全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

さらに資料収集
武川長介を探る武川衆について
 さて『飛騨屋久兵衛』の初祖武川長助の出自が甲斐源氏武川衆であると系図を掲げてある。ここでその武川衆について調べた事柄を記載する。結果から言えば、資料からは残念ながら武川長助は武川衆並びに武川姓との関係が希薄であると考えられる。武川衆の多くは武田終焉を迎える中で、いち早く徳川家康の甲斐制定に力を捧げ、その後も武蔵国(現埼玉)鉢形などへ移り活躍し、その中からかの有名な柳沢吉保や曲渕氏・山高氏などの武将を輩出している。武川地域は非常に広範囲で現在の北杜市・韮崎市それに甲斐市、中巨摩郡の一部を包含している。その為戦国時代やそれ以前の甲斐源氏の活動場所と古来より名馬を多出し、その後の「武田騎馬軍団」の主流となる。
永享五年(1433)四月二十九日 甲斐荒川合戦 戦死者(『一蓮寺過去帳』)
立阿弥陀仏   永享 五年 四月二十九日  柳沢  1433
受阿弥陀仏                 山寺
声阿弥陀仏                 牧原
重阿弥陀仏   永享 五年 十月二十四日  山高
『一蓮寺過去帳』(甲府市大田町)武川衆関係記載
成仏      文安 元年十一月  朔日  白州     1444
覚阿弥陀仏   宝徳 二年 五月  一日  山高     1450
老阿弥陀仏   長禄 元年十二月二十八日  白洲蔵人   1457
小河原合戦討死
臨阿弥陀仏   長禄 三年         白洲     1459
与阿弥陀仏   長禄 四年十二月二十七日  馬場三州   1460
唯阿弥陀仏   寛正 二年         白州     1461
也阿弥陀仏   寛正 三年         白須     1462
善阿弥陀仏   文政〜応仁         米倉     1466〜68
弥阿弥陀仏    々            馬場       々
浄阿弥陀仏   文明元〜四年        馬場民部   1469〜72
師阿弥陀仏    々            白砂       々
来阿弥陀仏    々            馬場中書     々
金阿弥陀仏    々            馬場小太郎    々
光一坊     文明 九年 十月 十八日  山高御子逆修 1477
臨阿弥陀仏   延徳 二年 九月 十八日  山高殿    1490
西一坊     延徳年間          山高     1489〜91   
妙欽禅尼    明応 四年 七月  一日  曲渕母儀逆修 1495
合一坊     文亀 四年 四月 十六日  山高房    1504
永安正光禅定門 天文 十年         青木     1541
依竹宗賢禅定門 慶長 十年 七月二十七日  入戸野善兵衛 1605
  
 筆註‥
   徳川家康は武田旧臣八九五人を遠江国秋葉神社社前に集め、起請文を提出させた。
   武川衆は早くから家康の臣下となっていたので、この起請文には含まれていない。
  武川衆下之郷記省文 武川衆…『武川村誌』「資料編」第一章 中世
  永禄十年(1567) 八月七日  上田市生島足島神社蔵文書
   (ウハ書)  八月七日  馬場小太郎信盈 (花押)
   青木与兵衛尉信秀(花押)
青木    山寺源三昌吉  (花押)
  上 山寺  六河衆    宮脇清三種友  (花押)
柳沢
   横手監物滿俊  (花押)
