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 山東京伝の『近世奇跡考』の「元祖團十郎傳并肖像」には

 江戸の俳優初代市川團十郎は、堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯、江戸に生る。重蔵は下総国成田の産、(或云、佐倉播谷村の産、役者大全に云ふ市川村」なり)江戸にうつり住。曾て任侠を好み、幡随院長兵衛、唐犬十左衛門と友たり。團十郎生れて七夜にあたる日、唐犬十左衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよし、(今の白猿ものがたりぬ)初名を段十郎とよび、後に圃十郎に更む。曾て俳諧を好み、奮徳翁才麿の門人となり俳號を才牛といふ。延寳のはじめ、和泉太夫金平人形のはたらきを見て、荒事といふことをおもひつきたるよし、(『侠客傳』に見ゆ。)延寳三年五月、木挽町山村座、凱歌合曽我といふ狂言に、曽我五郎の役を始めてつとむ。(時に二十五才。)延寳八年不破伴左衛門の役を始めてつとむ。(時に三十才。)衣裳の模様、雲に稲妻のものずきは、
  稲妻のはしまで見たり不破の関
 といふ句にもとづきたるよし、『江戸著文集』に見ゆ。貞享元年、鳴神上人の役を始めてつとむ。(鳴神を堕落さする女の名を、雲の絶間なづけしは、團十郎おもひつきたるよし、これらを以て其才の秀でたるをはかり知るべし。)元禄七年、京にのぼり、同十年に江戸に下れり。

 また栗原東随舎著の「劇場役者市川團十郎家侍の事思出書舐」には、

 寛文年中、両国橋より三里東に、葛飾郡市川村といふ所に、薦の十蔵といふ者有。元は武家より出て虚無僧となり。其以後、商人となりて、市川村に住居なしたり。依て異名を俗称の如く薦の十蔵といふ。勝れて大酒を呑けり。一子小三郎といふは、勝れて敏達にして、更に群兒の類ひに非ず。弁舌能く発明なり。
 然るに、彼十三歳の頃、市川村へ田舎廻りの歌舞伎乏店来り。十日餘逗留なすうち、種々 の狂言仕組の節、彼小三郎好みて毎日見物に来り。能覚へて芝居を始めざる前に、此小三郎、仕組のまねをして、人々に見せける故、芝居の者も迷惑に思ひながら感心しけるとぞ。此事、芝居頭取見て、何卒、此子を貰ひ藝を仕込なぱ、後々は能役者にも成べきと、人を頼み十蔵方へ申遣しければ、もとより貧家の小商人の事、はかゆかざるをかこちぬる自分なれば、草速遣すべしと貰ひ請の相談調ひぬ。夫より所々田舎を連歩行、藝を仕込ける に、段々上手に成て、廿七歳の頃は市川團十郎と改め、田舎芝居の立物とは成りぬ。

 さらに甲斐の「桝」に由緒を持つと三珠町歌舞伎会館資料(『風流日誌』)の言う「三升紋」についても、 

 團十郎も宿所にかへりけるに、頃は九月上旬故、栗商人、田舎よりきたれたるを呼入
て、栗を買んと立出てみるに、大ひなるが升に入て、其中に一升と五合と一合と升を入子に、して有るを、つくづくと考へ見るに、目出度升を組入たり。禁を見増の嘉瑞なり。今迄の定紋三階一松なれど、向後は三升をつけべしと、粟三升を買ひ、此時より定一紋を三升に改めたり。

 表徳は才牛といふ。宝井其角が門に人て誹道に達せり。段々評判は能、評判  記の位ひづけ極上々吉と成、給金八百両迄に登りぬ。
 然に一年、堺町追残らず類焼故、芝居も小屋懸にて狂言興行なす。役者ども告々、所々へ離散して、夫より通ひて座を勤めける。云々

 とあり、三珠町歌舞伎会館の案内内容とは異なっている。
 俳諧の師と仰ぐ其角は、これも甲斐出身とされている山口素堂に近い人物であるが、素堂側の資料からは才牛との接触は見えない。

