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小兵にて信長の大軍に向う
天正元年(1573)三月、晴信服を中原に建てんと欲し、先づ岩村城を攻む。織田信長、一万二千余人を引率し、大斥候(おおものみ)の如くに打世たり。信房は手勢相備、真木島に多く残し置きければ、歩騎僅八百余にて出けるが、只今打出でしは、当時天下の武将、織田信長とこそ覚ゆれ。天下泰平の物始に、信房が手並を見せんと言ふ儘に、一万余の大敵に、八百余人を魚鱗に立て、少しも猶予の気色なく、真一文字に突掛れば、信長、信房、追撃騎馬三騎歩卒三十七人打取り、軍勢を引湯げ、備を堅めたる形勢、天晴絶倫の挙動哉と、敵も味方も、大に感称せり。
七月、徳川の兵長篠を攻ること急なり。信房等後援す。信房、軍を隘路に屯して、武備厳重なり。容易に攻ること能はず。依て誘引出して伐つべしと兵を伏せ、所々に松葉を積み、烈風に乗じ火を放ち、陣営を焼払ひ、兵を退るの状を為す。小山田兵衛尉信茂・穴山伊豆守信良入道梅雪梅雪等の手より、焔の起るを見て、追撃んと、五騎三騎づつ馳出づ。信房、兵士を止めて曰く、我此烟を見るに、其色白し。決して陣を退るの烟にあらず。収敢へず、是必ず奇計ならんと言て動せず。果たして小山田・穴山の土卒、伏に逢へり。
九月、勝額遠江を侵す。帰陣の時、徳川家康、掛川の城代石川日向守に命じ、勝頼を鳥銃を以て入坂の切通にて狙撃させける。信房之を見出し、狙ふ者三人の内、味岡と云ふ者擒(とりこ)にせり。
信房、我今年まで三十一年の間、甲・信・飛・越・上・武・遠・三等の切所々々危き所に、心掛け候ひしが、其分別当り、若き勝額公を空く成し申さず候と言ひしとぞ。
信房、駿州田中に在城の時、栖楼に登り、其栖楼より見ゆる処の村々へ人を遣はして、自然敵出たる時は、何の村は何に火を何にと立よ。火事杯の時は何せよ兼々定めさせ、栖楼に登りて我座を定めて、そこそこの柱に割(きざ)みをして置き、夜中にも何事と言へば、彼栖楼に登りて、数の割みを見て、知らぬ顔にて居たり。敵は大方出間敷、何村の火事たるべし、人を遣はして聞けば案の如く火事なり。諸人不思議の思を為せりとぞ。
五つの目付
信房に、若き侍五七人して、何ぞ後学に成るべき事を語られよと言ければ、信房、剛勇と臆病とにて、功名不覚はあることながら、一ツは心掛にて候。某若き比より、五ツの目付を致し候が、夫よりしては、余り不覚を板たることはなく候。其五ツはと言へば、信房、
一ツには、敵より味方勇みて見ゆる日は、先を争ひ働くべし。
味方臆して見ゆる日は、独進て犬死して、敵に機を付るか、
去らずば抜掛の科を負べし。
二ツには、物数ある味方の士に便り頼み、其人を手本と為し、其人に劣
らじと働べし。
三ッには、敵の冑の吹返俯き指物動かずば、剛敵と知るべし。
四ツには、槍の穂先上りたるは弱敵なり。穂先下りたるは剛敵なり。
穂先揃へたるは長柄数槍なり。長短不同なるは、士槍なり。
士槍に掛るべし。
五ツには、敵気盛なる時は、受て怺へ、衰を見ては一拍子に突掛るべし。
是五ッの目付なりと言ければ、人皆感じあへり。
信房日く、
戦場は千変万化にて兼ねて定めたる事の違ふことあるものなれば、違ふ所に任せて、能く働くを以て肝要とす。定めたる違へば、夫に当惑して狼狽するにより、大なる負にもなり、穢なき首尾にもなるものなりと。
