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川中島五度合戦(6)

 永禄二年 (一五五九) 四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。
 永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。
 永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。
 同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。
 八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめて、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち受けて一人残らずみな討ち取った。越後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。

 翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めかけた。武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。謙信の旗本が紺地に日の丸、それに 「毘」 の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押しかけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武道第一の武田侍であるから、弓を射、鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数えきれない。信玄は犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くして退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに目がけて攻めかかって来た。越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅れ、敗軍となった。越後勢の戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自身で手を下して戦った。後には波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返した。この時、繁長自身は太刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。

 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかりである。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼き払った。そのあと、謙信は善光寺に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留して越後に帰陣した。
 はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。

川中島五度合戦((5)

弘治二年八月二十三日、謙信は川中島に出て、先年の陣所より進んで川を越えて、鶴翼に陣を張った。両度の陣と同じ陣形である。村上義清、高梨政頼を中心として、丸い月の形に十二行の陣立てである。信玄は二万五千の兵で出陣した。
 今度の越後の陣取りは、長期戦とみえて、薪を山のように積んでおいたと、甲州の見張りの者が報告するのを、聞いて信玄は、「一日二日の間に、越後の陣に夜中に火事があるだろう。その時、一人でも進んで出て行く者があったら、その子孫までも罰するだろう」 と下知した。
 すると、二十三日の晩方、越後の陣所より荷物を積んだ馬や、荷を持った人夫が出て、諸軍旗を立てて陣を解き、引き上げるようにみえた。甲州方の軍兵が、謙信が引き上げるのを逃さず追い討ちにしようとした。信玄は一の木戸の高みに上ってその様子をながめて、「謙信ほどの大将が、日暮れになって陣を払って退くようなことがあるはずがない。これを追ってゆけば必ず失敗である。一人も出てはならぬ」 と止められた。思ったとおり、その夜二時ごろ、越後の陣から火事があり、たいへんな騒ぎとなった。だが、信玄が厳しく命令して一人も出なかった。間もなく夜が明けて、越後の陣地を見渡すと、通り道をあけて、きちんと武装した武士が、槍、長刀を持って、六千ばかりが二行に進んで、敵が近寄るのを待ち受けていた。朝霧が晴れるにしたがって見わたすと、二行になった備えの左側の先手は長尾政貴、右側は宇佐美駿河守走行、松本大学、中条越前を頭として十備え、杉原壱岐守、山本寺伊予守、鬼小島弥太郎、安田伯者守などを頭として十二備えが続いている。
 中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。甲州勢はこれを見て、ここに攻め込めば一人として生きては帰れまい。この備えのあることを見破った信玄の智は計り知れない、ただ名将というだけでなく、鬼神の生まれ代わりともいうべきものだと、みな感じ入ったという。
 その翌日、信玄は戦いの手立てを考えて言った。「夜中に甲州方一万の人数を山の木の陰にひそかに隠し、馬をつないである綱を切り越後の陣に放してやる、そして馬を追って人を出す。敵陣から足軽がこの放した馬に目をつけて必ず出て来るだろう。その時、足軽を討ち取るように見せかけて、侍百騎を出して越後の足軽を追いたてれば、謙信は、気性の強い武士であるから、百騎の勢を全滅しようと出て来るだろう。その時、足並みを乱して敗軍のようにして谷に引き入れ、後陣を突ききり、高いところから、矢先をそろえ、鉄砲を並べて、「目の下の敵を撃て」 と命じた。
 そこで、馬二、三頭の綱を切って越後の陣に追い放し、足軽五、六十人が出て、あちこちと馬を追い、かけ声をかけたが、越後の陣では、これを笑って取り合わず、一人も出なかった。
 信玄はこれを見て、「謙信は名将である。このはかりごとに乗らない武士である」と言い「しかし、大河を越えて陣を張るのは不思議である。信州の中に謙信に内通している者がいるようだ。大事にならぬうちに引き上げることにしよう」 と内談して、信玄は夜中に陣を引き払い、上田が原まで引き上げた。謙信は総軍で信玄と一戦、朝六時ごろから、午後二時すぎまでに五度の合戦があり、初めは武田が負け退いたが、新手が駆けつけて激しく戦い、越後勢は押したてられた。長尾越前守政景、斎藤下野守朝信などが盛り返し、下平弥七郎、大橋弥次郎、宮島三河守などが槍を振るって、武田勢を突き崩した。また、上杉方の雨雲治部左衛門が横合いに突きかかり、道筋を突き崩した。宇佐美駿河守走行は手勢で、山の方から信玄の陣に切ってかかったため、甲州方はついに敗北した。翌日信玄は引き上げ、謙信も戻った。この戦いで、甲州方千十三人の死者、越後方八百九十七人の戦死者であった。