   青木兵部少輔重満(花押)
   柳沢壱岐守信勝 (花押)
   六郎次郎(武田信豊)
   天正十年(1582)武川衆への家康感状(『武川村誌』)
  七月十五日   米倉忠継  折井次昌
  八月十六日   青木信時  柳沢信俊
    十七日   折井次昌  名執清三
  九月 一日   山本忠房
 …   七日   折井次忠  小沢善大夫 米倉信継  米倉豊継
          米倉定継  青木信時 柳沢信俊  横手源七郎
          曲渕正吉
     九日   名執清三
     十日   山本忠房
   天正十年(1582)家康発給、
  『武川次衆定置注文』(『武川村誌』)
 曽雌藤助  米倉加左衛門尉  入戸野又兵衛  秋山但馬守   秋山内匠助
 秋山織部佑  秋山宮内助   功刀弥右衛門尉 戸島藤七郎   小沢善大夫
 小沢甚五兵衛  小沢縫右衛門尉  小沢與左衛門尉 金丸善右衛門尉 金丸新三
 伊藤新五  海瀬覚兵衛   樋口佐大夫   若尾杢左衛門尉 山本内蔵助
 石原善九郎  志村惣兵衛  山主民部丞 名執刑部右衛門尉  塩屋作右衛門尉 青木勘次郎   
   武川衆二十四士重恩之惣目録
 武川衆…『武川村誌』「資料編」第一章 中世
天正十八年(1590)正月二十七日
 馬場勘五郎  曲渕玄長  青木尾張  青木弥三左衛門 横田源七郎  米倉左大夫  米倉彦次郎  米倉加左衛門  米倉彦大夫  曲渕庄左衛門  曲渕助之丞  折井九郎次郎  青木弥七郎  伊藤新五郎  青木勘四郎  曽雌民部助  入戸野又兵衛  柳沢兵部少  山高将監  米倉六郎右衛門 山寺甚左衛門  折井市左衛門  米倉主計助  馬場小太郎
   武川衆の采地(『武川村誌』)
 武蔵鉢形領(大里) 埼玉県寄居町・小川町
山高信直  青木信時 折井次昌  米倉忠継 米倉豊継  米倉満継
山寺信昌  馬場信成 知見寺盛之 入戸野門宗 曲渕正吉  曽雌定政
柳沢信俊(この人が柳沢吉保のお祖父さん)
   相模足柄郡
曲渕吉景  米倉信継 下総匝瑳郡 折井次吉
   慶長 九年(1604)武川衆御重恩の覚え(『柳沢氏の研究』)
• 百二十石  柳沢兵部丞信俊
• 百十八石八斗 伊藤三右衛門尉重次
• 八十石  曲渕勝左衛門尉正吉
• 五十六石四斗弐升 曽根孫作
• 八十六石   曽雌民部定政
• 六十石  折井九郎三郎次吉
• 九十石  折井長治郎次正
• 百十石  曽雌新蔵定清
• 五十石  有泉忠蔵政信
• 七十五石 山高宮内少輔信直
• 八十石  青木与兵衛尉信安
• 二十石  青木清左衛門尉信政
•  百石  馬場右衛門尉信光
• 二百石  折井市左衛門次忠
   慶長十二年(1607)甲府城番武川十二騎(『武川村誌』)
 山高孫兵衛親重   馬場民部信成  青木与兵衛信安  米倉丹後守信継
 知見寺越前守盛之  折井仁左衛門次吉  入戸野又兵衛門光 山寺甚左衛門信光
 柳沢三左衛門    曲渕筑後守吉清  小尾彦左衛門重正 跡部十郎左衛門胤信
 さてここまで「武川衆」を調べてみたが、残念ながら「武川姓」は見つけ出せない。武川長助が生まれたのは『飛騨久兵衛』によれば、永禄三年(1660)頃とされているがかの有名な川中島の戦いの前年であり、その六年には恵林寺領検地帳が作成されている。 武川の地名はその頃は存在していなかった。前掲の中で武川の諸将は、山高・柳沢・馬場などで、その他宮脇や小沢それに牧原姓なども武川の出である。地名が武将の苗字となる例が多いことから見ても「武川衆」から「武川」の姓が生まれることは考えにくい。前述したように恵林寺に隣接する牧丘町の武川地から出た「武川」「竹川」から出た人が因縁深い僧侶とともに飛騨周辺に行き、その後初代「武川長助」となったとする方が自然と思われる。