 『歴史人物大事典』角川書店刊の「市川團十郎」には、
   江戸時代前期以来の歌舞伎役者。本姓は堀越。屋号は成田屋。万治三年五〜宝永元年二 月十九日(1660〜1704)。重蔵の子。幼名は海老蔵。祖先は甲斐の武士で、父は  江戸に出て侠客と交際があった。延宝元年(1673)中村座『四天王稚立』で初舞台を 踏み、市川段十郎の名で荒事芸を創始する。
   三升屋兵庫の筆名で『参会名護屋』(元禄十年)『源平雷伝記』(同十一年)『成田屋 分身不動』(同十六年)など十六編絵入り狂言本を残す。市村座で『移徒(ワタマシ)十二段』  出演中、一座の生島半六(?)に刺殺された。俳名は才牛。
 さらに『人物大事典』「市川團十郎」には、 
   江戸の俳優にして三ケ津荒事の開山なり。俳名才牛と曰ふ。堀越十蔵の忰にして万治三 庚子年の誕生にて、幼名を海老蔵といふ。其の頃江戸の侠客に唐犬重右衛門といふ人あり。  海老蔵といふ名は此重右衛門が付けしといふ。重右衛門より贈りし絹地に海老を畫ける掛  物世々市川段十郎の家に所持して秘蔵せり。稚きより伎藝を好み劇場に入る。云々
続けて初代団十郎の記載のある書著を列挙してみる。

▽ 団十郎の系譜 『歴史への招待』藤田洋氏著 

 初代の事蹟はよくわからない。先祖は甲州の武士堀越十郎、武田家滅亡ののち下総埴生郡幡谷村に移り、その子孫の重蔵が江戸に出て男子を設けたのが、初代団十郎だったとい  う事になっている。異説もある。市川姓は生まれた葛飾郡市川村からとったともいう。

▽ 初代市川團十郎 『江戸時代人物百科』

 万治三年(1660)江戸和泉町に生まれた。父は下総國埴生郡幡谷村の農民だったが、江戸に出て地子総代を勤めた堀越重蔵(十蔵ともいう)延宝元年(1673)十四才の初  舞台に坂田金時の役で「荒事」を創始したと伝えられる。

 さて市川団十郎や歌舞伎のことについて最もその著が多い服部幸雄氏編の『市川団十郎代々』団十郎家の先祖には団十郎の祖については言及を避けている。    

 初代市川團十郎の先祖は謎に包まれていて、よくわからない。烏亭焉馬の『市川家家譜』によると、代々甲州の武士で、永世年間(1504〜21)に北条氏康の家臣になり、天  正にいたって小田原没落後、下総國埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、重蔵の代になって市川に移って郷士となり、江戸初期の慶安、承応(1648〜55)のころ  江戸に出たという。

   別に奥州「坪の碑」の近くにある市川村から出たという説(『松屋筆記』巻四)

 葛飾郡市川村から出たとする説(後述)などもある。

 このころの芸能者の出自が明白であるのはむしろ不自然というべきで、後代になってからもっともらしく創作された可能性が濃い。通説に従えば、初代團十郎は万治三年(1660)江戸の和泉町で生まれ、幼名を海老蔵と言った。享保十五年(1730)に作られた初代の追善句集『父の恩』の記事によると、父親は堀越重蔵(十蔵とも)と言い、幡谷村の土地を弟に譲って江戸に出たのだとのことである。人望厚く地子惣代( )を努めるほどの顔役だった。侠客と交際もあり、「菰( )の重蔵」とも、また顔に疵があることから「面疵の重蔵」ともあだ名されていた。著名な侠客唐犬十右衛門と親交があり、初代團十郎の幼名海老蔵の命名者は十右衛門だという伝説も語られていた。
 右に述べた團十郎の家の出自にまつわる数々の伝承は、正確であるという保証はないが、初期の一歌舞伎役者の素姓に関する何らかの真実を伝えているように思われるし、  のちに荒事の宗家となる市川團十郎の故郷としてもふさわしい。だがここにはなお隠された真実があるようにも思われる。 

 さて団十郎の初祖についての諸著の記述を比べてみると、その内容は大きく食い違っている。

 