弘治二年八月二十三日、謙信は川中島に出て、先年の陣所より進んで川を越えて、鶴翼に陣を張った。両度の陣と同じ陣形である。村上義清、高梨政頼を中心として、丸い月の形に十二行の陣立てである。信玄は二万五千の兵で出陣した。
 今度の越後の陣取りは、長期戦とみえて、薪を山のように積んでおいたと、甲州の見張りの者が報告するのを、聞いて信玄は、「一日二日の間に、越後の陣に夜中に火事があるだろう。その時、一人でも進んで出て行く者があったら、その子孫までも罰するだろう」 と下知した。
 すると、二十三日の晩方、越後の陣所より荷物を積んだ馬や、荷を持った人夫が出て、諸軍旗を立てて陣を解き、引き上げるようにみえた。甲州方の軍兵が、謙信が引き上げるのを逃さず追い討ちにしようとした。信玄は一の木戸の高みに上ってその様子をながめて、「謙信ほどの大将が、日暮れになって陣を払って退くようなことがあるはずがない。これを追ってゆけば必ず失敗である。一人も出てはならぬ」 と止められた。思ったとおり、その夜二時ごろ、越後の陣から火事があり、たいへんな騒ぎとなった。だが、信玄が厳しく命令して一人も出なかった。間もなく夜が明けて、越後の陣地を見渡すと、通り道をあけて、きちんと武装した武士が、槍、長刀を持って、六千ばかりが二行に進んで、敵が近寄るのを待ち受けていた。朝霧が晴れるにしたがって見わたすと、二行になった備えの左側の先手は長尾政貴、右側は宇佐美駿河守走行、松本大学、中条越前を頭として十備え、杉原壱岐守、山本寺伊予守、鬼小島弥太郎、安田伯者守などを頭として十二備えが続いている。
 中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。甲州勢はこれを見て、ここに攻め込めば一人として生きては帰れまい。この備えのあることを見破った信玄の智は計り知れない、ただ名将というだけでなく、鬼神の生まれ代わりともいうべきものだと、みな感じ入ったという。
 その翌日、信玄は戦いの手立てを考えて言った。「夜中に甲州方一万の人数を山の木の陰にひそかに隠し、馬をつないである綱を切り越後の陣に放してやる、そして馬を追って人を出す。敵陣から足軽がこの放した馬に目をつけて必ず出て来るだろう。その時、足軽を討ち取るように見せかけて、侍百騎を出して越後の足軽を追いたてれば、謙信は、気性の強い武士であるから、百騎の勢を全滅しようと出て来るだろう。その時、足並みを乱して敗軍のようにして谷に引き入れ、後陣を突ききり、高いところから、矢先をそろえ、鉄砲を並べて、「目の下の敵を撃て」 と命じた。
 そこで、馬二、三頭の綱を切って越後の陣に追い放し、足軽五、六十人が出て、あちこちと馬を追い、かけ声をかけたが、越後の陣では、これを笑って取り合わず、一人も出なかった。
 信玄はこれを見て、「謙信は名将である。このはかりごとに乗らない武士である」と言い「しかし、大河を越えて陣を張るのは不思議である。信州の中に謙信に内通している者がいるようだ。大事にならぬうちに引き上げることにしよう」 と内談して、信玄は夜中に陣を引き払い、上田が原まで引き上げた。謙信は総軍で信玄と一戦、朝六時ごろから、午後二時すぎまでに五度の合戦があり、初めは武田が負け退いたが、新手が駆けつけて激しく戦い、越後勢は押したてられた。長尾越前守政景、斎藤下野守朝信などが盛り返し、下平弥七郎、大橋弥次郎、宮島三河守などが槍を振るって、武田勢を突き崩した。また、上杉方の雨雲治部左衛門が横合いに突きかかり、道筋を突き崩した。宇佐美駿河守走行は手勢で、山の方から信玄の陣に切ってかかったため、甲州方はついに敗北した。翌日信玄は引き上げ、謙信も戻った。この戦いで、甲州方千十三人の死者、越後方八百九十七人の戦死者であった。