  追加資料
   天正十年(1582)八月一日 甲信諸士起請文
   後典厩衆
 竹川與十郎 竹川新兵衛
   山縣三郎兵衛尉昌景衆
 武川市兵衛
   甘利左衛門尉衆
 竹川監物
   享保十三年(1728)甲府勤番士 百俵三人扶持
 竹川甚助
   牧丘町誌(山梨市と合併)
  第二章 古代と中世
 竹川氏 清和源氏義光流・武田支流の出自。『甲斐国志』に竹川但馬守、牧平を領し、積翠寺要害城に通ずる間道の要衛守衛に当たる。とある。いま恵林寺古墓碑銘により但馬守、諱を秀経、没年天正十年三月三日、法名雄光院殿真覚静本居士とする。その子信経は徳川家康に仕え、以後子孫幕臣になる。
 また『甲斐国志』に竹川監物のことがあるが、この信経より、経秀、信成、秀成に至る四代いすれも監物を称する。
 『天王壬午起請文』に甘利衆竹川監物とあるのは、信経、また甲府町奉行をつとめる監物は信成、(教安寺鐘銘は秀勝)とみられる。本町竹川氏は初代監物の二男の系統で、右衛門−権左衛門−彦七と続き、また代々紋右衛門(甲斐国志では門右衛門)を称する。なお但馬の子で天正三年の長篠合戦での戦死者があったが、六郎兵衛とあるのみで不明。
(資料集収集中、続編あり)

筆註………『岐阜県史』「資料編」古代・中世
 南泉寺(山形郡高富町大桑)
• (年月日不詳)   仁岫宗寿語録 別本仁岫録
• (年月日不詳)   仁岫宗寿・快川紹喜拈香・下火頌写
• (年月日不詳)   仁岫宗寿・快川紹喜・等法語録
• (年月日不詳)   快川紹喜頂相 自賛
• (年不詳)  暮春二三日   快川紹喜書状
 禅昌寺(益田郡萩原町中呂)
• (年月日不詳)   明叔慶浚等諸僧法語雑録
• (年月日不詳)   仁谷宗腆法語
• 永禄 九年(1556)六月十日   功叔宗輔撰三木直頼十三年忌拈香法語
• 天文 六年(1540)稔林鐘如意珠日  明叔慶浚道号二大竝頌
• 天文十八年(1549)六月如意珠日   明叔慶浚道号二大竝頌
• 天文二三年(1554)十月六日   後奈良天皇綸旨
• 永禄初穂 (1558)三月如意珠日   希菴玄密掟書
  (明覚山大円寺第七世)
崇福寺(岐阜県長良福光)
• 天正 七年(1579)小春如意珠日   快川紹喜筆天崇転位賀偈
• (年不詳)  小春初五日   快川紹喜書状
• (年不詳)  十月四日   武田信玄書状
大龍寺(岐阜市粟野)
• 永禄戌辰年(1568)仲春日   快川紹喜頂相
• 享禄 五年(1532)祀孟春   斎藤利安「宗真」画像 仁岫宗寿賛
• (年不詳)  九月二四日   仁岫宗寿書状案
愚渓寺(可児郡御崇町)
• 天文丁未年(1547)二月如意珠日   民職慶浚頂相 自賛
浄音寺(可児郡家兼山町)
• 天文己亥年(1539)八月如意珠日   斎藤大納言画像賛並序 明叔慶浚撰
 筆註………『山梨県の文化財』
甲斐恵林寺(塩山市後屋敷2280番地)
• (年不詳) 紙本着色渡唐天神像 快川紹喜賛
甲斐南松院(南巨摩郡身延町下山)
• (年不詳) 紙本着色渡唐天神像 策彦周良賛
甲斐南松院(南巨摩郡身延町下山)
• 永禄 九年(1566) 天桂玄長著賛 南松院什物
 筆註……‥『岩村氏郷土年表』
• 享禄 元年(1529) 三木直頼禅昌寺を再興し明叔を始祖とする。
• 天文 三年(1537) 明叔、大円寺に入寺再興。