<歌舞伎会館の建設にあわせて創られた歴史>
<なぜ山梨県の歴史学者は頬かむりするのか> 


 ……市川團十郎…… 『俳優世々の接木』
 本国 甲斐
 傳ニ曰、先祖は甲斐市川村ノ産にて其子重蔵ハ下総國佐倉領幡谷村の郷士と成苗代をつぐ。□農堀越氏といふ。   (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)   

 ……『明和伎鑑』…… 明和六年(1769)
 元祖市川團十郎、三ケ津立役の開山。才牛。下総國佐倉の住人。幡谷村(一本成田)。堀越某カ男、幼名海老蔵。
(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 ……團十郎の家紋、三升……
 市川團十郎の定紋。米を計る升の大・中・小三個を入れ子にして、上から見た形を図案化したものである。
 一説に、初代團十郎が不破伴左衛門の役の衣装に使った稲妻の模様から転じたとも伝える
  (『役者名物袖日記』) また、團十郎の祖先は甲斐國東山梨郡市川村の出身とする説を踏まえ、この地方の升は「甲州の大升」といわれ、一升が普通に升の三升に相当するほどの大きさからヒントを得たという説もある。正確な由来はわからない。  
(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 初代市川団十郎の祖は甲斐国の出身とされているが、その史実を示す資料は少なく、その信憑性は一考を要する。初代団十郎の祖についてはじめて語ったのは、五代目の友、烏亭焉馬である。
 不詳であっても著名な人々が史実のように、繰り返すことで史実擬きが、何時の間にか史実として人々に伝わる事は歴史には多くみられる。この拙著は長年の調査資料から市川団十郎の初祖を中心に論を展開していく。浅学の為一部誤字脱字や語釈もあると思われるが、その辺は適切に正していただきたい。また団十郎の資料をお持ちの方は是非ご連絡をいただきたい。
  
  市川団十郎についての調査報告

 かの有名な千葉県成田山新勝寺の案内文によると、

 ……成田山新勝寺の案内文……
成田屋の屋号を名乗る市川團十郎は、代々、成田山とは深くて強い縁で結ばれていま
す。初代市川團十郎は江戸時代の万治三年(1660)に生まれたが、その父堀越重蔵 は下総国埴生郡旙谷村(成田市旙谷)出身でした。今でも成田市旙谷の東光寺の墓地に は、二代目が建てた初代団十郎の碑があります。

 また初代市川団十郎の墓地については、次の記述がある。

 ……市川團十郎の墓地……
常照院はかって歌舞伎の名門である市川團十郎の菩提寺であり、当家の墓所がありました。初代團十郎が刺殺という不慮の死を遂げたのは元禄十七年(1704)でした。 
 いかなる縁かその遺骸は、徳川将軍家の菩提寺で芝増上寺の子院である当常照院に葬られました。現在も三升の紋の香合、五代目が寄進した七代目が修理した一対に唐金(銅)の灯籠、そして七代目文政元年(1818)に贈った石の手水鉢などがその歴史を語っ  ています。八代目團十郎は大阪で自害し、やはり浄土宗である大阪の一心寺に葬られ、常照院には遺髪が納められたそうです。
その後時代は明治に移り、市川家の復興をはかった革新的な九代目の團十郎は神道に 改宗、明治三十六年(1903)に亡くなりました。その墓地は神武となり公営の青山霊園に建立されました。以後市川家は神道となりました。
そして大正十二年の起こった関東大震災の被害により寺院の移転、墓地の改修など相 次ぐなか、常照院も墓地の整理改修をすることとなりました。そのため、昭和九年(1934)にそれまでの市川家の墓地も青山霊園へ移転改葬されました。
 と記している。

