師である明叔慶浚が武田信玄の招かれて甲州恵林寺住山しており、つづいて明叔は今川義元に招かれて駿河の臨濟寺に住山した。
 (略)恵林寺へ移った後の天文二十四年(1555)の武藤氏・江月宗印信士予修下火法語に「前妙心現住恵林快川叟書焉」と署名している(『禅昌寺本明叔録』)。
(略)天文二十二年(1553)になって、快川は南泉寺を留守にしてしばらく甲斐の府中(甲府)に滞在した。七月三十日付で嵩福寺(五峰元叔)に宛てた希庵玄密の書状に(略)「快川法兄が甲府寓居中である」ことを書き留めている。天文二十一年(1552と推定される十二月九日付けで、大円寺(希庵玄密)へ出した快川の返書には、希庵の妙心寺出世を祝福すると共に、快川の甲州発足は雪中ゆえに思う留まり来年二月末に伸ばしたことを告げ、その折の道中支援を頼み、その為希庵の伊勢出立も二月松まで待ってほしいとある。    (東大印哲『異本葛藤集』)   
(略)天桂玄長は、信州木曽福島の龍源寺開山信叔紹允に入門し、天文初年頃に印可を得たらしい。そして、下諏訪の慈雲寺住職に招かれ、天文二十一年(1552)九月に武田信玄の招きで恵林寺へ入寺した。天文二十三年五月七日には、恵林の小比丘玄長の名で信玄の母大井夫人の三回忌に出席し、副師をつとめている。  (『天正玄公仏事法語』)
 翌年二十四年と思われる二月六日付で快川が飛騨国益田郡萩原の禅昌寺へ出した書状に
 「天桂は木曾の龍源寺、信州府中の慈雲寺、甲州恵林寺この三ケ寺の住持なり」
 と書いており(『禅昌寺本明叔録』)甲信両国に確たる地歩を築いた。その天桂の手引きであれば、快川は当然のことながら信玄に拝謁の機会を与えられたのであろう。
 快川のすぐれた素質に引かれた信玄は、天桂の後任として快川を恵林寺に招聘し、天文二十四年二月にそれが実現するのである。
三、恵林寺住山
 恵林寺に入寺した後に、恵林寺の風景などのうちから特徴的なことを選んで恵林寺十境として定められているもので、(略)これを収める『葛藤集』には「ときに甲の万乾徳山恵林寺に十境あり、その一は雑花という」との注が付されている。
(略)天文二十四年は途中で弘治元年と改元された。翌年の弘治二年(1556)五月には、甲府の東光寺住持持仁甫珠善が亡くなった。そこで恵林寺の快川は、仁甫の法嗣藍田に書を送って、哀悼の意を述べ(略)東光寺の後任としては藍田以外には無いので、少しでも早く招請状のとおり東光寺へ越されるようにと書いてある。
(略)弘治二年と推定される成就院(小石和郷、武田信重の菩提寺で、信玄が甲府に移し円光院と改めた)あての書状に「来年(弘治三年)三月には妙心寺で開山祖師の二百年忌が執り行なわれることになり、これを記念して居成りが三人勅許されることになった。美濃岩村大円寺の希庵玄密の推挙によって東光寺の仁甫が指名され、居成りの請書が京都から下着した。その結果、府君信玄は一万疋(銭百貫文)を奉加すると言われた。云々
  (『葛藤集』)
 『禅昌寺本明叔録』「妙心寺派語録」この書状中には、飛騨国の禅昌寺住持仁谷智腆が弘治二年九月二十一日に亡くなったとの知らせに快川は、十月二十五日付で手紙を三木氏の側近と思われる松雪斎宛に書き、仁谷の逝去を大いに悼むと共に、快川が一伝の遷化を受けて帰国を決意したことを報じた。信玄の許しを得てのことであろう。禅昌寺は当時下呂市萩原に在り(今は下呂市中呂)、南飛騨の雄族三木氏の菩提寺の一つであった。信玄は十二月十四日付で京都妙智院へ手紙を出し、院主の策彦に恵林寺・長興寺・継統院の三カ寺の住持として早急に御出発されるように懇請しているので(『明智院文書』)快川の帰国は確実となった。策彦を恵林寺の元旦に臨んで、