•    十年(1541) 明叔、愚渓寺に転住。
• 弘治 元年(1555) 武田の臣秋山伯耆守春近、高遠城主伊那郡代に。
•    二年(1556) 希菴玄密、大円寺住し秋に禅昌寺に移る。
• 永禄 三年(1562) 希菴玄密正法山に住す。
• 永禄 五年(1564) 武田勝頼高遠城主となる。
•    十年(1567) 信長岐阜城に入る。
• 永禄十四年( ?  ) 明叔、尾州福泉寺住
• 元亀 元年(1570) 武田の臣秋山春近、東山勢を破る。
•    三年(1572) 信玄、三方河原に家康を破る。
            秋山春近、大円寺を焼き希菴玄密を殺す。
• 天正 元年(1573) 四月、武田信玄死去する。
•    十年(1582) 武田勝頼、信長に滅ぼされ、快川紹喜の焼滅す。
________________________________________

(お茶の水図書館蔵『快川法語』。快川国師顕彰会主宰の棚橋啓太郎氏教示) 
(略)『別本仁岫録』によれば、快川は永正元年(1504)の出生で、天正十年(1582)に七十九歳で亡くなったことになる。  
 (略)『禅林雑記』(松ヶ丘文庫)快川は天正九年(1581)九月に国師号を得ており、その翌春の作品と見れば、通説どおり八十一歳で亡くなったみることができる。
 (略)天文十年秋から十一年にかけては希庵の師である明叔慶浚が武田信玄の招かれて甲州恵林寺住山しており、つづいて明叔は今川義元に招かれて駿河の臨濟寺に住山した。
 (略)恵林寺へ移った後の天文二十四年(1555)の武藤氏・江月宗印信士予修下火法語に「前妙心現住恵林快川叟書焉」と署名している(『禅昌寺本明叔録』)。
(略)天文二十二年(1553)になって、快川は南泉寺を留守にしてしばらく甲斐の府中(甲府)に滞在した。七月三十日付で嵩福寺(五峰元叔)に宛てた希庵玄密の書状に(略)「快川法兄が甲府寓居中である」ことを書き留めている。天文二十一年(1552と推定される十二月九日付けで、大円寺(希庵玄密)へ出した快川の返書には、希庵の妙心寺出世を祝福すると共に、快川の甲州発足は雪中ゆえに思う留まり来年二月末に伸ばしたことを告げ、その折の道中支援を頼み、その為希庵の伊勢出立も二月松まで待ってほしいとある。    (東大印哲『異本葛藤集』)   
(略)天桂玄長は、信州木曽福島の龍源寺開山信叔紹允に入門し、天文初年頃に印可を得たらしい。そして、下諏訪の慈雲寺住職に招かれ、天文二十一年(1552)九月に武田信玄の招きで恵林寺へ入寺した。天文二十三年五月七日には、恵林の小比丘玄長の名で信玄の母大井夫人の三回忌に出席し、副師をつとめている。  (『天正玄公仏事法語』)
 翌年二十四年と思われる二月六日付で快川が飛騨国益田郡萩原の禅昌寺へ出した書状に
 「天桂は木曾の龍源寺、信州府中の慈雲寺、甲州恵林寺この三ケ寺の住持なり」
 と書いており(『禅昌寺本明叔録』)甲信両国に確たる地歩を築いた。その天桂の手引きであれば、快川は当然のことながら信玄に拝謁の機会を与えられたのであろう。
 快川のすぐれた素質に引かれた信玄は、天桂の後任として快川を恵林寺に招聘し、天文二十四年二月にそれが実現するのである。
三、恵林寺住山
 恵林寺に入寺した後に、恵林寺の風景などのうちから特徴的なことを選んで恵林寺十境として定められているもので、(略)これを収める『葛藤集』には「ときに甲の万乾徳山恵林寺に十境あり、その一は雑花という」との注が付されている。