川中島五度合戦(3)

弘治二年丙辰(一五五六) 三月、謙信、川中島に出陣、信玄も大軍で出向し陣を張った。日々物見の者を追いたて、草刈りを追い散らし、足軽の小競り合いがあった。 信玄のはかりごとでは、戸神山の中に信濃勢を忍び込ませて謙信の陣所の後にまわり、夜駆けにしてときの声を上げて、どっと切りかかれば、謙信は勝ち負けはともかくとして千曲川を越えて引き取るであろう。そこを川中島で待ち受けて討ち取ろうとして、保科弾正、市川和泉守、栗田淡路守、清野常陸介、海野常陸介、小田切刑部、布施大和守、川田伊賀守の十一人の、総勢六千余を戸神山の谷の際に押しまわし、信玄は二万八千の備えを立てて、先手合戦の始まるのを待った。先手十一隊は戸神山の谷際の道を通って、上杉陣の後にまわろうと急いだが、三月の二十五日の夜のことである。道は険しく、春霞は深く、目の前もわからぬ程の闇夜で、山中に道に迷い、あちこちとさまよううちに、夜も明け方になってきた。

 謙信は二十五日の夜に入って、信玄の陣中で兵糧を作る煙やかがり火が多く見られ、人馬の音の騒がしいのを知り、明朝合戦のことを察し、その夜の十時ごろに謙信はすっかり武装をととのえて八千あまりの軍兵で、千曲川を越えた。先陣は宇佐見駿河守定行、村上義清、高梨摂津守政頼、長尾越前守政景、甘糟備後守清長、金津新兵衛、色部修理、斎藤下野守朝信、長尾遠江守藤景九組の四千五百。二番手に謙信の旗本が続いて、二十五日夜のうちに、信玄の本陣に一直線に切り込み、合戦を始めた。
 信玄は思いもよらぬ油断をしていた時で、先手がどうしたかと首尾を待っていたところに越後の兵が切りかかった。

 武田方の飯富兵部、内藤修理、武田刑部信賢、小笠原若狭守、一条六郎など防戦につとめた。しかし、越後方の斎藤、宇佐美、柿崎、山本寺、甘敷、色部などが一度にどっと突きかかったので、信玄の本陣は破れ、敗軍となった。その時板垣駿河守、飯富、一条など強者ぞろいが百騎ばかり引き返して、高梨政頼、長尾遠江守、直江大和守などの陣を追い散らし、逃げるを追って進んで来るところを、村上義清、色部、柿崎などが、横から突きかかって板垣、一条などを追い討ちにした。小笠原若狭守、武田左衛門、穴山伊豆守など三百騎が、「味方を討たすな、者どもかかれ」 と大声で駆け入って来た。

 越後方でも杉原壱岐守、片貝式部、中条越前、宇佐美、斎藤などが左右からこの武田勢を包囲して、大声で叫んで切りたてた。この乱戦で信玄方の大将分、板垣駿河守、小笠原若狭、一条など戦死、足軽大将の山本勘介、初鹿野源五郎、諸角豊後守も討ち死にした。
二十五日の夜四時ごろから翌二十六日の明け方まで、押し返し、押し戻し、三度の合戦で信玄は負けて敗軍となり、十二の備えも追いたてられ討たれた者は数知れなかった。
 謙信が勝利を得られたところに、戸神山よりまわった武田の先手十一組、六千余が、川中島の鉄砲の音を聞き、謙信に出し抜かれたかと我先に千曲川を越え、ひとかたまりになって押し寄せた。信玄はこれに力を得て引き返し、越後勢をはさみうちに前後から攻め込んだ。前後に敵を受けた越後勢は、総敗軍と見えたが、新発田尾張守、本庄弥次郎が三百
余で、高坂弾正の守る本陣めがけて一直線に討ちかかり、四方に追い散らし、切り崩した。