 市川団十郎の祖について『山梨県「人物」博物館』は次のように記す。

……五代目市川団十郎……『山梨「人物」博物館』江宮隆之氏著
   市川団十郎は江戸歌舞伎の盟主とされ、平成四年(1992)まで十二代を数える。屋 号を成田屋といい、初代団十郎は延宝元年(1673)九月、十四歳で初舞台を踏んだ。  荒事と隈取りの創始者である。
   この初代団十郎の父が堀越重蔵、祖父の重左衛門、曾祖父の十郎家宣は共に甲斐武田家 の一門、一条信龍の家臣であった。堀越十郎については、永禄十二年(1569)の相州  三益峠の法条氏と戦いで手柄を挙げたことが感状(戦功を賞した文書)として残されてい る。堀越一族は天正十年(1569)三月、主家の滅亡後、相模に逃れ、さらに下総国旙  谷村(千葉)に逃れた。
 ここから初代団十郎の父重蔵が江戸に出て町奴などともつき合うようになる。 
 (略)寛政三年(1791)四月、五代目団十郎は初めて父祖の地甲州に入る。(略)こ  れが初の地方興行となった。五代目団十郎は寛政四年(1792)にも甲斐を訪れている。 (「甲府町年寄御用日記」)寛政五年(1793)六月、七年(1795)六月にも甲府にやってきている。

 これによれば、その家系は、

 曾祖父堀越十郎家宣−祖父重左衛門−父重蔵(十蔵)−初代市川団十郎となるが傍線についての確かな資料が提示されていない。
 市川家は現在まで血脈で繋がっているわけではなく、服部幸雄氏著『市川団十郎代々』によると、
初祖団十郎(本姓堀越)
   −二代(実子)
   −三代(養子/三升屋助十郎の子)
   −四代(養子/庶子)
   −五代(四代の実子)
   −六代(養子/庶子)
   −七代(養子/五代二女、すみの子)
   −八代(長男/すみの子)
   −九代目(五男(妾、ための子。堀越秀)
   −十代(養子/前名、五代市川三升。堀越福三郎)
   −十一代(養子/七代松本幸四郎長男。堀越治雄)
   −十二代(長男。堀越夏雄)
 とあり、堀越姓は一代、二代、……九代、十代、十一代、十二代で途中代には見えず、血脈も途切れているのである。
 また三珠町のシンボルとして建設された「歌舞伎会館」のある市川團十郎発祥の地三珠町は、ホ−ムペ−ジ『甲州勤番風流日誌』によると、
  この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野 の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田  勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越十 郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに  下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。   その孫の重(十)蔵は弟に田畑を譲り江戸に出る。

 とあるが、傍線の
  堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をた よりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。のくだりの信憑性はいかがなものであろうか。
 『山梨県地名辞典』には三珠町及び市川地方に堀越の地名は見えないし、「武田信玄・勝頼に於ける家臣団」や一条信龍の家臣をいくら調査しても、堀越姓の人物には行き当たらない。 『江戸時代おもしろ人物百科』によれば、初代団十郎は、万治三年(1660)、江戸和泉町に生まれ、父は下総国埴生郡幡谷村の農民だったが、江戸に出て地子総代を勤めた堀越重蔵(十蔵ともいう)。延宝元年(1673)十四歳の初舞台に坂田金時の役で「荒事」を創始したと伝えられる。とある。

山本勘助 市川氏周辺

市河氏(いちかわし)
<「長野県歴史人物大辞典 石河三郎氏著」>

 中世初頭から奥信濃を本拠とした土豪。出自は甲斐国市川屋敷(現山梨県市川大門町)とみられ、源頼朝の御家人として1202(建仁二)正月の弓始めに市河五郎(行重)が中野四郎と共に射手を勤めたことが、『吾妻鏡』に記されている。1244年(寛元二)市河高光は、妻が落合蔵人と密通したと訴えて敗訴した件で、信濃の船山郷のうち青沼(現埴科郡戸倉町)と甲斐の市河屋敷を失った。

 その後船山郷付近に移住したとみられる。中野能成の子忠能は男子がなく一人娘の袈裟(けさ)が市河重房の後妻と放り、重房の先妻の子盛房を養子として、1272年(文永九)平林(現下高井郡野沢温泉村)などを与えた。その後重房、盛房は共謀して、ほかに忠能の養子とされた中野仲能、広田為泰、小田切実道らと激しい相続争いを繰り返し、順次志久見郷内を蚕食してついに全域を掌握。中野氏代々の文書を受け継ぎ中野氏を被官化し、地頭として名実共に実権を握り、志久見館(現下水内郡栄村)を本拠とした。

 志久見郷は現栄村のうち大字堺(旧下高井郡)、現野沢温泉村の赤滝川以北、東の山岳地帯は巣鷹山として上越境三国峠までの範囲である。南北朝、室町時代には各地に転戦一戦功により勢力を拡大し、同族結合支配によって各時代の難局を乗り切った。