(略)天文二十四年は途中で弘治元年と改元された。翌年の弘治二年(1556)五月には、甲府の東光寺住持持仁甫珠善が亡くなった。そこで恵林寺の快川は、仁甫の法嗣藍田に書を送って、哀悼の意を述べ(略)東光寺の後任としては藍田以外には無いので、少しでも早く招請状のとおり東光寺へ越されるようにと書いてある。
(略)弘治二年と推定される成就院(小石和郷、武田信重の菩提寺で、信玄が甲府に移し円光院と改めた)あての書状に「来年(弘治三年)三月には妙心寺で開山祖師の二百年忌が執り行なわれることになり、これを記念して居成りが三人勅許されることになった。美濃岩村大円寺の希庵玄密の推挙によって東光寺の仁甫が指名され、居成りの請書が京都から下着した。その結果、府君信玄は一万疋(銭百貫文)を奉加すると言われた。云々
  (『葛藤集』)
 『禅昌寺本明叔録』「妙心寺派語録」この書状中には、飛騨国の禅昌寺住持仁谷智腆が弘治二年九月二十一日に亡くなったとの知らせに快川は、十月二十五日付で手紙を三木氏の側近と思われる松雪斎宛に書き、仁谷の逝去を大いに悼むと共に、快川が一伝の遷化を受けて帰国を決意したことを報じた。信玄の許しを得てのことであろう。禅昌寺は当時下呂市萩原に在り(今は下呂市中呂)、南飛騨の雄族三木氏の菩提寺の一つであった。信玄は十二月十四日付で京都妙智院へ手紙を出し、院主の策彦に恵林寺・長興寺・継統院の三カ寺の住持として早急に御出発されるように懇請しているので(『明智院文書』)快川の帰国は確実となった。策彦を恵林寺の元旦に臨んで、
  日暦開端紀太平、叢規随例祝新正、恵林有箇少林笛、吹起万年歓旧声 
弘治三稔履端辰(一月元旦) 乾徳山長周良稿 
 これに対して快川は次のように和韻している。
  天下春帰嵩福海、華厳富貴輝吾前、窓啣西嶺千秋雪、門繋東呉万里船   
  快川(『葛藤集』)
(弘治三年の新春を、西方に万年雪をいただく富士山を望む所で迎えたが、門前に船をつないで出発を待つに等しいような準備が整い、嵩福寺へ帰ろう)
 筆註…
さてここまでの資料の中からも、禅昌寺と恵林寺、信玄と飛騨、僧侶の交遊の深さが理解できる。武川長助が天正十年、甲斐武田の滅亡の後に逃げ延びたというよりは、僧侶の交遊中に同道した人々の中に武川長助と名乗ようになった人物が居たのではないだろうか。「武川」の祖を甲斐源氏に結びつけたのかは後世の人の作とも思われる。「武川衆」という総称から「武川」の姓が出るとは考えにくい。
四、恵林寺の歴代住職
天文(1532)〜永禄(1570)期の恵林寺住職一覧
   (追加資料『山梨県の文化財』)
 住職名   在 住 期 間   
 明叔慶浚  天文 十年(1541)秋  〜天文十一年(1542)春
 鳳栖玄梁  天文十三年(1544)   〜天文十五年(1546) 
積翠寺和漢連句に名有
 天桂玄長  天文二一年(1552)九月〜天文二四年(1555)一月
 天文二四年、元日乾徳山主云胡
 快川紹喜  天文二四年(1555)  〜弘治 二年(1556)
 策彦周良  弘治 二年(1556)  〜弘治 三年(1557)
 策彦周良  (年月日不詳) 甲斐南松院 策彦周良賛
紙本着色渡唐天神像
 快川紹喜  弘治 三年(1557)一月下旬 嵩福寺住職就任
 快川紹喜  永禄 三年(1560)四月 斎藤義龍の子が死去、悼偈一篇を上呈。
 快川紹喜  永禄 五年(1562)十月十一日 斎藤義龍の葬儀に快川が導 師となる。
 希庵玄密  永禄 七年(1564)二月〜永禄 七年(1564)九月
       『葛藤集』 『禅昌寺本明叔録』