上杉勢は一手になって犀川をめざして退いた。
 武田勢は、これを見て、「越後の総軍が、この川を渡るところを逃さず討ち取れ」と命じ、われもわれもと甲州勢は追いかけて来た。上杉勢は、退くふりをして、車返しという法で、先手から、くるりと引きめぐらし、一度に引き返し、甲州勢の保科、川田、布施、小田切の軍を中に取りこめて、一人残らず討ち取ろうと攻めたてた。
 信玄方の大将、河田伊賀、布施大和守を討ち取り、残りも大体討ち尽くすころ、後詰の栗田淡路、清野常陸介、根津山城守などが横から突いて出て、保科、小田切の軍を助けだした。越後の諸軍は先手を先頭にして隊をととのえて、静かに引きまとめ犀川を渡ろうとした。そこへ、信玄の先手、飯富三郎兵衛、内藤修理、七宮将監、跡部大炊、下島内匠、小山田主計などが追って来た。本庄美作、柿崎和泉、唐崎孫之丞、柏崎弥七郎などが、引き返して戦っているところに、新発田尾張守、斎藤下野守、本庄弥次郎、黒川備前守、中条越前守、竹股筑後守、その子右衛門など八百あまりが柳原の木陰からまわって来て、それぞれに名乗り、何某ここにあり、そこをひくなと大声で叫び、一文字に突いてかかった。

そのため甲州勢はもとの陣をさして退いた。越後勢は勝って、その足で川を越え、向こうの岸に上がった。甲州勢はなおも追いかけようとひしめいたが、越後方の宇佐美駿河守が千あまりで市川の渡り口に旗を立て、一戦を待つ様子に恐れ、その上、甲州方は夜前から難所を歩きまわり、疲れているのに休む間もなく四度も合戦になったため、力も精も尽き果てて、重ねて戦うだけの気力をなくした。

 甲州本陣にいた軍兵が代わりに追討軍を組もうとしたのを信玄は厳しく止めたので、一人も追っ手は来なかった。越後勢はゆっくり川を越して、はじめの陣所に引き上げた。

 この日の合戦は夜明けの前に三度、夜が明けてから四度、合わせて七度の戦いで、越後方戦死三百六十五人、負傷者千二十四人。甲州方の戦死者は四百九十一人、負傷者千二百七十一人と記した。中でも、大将分小笠原若狭守、板垣駿河守、一条六郎、諸角豊後、初鹿野源五郎、山本勘介をはじめ、信玄の士の有名な人びとが討ち死にしたので翌二十七日に信玄は引き上げた。謙信も手負いの者、死人など片づけ、軍をまとめて引き上げた。弘治二年三月二十五日の夜から、二十六日まで、川中島の第三度の合戦であった。

川中島五度合戦(2)

 天文23年8月初め、謙信は越後を発ち川中島に着き、丹波島に陣取った。越後留守居として、謙信の姉婿上条の城主の上条入道、山浦主水入道、山本寺伊予守、大国主水入道、黒金上野介、色部修理、片貝式部の七人にその勢力八千を残した。