 戦国時代武田に属し、現下高井郡木島平村を本拠とし、武田減亡後上杉に属した。1598年(慶長三)上杉景勝の移封により会津へ、また米沢へ移り家臣団として長寿丸は3300石を給された。

 明治の廃藩置県により北海道へ屯田兵として入植。鎌倉初期からの中野氏文書を受け継いだものと、市河氏の伝来文書は共に『市河文書』といわれ、現在山形県酒田市本問家美術館に所蔵の文書は国の重要文化財に指定されている。
 <(石沢三郎)参『新編信濃史料叢書』三>」


 市河重房(いちかわしげふさ)

 鎌倉時代の武将、三郎左衛門尉。生没年は不詳。父は別当行房とみられる。中野五郎能成の子忠能の一人娘袈裟(尼釈阿、寂阿)を後妻とする。袈裟(けさ)の死後忠能の妻蓮呵と重房の問で相続争いを起こした。1278年(弘安一)鎌倉幕府下知状によると、
 (1)中野郷内堀内、町田(現中野市)、志久見郷(現下水内郡栄村)は蓮阿へ。
 (2)代々の下文、譲状は釈阿(袈裟)に預げ置いた重房が抑留、釈阿に相違ない。
 (3)釈阿の遺領押領を停止せよ。
 (4)1240年(延応二)正月二五日付中野能成(妙蓮)の譲状を24日と誤り偽造文書を作成して露見。
 (5)重房の子盛房が蓮阿(忠能の妻)と不仲の件。
 (6)蓮阿の所領近江国越知郡内領争いの件などである。
 重房は、忠能の養子とされた実子盛房と共謀して、中野仲能(忠能の養子)、広田為泰、小田切実道らとはげしい相続争いをしており、この件も中野氏の所領が市河氏へ移る過程の事件とみられる。
 <〈石沢三郎〉参『新編信濃史料叢書』三 『長野県史』通史編二・中世一>

市河助房(いちかわすけふさ)

 鎌倉末期から南北朝の武将。生没年は不詳。六郎、左衛門、刑部大夫、入道昌源と称する。1321年(元亨一)と翌年の父盛房の置文、譲状により高井郡志久見郷の総領職(地頭)となる。1333年(元弘三、正慶二)後醍醐天皇方の挙兵にともない、新田義貞が東上野笠懸野で挙兵したとき、越後の新田一族は義貞方の陣に急行したが、助房らは約一か月形勢を傍観してから、陣代として弟経助、甥助泰が参陣。その年の6月、建武の新政が成立する形勢となって、足利尊氏方へ参陣した。1335年(建武二)北条時行にくみした水内郡常岩北条(現飯山市)の弥六宗家らを討伐するため、善光寺、府中の浅間宿(現松本市)を転戦し、守護小笠原に属した。諏訪、滋野一族らの謀反にも守護方として船山郷青沼(現埴科郡戸倉町)、八幡原(現長野市)、篠井四宮河原(現長野市篠ノ井)などで戦い、負傷した。
 <〈石沢三郎〉参 『新編信濃史料叢書』三『長野県史』通史編二・中世一、通史編三・中世二>

 市河助保いちかわ・すけやす

 南北朝時代の武将。生没年は不詳。三郎と称し、市河九郎倫房の子。1335年(建武二)守護小笠原貞宗の催促により、伯父助房の陣代として守護所船山郷(現埴科郡戸倉町、更埴市)に出陣した。水内郡常岩北条(現飯山市)において蜂起した北条氏残党にくみした常岩弥六を助房、倫房、経助と共に攻め破った。また府中(現松本市)騒動のときも浅問宿(同)に出陣した。同じ年の7月にも父倫房と共に守護方へ出陣し、望月城(現北佐久郡望月町)を攻め城を破却。九月には東筑摩郡、諏訪方面各所へ転戦した。国司堀河中納一言光継を迎えたとき、横河城(現上伊那郡辰野町)で戦功をたてたので、守護代吉良時衡の承了による軍忠状を得ている。
 <石沢三郎 参『新編信濃史料叢書』三『長野県史』通史編三・中世二>


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