 快川紹喜  永禄 七年(1564)十月〜永禄 十年(1567)四月 美濃へ帰り法泉寺住山
 天桂玄長  永禄 九年(1566)    南松院什物    天桂玄長著賛
禅昌寺本明叔録』 
 快川紹喜  永禄 十年(1567)秋冬〜天正 十年(1582)   恵林寺
  山門上で火定
 快川紹喜  (年月日不詳)    甲斐恵林寺 紙本着色渡唐天神像 快川紹喜賛
 筆註…『甲斐国志』…恵林寺『乾徳山慧林寺』 巻之七十五
• 開基 夢窓国師   
• 二世 満翁道
• 三世 曇翁□
• 四世 無元
• 五世 省哲  
• 六世 瑞昭
• 七世 古先印元  
• 八世 明叟斎哲
• (?) 青山慈永
• (?) 龍湫周澤
• (?) 絶海中津
• (?) 通容宏感   
• (?) 曇芳周應    
• 三十一世 策彦周良  永禄七年信玄寄寺領三百貫文
 快川紹喜
 筆註………「恵林寺過去帳」…『武田信玄傳』(広瀬廣一氏著)
 明叔慶俊禅師  勅謚圓應大通禅師  天文二十一年八月二十一日(寂)(1552) 希庵玄密禅師    元亀元年十一月二十七日(寂) (1570) 鳳栖玄梁禅師  嗣 大宗弘
 月航玄津禅師  特陽普濟英宗禅師  天正十四年七月十一日(寂)  (1586) 天桂玄長禅師  嗣信叔(信叔紹充獨秀下仁岫の弟)
 以上五員関山派之尊宿也 快川国師已前住當山見古記
 再住妙心當山始祖特賜大通智勝国師快川大和尚
 濃州人土岐氏永禄七應玄公(信玄)三請住山
 天正十壬午四月三日寂   (1582)  (以下略) 

快川国師…戦国期武田氏の京都外交−本山系寺院を中心に(ホ−ムぺ−ジ)

 (略)三、臨済宗……鎌倉末に建長寺開山の蘭渓道隆が二度にわたって甲斐国に配流されたことや、南北朝期に夢窓疎石が塩山に恵林寺を創建したこと、さらに抜隊得勝が塩山の向岳寺を創建した。云々
 (略)策彦を快川和尚が弘治二年(1556)美濃の嵩福寺へ帰った直後の住職とする従来の説には問題が残る。開山派の僧で最初に入甲したのは、信玄幼時の師僧、除髪の導師ともいわれている。その法兄の鳳栖玄梁が天文十三年(1544)に恵林寺住職となり同二十年(1551)に駿河の清見寺へ移った後、通説では月航玄津、天桂玄長とあいついで妙心寺僧が住持し、ついで前述した快川紹喜・策彦周良・希庵玄密をへて、永禄七年(1564)十月に快川和尚が再任したとされている。
(略)快川国師の場合、永禄十年(1567)十一月には織田信長に攻められて美濃を追われた斎藤竜興(一色義棟)と信玄の間を仲介しており、(略)恵林寺の快川和尚が、前年からの武田・斎藤同盟交渉の中心的な役割を果たしていたことは明らかである。
(略)天正九年(1581)八月には、衰退が歴然としてきた勝頼を援護するため、快川が働きかけて信長との和睦を画策している。この事実は『甲陽軍艦』(品五十七)や『信長公記』(巻十四)にもみえて、そこでは劣勢となっていた勝頼が信長の歓心を得るために、信玄の代から人質として、甲府に止めておいた五男の御坊丸(織田勝長)を安土に送り返したが、信長はそれを無視して甲州攻めを敢行したいう内容である。(略)
 筆註…
 諸資料から美濃と甲斐、信玄と禅僧それに、武川長助…快川紹喜…禅昌寺…恵林寺…山梨県牧丘竹川(武川)が線上に並びます。恵林寺と牧丘町は近接している。そこで禅昌寺にも恵林寺にも関わりをもつ快川紹喜について『禅文化』から抽出してみると、そこには新たなことが見えてくる。
快川国師の生涯
 (『禅文化』所収 横山住雄氏著 濃尾歴史文化研究所主宰 抜粋)
一、従来の説