  日暦開端紀太平、叢規随例祝新正、恵林有箇少林笛、吹起万年歓旧声 
弘治三稔履端辰(一月元旦) 乾徳山長周良稿 
 これに対して快川は次のように和韻している。
  天下春帰嵩福海、華厳富貴輝吾前、窓啣西嶺千秋雪、門繋東呉万里船   
  快川(『葛藤集』)
(弘治三年の新春を、西方に万年雪をいただく富士山を望む所で迎えたが、門前に船をつないで出発を待つに等しいような準備が整い、嵩福寺へ帰ろう)
 筆註…
さてここまでの資料の中からも、禅昌寺と恵林寺、信玄と飛騨、僧侶の交遊の深さが理解できる。武川長助が天正十年、甲斐武田の滅亡の後に逃げ延びたというよりは、僧侶の交遊中に同道した人々の中に武川長助と名乗ようになった人物が居たのではないだろうか。「武川」の祖を甲斐源氏に結びつけたのかは後世の人の作とも思われる。「武川衆」という総称から「武川」の姓が出るとは考えにくい。
四、恵林寺の歴代住職
天文(1532)〜永禄(1570)期の恵林寺住職一覧
   (追加資料『山梨県の文化財』)
 住職名   在 住 期 間   
 明叔慶浚  天文 十年(1541)秋  〜天文十一年(1542)春
 鳳栖玄梁  天文十三年(1544)   〜天文十五年(1546) 
積翠寺和漢連句に名有
 天桂玄長  天文二一年(1552)九月〜天文二四年(1555)一月
 天文二四年、元日乾徳山主云胡
 快川紹喜  天文二四年(1555)  〜弘治 二年(1556)
 策彦周良  弘治 二年(1556)  〜弘治 三年(1557)
 策彦周良  (年月日不詳) 甲斐南松院 策彦周良賛
紙本着色渡唐天神像
 快川紹喜  弘治 三年(1557)一月下旬 嵩福寺住職就任
 快川紹喜  永禄 三年(1560)四月 斎藤義龍の子が死去、悼偈一篇を上呈。
 快川紹喜  永禄 五年(1562)十月十一日 斎藤義龍の葬儀に快川が導 師となる。
 希庵玄密  永禄 七年(1564)二月〜永禄 七年(1564)九月
       『葛藤集』 『禅昌寺本明叔録』
 快川紹喜  永禄 七年(1564)十月〜永禄 十年(1567)四月 美濃へ帰り法泉寺住山
 天桂玄長  永禄 九年(1566)    南松院什物    天桂玄長著賛
禅昌寺本明叔録』 
 快川紹喜  永禄 十年(1567)秋冬〜天正 十年(1582)   恵林寺
  山門上で火定
 快川紹喜  (年月日不詳)    甲斐恵林寺 紙本着色渡唐天神像 快川紹喜賛
 筆註…『甲斐国志』…恵林寺『乾徳山慧林寺』 巻之七十五
• 開基 夢窓国師   
• 二世 満翁道
• 三世 曇翁□
• 四世 無元
• 五世 省哲  
• 六世 瑞昭
• 七世 古先印元  
• 八世 明叟斎哲
• (?) 青山慈永
• (?) 龍湫周澤
• (?) 絶海中津
• (?) 通容宏感   
• (?) 曇芳周應    
• 三十一世 策彦周良  永禄七年信玄寄寺領三百貫文
 快川紹喜
 筆註………「恵林寺過去帳」…『武田信玄傳』(広瀬廣一氏著)
 明叔慶俊禅師  勅謚圓應大通禅師  天文二十一年八月二十一日(寂)(1552) 希庵玄密禅師    元亀元年十一月二十七日(寂) (1570) 鳳栖玄梁禅師  嗣 大宗弘
 月航玄津禅師  特陽普濟英宗禅師  天正十四年七月十一日(寂)  (1586) 天桂玄長禅師  嗣信叔(信叔紹充獨秀下仁岫の弟)
 以上五員関山派之尊宿也 快川国師已前住當山見古記
 再住妙心當山始祖特賜大通智勝国師快川大和尚
 濃州人土岐氏永禄七應玄公(信玄)三請住山
 天正十壬午四月三日寂   (1582)  (以下略) 


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