上杉謙信
謙信は川中島に陣を張り、
先手は村上義清、二番手は川田対馬守、石川備後守房明、本庄弥次郎繁長、高梨源五郎頼治の四人。
後詰(ごづめ/応援)は柿崎和泉守景家、北条安芸守長朝、毛利上総介広俊、大関阿波守規益の四人である。
遊軍は、本庄美作守慶秀、斎藤下野守朝信、松川大隅守元長、中条越前守藤資、黒川備前為盛、新発田長敦、杉原壱岐守憲家、上条薩摩守、加地但馬守、鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、黒金治部、直江入道、山岸宮内、柏崎日向守、大崎筑前守高清、桃井讃岐守直近、唐崎左馬介、甘糟近江守、神藤出羽介、親光安田伯音守、長井丹後守尚光、烏山因幡守信貞、平賀志摩守頼経、飯盛摂津守、竹股筑後守春満など二十八備え、侍大将が二行に陣を張り、旗を進めた。宇佐美駿河守定行二千余、松本大学、松本内匠介千余は旗本脇備えである。
総軍の弓矢奉行をつとめるのは、謙信の姉婿に当たる上田政貴で、飯野景久、古志景信、刈和実景の4人は、みな長尾という同名で謙信の一門である。これで越後勢は合わせて八千である。犀川を越え、網島丹波島原の町に鶴翼の陣を取った。

  武田軍
武田晴信も同15日に川中島を通って、海津城に入り、16日に人数を繰り出して、東向きに雁行に陣取った。先手は高坂弾正、布施大和守、落合伊勢守、小田切刑部、日向大蔵、室賀出羽介、馬場民部の七組で、七百の勢が先手に旗を立てて進んだ。
二番手には真田弾正忠幸隆、保科弾正、市川和泉守、清野常陸介の四人が二千の兵を率いて陣取る。
後詰は海野常陸介、望月石見守、栗田淡路守、矢代安芸守の四人で二千七百。遊軍は仁科上野介、須田相模守、根津山城守、井上伯音守の五人、四千の軍勢である。
これを二行立てに陣を張り、総弓矢奉行は武田左馬介信繁、小笠原若狭守長詮、板垣駿河守信澄の三人の備えとなった。
旗本の先頭は、飯富(おぶ)二郎兵衛昌景、阿止部(跡部)大炊介信春、七宮将監、大久保内膳、下島内匠、小山田主計、山本勘介、駒沢主祝の八人で、信玄の本陣の左右には、名家の侍の一条信濃守義宗と逸見山城守秀親(信玄の姉婿)が万事を取り仕切る。
その他、下山河内守、南部入道喜雲、飯尾入道浄賀、和賀尾入道、土屋伊勢、浜川入道の六人が二千の兵と陣を敷いた。
ところが日夜お互いに足軽を出して小競り合いをしたが、合戦にはならなかった。

   上杉軍
天文23年8月18日の朝はやく、越後方から草刈りの者二、三十人出し、まだうす明かりの中から駆けまわる。それを見ていた甲州の先手の高坂(弾正)陣の足軽が百人ばかり出て、謙信方の草刈りを追いまわした。これは計略であったので、越後方から村上義清と高梨政頼の足軽大将である小室平九郎、安藤八郎兵衛ら二、三百人の者が夜のうちから道に潜んでいて、高坂の足軽を全部を討ち取った。これを見て、高坂弾正、落合伊勢守、布施山城守、室賀出羽介の陣から百騎あまりの者が大声を上げて上杉勢の足軽勢を追いたて、上杉方の先手の陣のそばまで押し寄せて来た。それを見計らって、義清、政頬の両方の軍兵一挙に出て、追い討ちをかけ、武田勢百騎を総て討ち取ってしまった。そのため、高坂、落合、小田切、布施、室賀などの守りが破れ、武田晴信の本陣まで退いていった。

武田軍
武田方は先手が負け、さらに追いたてられるのを見て、真田幸隆、保科弾正、清野常陸、市川和泉などが第二陣から出て、勢いで追いたてて一旦、上杉勢を追い返して、陣所の木戸口まで迫り、義清、政頼も危機を迎えた。

上杉軍
この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。
そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。 越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。

 謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをととのえ、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。
そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。
信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみうちに討ち取った。武田勢は人も馬も川の水に流されたり、また討ち取られた者も数知れなかった。
そのうちに謙信の旗本も戻り、越後方上条弥五郎義清、長尾七郎、元井日向守、沼野掃部、小田切治部、北条丹後守などが信玄の旗本を討ち取った。その他、青川十郎、安田掃部などは御幣川に乗り込み、槍を合わせ太刀で戦い名を上げた。手柄の士も多かった。しかし討ち死にした者も数多かった。
 信玄も三十ばかりの人数で川を渡って引き1げるところを、謙信は川の中に乗り込んで二太刀切りつけた。信玄も太刀を抜いて戦う時、武田の近習の侍が謙信を取り囲んだが、それを切り払った。しかし、なかなか近づけず、信玄も謙信も間が遠くへだてられた。その時、謙信に向かった武田の近習の士を十九人切った謙信の業は、とても人間の振る舞いとは思われず、ただ鬼神のようであったといわれる。謙信とはわからず、甲州方では越後の士荒川伊豆守であろうと噂されていた。後でそれが謙信とわかって、あの時討ち取るベきであったのに残念なことをした、とみなが言ったという。
信玄は御幣川を渡って、生萱山土口の方に向かい、先陣、後陣が一つになって負け戦であった。甲州勢は塩崎の方に逃れる者もあり、海津城に逃げ入った者もあった。
中条越前が兵糧などを警護していたところ、塩崎の百姓数千がそれを盗みに来たため、中条がこれを切り払った。このためまた、武田、上杉の両軍が入り乱れてさんざんに戦った。両軍に負傷者、死者が多く出た。信玄は戦に敗れて、戸口という山に退いた。上杉勢がこれを追いつめ、そこで甲州方数百を討ち取った。
 信玄の弟、左馬介信繁が七十騎ばかりで、後詰の陣から来て、信玄が負傷したことを聞き、その仇を取ると言って戻って来た。その時、謙信は川の向こうにいた。左馬介は大声で、「そこに引き取り申されたのは、大将謙信と見える。自分は武田左馬介である。兄の仇ゆえ、引き返して勝負されたい」と呼びかけた。謙信は乗り戻って、「自分は謙信の家来の甘糟近江守という者である。貴殿の敵には不足である」と言って、川岸に馬を寄せていた。
待っていた左馬介主従十一人が左右を見ると敵はただ一騎である。信繁も、「一騎で勝負をする、みな後に下っているよう」と真っ先に川に入るところを、謙信は川に馬を乗り入れ、左馬介と切り結んだ。左馬介は運が尽きて打ち落され、川に逆さまに落ち込んだ。謙信は向こうの岸に乗り上げ、宇佐美駿河守が七百余で備えている陣の中に駆け入った。一説には武田左馬介信繁を討ち取った者は村上義清であるともいう。上杉家では、左馬介を討ち取ったのは、謙信自身であったと言い伝えている。甲州では信玄は二か所も深手を負い、信繁は討ち死にしたのである。板垣駿河守、小笠原若狭守も二か所、三か所の負傷で敗軍であった。
 越後勢も旗本を切り崩されて敗軍したが、宇佐美駿河守、渡辺越中守が横槍に入り、信玄の旗本を崩したのに力を得て、甲州勢を追い返して、もとの陣に旗を立て、鶴翼の陣を張ることができた。

 この時の戦は天文二十三年甲寅八月十八日。夜明けから一日中十七度の合戦があった。武田方二万六千のうち、負傷者千八百五十九人。戦死者三千二百十六人。越後方は負傷者千九百七十九人、戦死者三千百十七人であった。十七度の合戦のうち、十一度は謙信の勝、六度は信玄の勝であった。謙信は旗本を破られたが追い返して、もとの場所に陣を張ることができた。武田方は信玄が深手を負い、弟の左馬介戦死、板垣、小笠原なども負傷したため、陣を保てず、夜になって陣を解いて引き上げた。謙信も翌日陣を解き、十九日には善光寺に逗留して、負傷者を先に帰し、手柄を立て名を上げた軍兵に感状証文を出して、二十日に善光寺を引き払い、越後に帰陣した。これが天文二十三年八月十八日の川中島合戦の次第である。

 


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