 快川は美濃土岐氏の出身といわれている。これは『延宝伝灯録』という江戸前期の禅僧の略伝集に、「快川紹喜国師は源姓、土岐氏族なり、濃州の人なり」と書かれているのが出典らしい。云々 戦前から戦後にかけて、岐阜県の郷土史界で活躍した故佐藤弥太郎氏は、ある人の話として「加茂郡飯地村の生まれ」だと聞いた。佐藤氏もその人に聞いたところ、「恵那市飯地(旧加茂郡域)が快川出生地である」とのことだった。
(略)佐藤弥太郎氏の『笠松町史』に別説が掲載されているとして、「笠松町に門間に臨江山弘済寺があり、同寺の由緒では、天文六年(1537)に岐阜市長良の嵩福寺の快川和尚が創建したといい、快川は土岐氏の代官で北門間の道左京進の三男である」という。大正四年の『美濃国稲葉郡志』には「快川紹喜は土岐氏 の一族」、『岐阜市史』の嵩福寺の条で「三世は美濃土岐氏の出身で仁岫(にんしゅう)の法嗣、快川紹喜」とあり、その出自は土岐氏をとりものが多いとして出典をあげる。
快川の出自   出 典
• ▽ 土岐氏説   『美濃国稲葉郡志』・『延宝伝灯録』・『岐阜市史』
• ▽ 斉藤氏説   『嵩福寺由緒』 物堂和尚(延宝九年寂)筆
• ▽ 道家氏説   『笠松町史』・『弘濟寺過去帳』・『永禄七年恵林寺再住法語』
快川出生地   出 典
• ▽ 葉栗郡門間村 『笠松町史』・『弘濟寺過去帳』
• ▽ 葉栗郡足近村 『嵩福寺文書』「嵩福寺由緒」
• ▽ 加茂郡飯地村 八百津町和知出身の渡辺郁郎説
二、史料による出自
• ▽ 弘濟寺過去帳メモによる系図
 道家左京進………  弥太郎
   快川紹喜
 横山氏は「嵩福寺の物堂和尚が、快川を斉藤氏の出身としたのは、斉藤氏の重臣の出というのを誤聞したのではないかとも考えられる」としている。
 快川紹喜の出生年次については、
 『恵林寺略史』によれば、快川は文亀元年(1501)あるいは文亀二年の生まれとあり、天正九年二月に記した語録『見桃録』には「武田信玄母の心月珠泉大姉十七回忌の仏事法語(永禄十一年)」、天正九年(1581)跡部勝資に与えた道号とそれに因む法語が写し加えられている。云々
 永禄七年(1564)十一月に快川が恵林寺へ再住した際の入寺法語には「黒き沈水となって五十二年」と自ら述べており、逆算すると永正一年(1513)にはじめて黒染めの衣を着て僧となったことが確認できる。明応六年(1497)の出生であれば、満十六歳での出家となり、少し遅い入門の感がある。従来の説では十二歳の入門となり、説得力もある。云々
 『増上寺史料』によれば、「快川紹喜国師成の時書上」によれば「姓源氏尾陽人、幼而奇逸、七歳入濃陽之嵩福得度、三十而立、五十而奉先皇勅出世、云々」とあり、七歳で得度し永禄七年に五十九歳だったことになる。そして永正三年(1506)の出生で天正十年に七十七歳で亡くなったことになる。云々
 『恵林寺略史』には「快川は諱を紹喜という、幼少時、美濃天衣(てんね) 寺の隠峰紹建について出家した。その後、永正十六年(1519)同門の雲外玄嶂とともに嵩福寺に入り仁岫のもとで修業に励んだ。云々(略)のち、雲外玄嶂が天正七年(1579)三月二日に亡くなり、府中(甲府市)へ来た客からこれを聞き及んだ快川は「雲外和尚の遷化を聞く」との一文を草している。文中で、若かりし頃のことを回顧して快川は、嵩福寺中興の仁岫が言うに、「ある人一人の僧が夢中に出てきて、水をたたえた盆に二匹の竜の子を載せていた」と。その翌日のこと、隠峰が玄嶂が玄峰と紹喜に、仁岫に付属すると告げた。間もなく隠峰 が示寂し、その数日後に仁岫が笑って二人に夢のことを話してくれた。そどて「汝らがミミズになるか僧龍になるかは努力次第である」ともいった。また、後に誰かが「雲外は美濃の南方にあってその門を盛んにし、快川は甲府の東北にあって宗を立てた」と言うのを聞いたと述べている。

 

飛騨の大名 三木氏…(ホ−ムペ−ジ)
…三木氏について
 三木氏は、足利将軍から飛騨の守護として任命された京極氏の代官として、南飛騨(現益田郡辺り)を領した。云々
…桜洞城を築いた三木直頼の墓所
 三木直頼とは、自綱の祖父にあたる人で桜洞城を築いた人です。三木直頼の墓は、三木氏の菩提寺でもある「禅昌寺」に境内でもあります。
臨済禅妙心寺派の東海進出と大円寺(ホ−ムペ−ジ)
 …明叔慶浚長男。甲斐武田家に属す。姉小路家と合戦を続け、各居城を攻め明叔は、益田郡の人で三木直頼の兄である。直頼は飛騨の豪族で京極氏の)被官であったが、主家の滅亡後輝盛は上杉家に属そうとするが、時盛は武田家に属す道を選ぶ。これにより父子の関係は悪化、そのため謙信は時盛を降伏させている。
 永禄七年(1564)、武田家臣山県昌景に攻められ父子共に降伏。(武田の)飛騨攻め、越中攻めの先鋒となる。嫡子輝盛が上杉家への臣従を明らかにしたため廃嫡、家督を三男信盛に、信盛が固辞すると甥の慶盛に継がせようとした。これらの動きを警戒した輝盛により天正六年(1478)云々
大円寺(明覚山) 4、臨済禅妙心寺派の東海進出と大円寺(HP)
  …妙心寺竜泉派系譜…
 関山彗玄…(略)−雪江宗深−早川宗隆−景堂玄訥−明叔慶浚−希菴玄密
 明叔は益田郡の人で三木直頼の兄である。直頼は飛騨の豪族で京極氏の被官あったが、主家の滅亡後南飛の新勢力を得、禅昌、円通の仏舎を営み、恩威竝び行われた。
 明叔は幼年時代より家を出て、王龍寺も於て景堂和尚により戒を受けた。景堂を省し精一杯叩求した。かくてついに達得し、その法を嗣いだ。
 大永年間(1521〜27)遊歴して甲州に至り荒廃した恵林寺を中興した。また飛騨に帰り三木直頼の招きによって龍沢山禅昌寺を再興始祖となり翌二年京都に出て妙心寺に出世した。(略)天文十年(1541)愚渓寺に移り、尾州瑞泉寺、妙心寺さらに大心院おいて天文二十一年(1552)遷化した。
明叔慶浚 『延傳』「三十」…『武田信玄傳』(広瀬廣一氏著)
幻依累堂歳過志学雲遊東西博絲経策、−−堂命居大心院(妙心寺塔頭細川政元創立、幽斎中興)奉詔出世妙心、過三日 退鼓、遊甲之慧琳久荒落一□翕然、未幾百度共復舊觀、海衆推崇為中興之祖、移濃之愚渓度如慧琳、檀越景前 遠山氏  大円入寺上堂−−天文乙巳春住尾之瑞泉−−天文二 十一年(1552)八月二十一日化
円蔵院殿肖像記(恵林寺略由緒所載希庵玄密記)
  『武田信玄傳』(広瀬廣一氏著)
 (略)豆州太守(穴山信友)以甲州河内為食邑、天文辛丑(1541)之
 秋吾列機挽留之暫天輪精舎(天輪寺身延下山村、寂室元光開山穴山信介開
 基也)有日一日献倭歌需執師資之禮老漢授法諱日、義鐵且亦書劍江二大字
 雅其號、云々
三木家系図(桐山力所録)(飛騨遣乗合府史傳所載)
綱良
 源正頼−重頼 明叔和尚(禅昌寺住元重頼二男男濃愚渓寺開山)
直頼
禅昌寺
 三郡隣地明細帳に益田郡中呂村永和三巳年(1377)開基
 京都妙心寺末禅昌寺一除地 一町五反一畝二十二歩高三石二斗四升八合
 明叔録三巻あり、
   《 調査報告 》快川紹喜


.

過去の記事一覧

山梨の歴史資料(北杜市)
山梨の歴史資料(北杜市)
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事