又日く、主人の好き好むことを勧め、聊の諌めをも申さゞる人をば、心を付けて見るべきことなりと。
信房、常に戦場常在と日ふ四字を、壁間に掛け置き、平生の誠(いましめ)とせり。
信房、或城を攻めし時、銃丸適度に来りし故、鹿角の胃を着たりしが、冑を振て下を見れば、鳥銃上りて、一ッも味方の士卒に中らざりしとぞ。
武士を誉める作法
穴山信良、信房に向ひ、徳川家康は、人に勝れて利根なる人にて候やと言ふ。信房、憚ながら左様の御詞を他国の人々承はり候はゞ笑ひ候ひなん。抑々武士が武士を誉むるに、作法定まりあり。
第一に謡舞、或は物を読むに悟りの敏なる人を利根なると曰ふ。父性作とも才智とも曰 ふ。柄又は品の善き人を器川なると日ふ。叉性発とも才智とも日ふ。
第二に坐配能く、大身小身に打合、取成しもあぐまず、軽薄にもなく、質にもなく、如 何にも見事に仕合するを、利発人、公界者と日ふ。
第三に芸つきも無器用に、坐配も仕得ずして、武辺の方に賢きをば、利口者と白ふ。此 人を心掛け者強ね者、仕さう成る者と名付て呼び候。大身小身共に其の如くなり。
箇様に分けて、夫々に名付て言はねば、国特大名杯(など)、合点ならず候。信玄 公若き御時より、御穿鑿あり。曾根内匠・真田喜兵衛・三枝勘解由左衛門三人に仰 付けられて、浪人の参る毎に、右三人先づ其侍を見届け、大々に披露致し候と言は れけり。
放討
信房日く、放討の時、切結びし節に、別人脇より討て之を殺さぱ、定めて殺したる人、之を討しと言はん。去れども是は非がことなり。其故は人の寄り兼ぬるを、抜出て掛る心は勝れたり。其上、人の切合ふ所へ、横或は後より掛りては、掛りよからん。夫れば切合ふ者の手柄は一にて、殺せし者は二なり。又先へ掛りたればとて、科人(とがにん)に手を負はせずして立退くか、又一二ケ所切付けても、続き出る人に渡して、引込みたらんには、後より出る者一なりと。
小山田信茂、信房に何ひ、町人は力の強き者計り手柄をすると思ふと見えて、将隼義教を弑(しい)せし赤松左京大夫満祐を、贔屓の町人誉めて書きたる書に、三百人力と書きたりと言て笑へり。信房聞て、去れば侍が商売の事を談ずるに、左様の不案内なる事多からん。嘸ぞ町人共笑く思ひ候ひなん。其道々に寄りて、家の事になきは、取沙汰笑きものなりと言はれけり。
長篠の役
長篠の役、信房及び、山県昌景・内藤昌豊三人、勝頬を諌めて日く、敵蛍十三方余と相見え候。其上に隣前に三切所を横へ、三重の柵を振て、只籠城の体に異ならず。是れ則ち十七万の敵と戦ふに等し。然るに味方一方余人を以て戦を挑まんこと、存も寄らず。大敵襲ひ来るに及びては、隠遊の術を以て、一と先づ甲州へ御馬を入れ絵へ。信長・家康、後を慕ひなば、信濃の内まで入れ立て、然くして戦を結ばんには、敵大軍なりとも、必ず御勝利ならんと。長坂頼弘日く、新羅三郎義光朝臣より先君まで、数十代の間、敵を見て引龍り給ふことなきに、当屋形の御代に及びて、引籠り給はんこと如何なりと。勝願、頬弘の言を然りとす。
信房又日く、去らば長篠城を我攻に遊ばさるべし。味方手負・死人とも千人に過ぎ申間敷候。子細は此長篠の城に、鳥銃多くして五百挺もあらん。然らば初度の鳥銃にて五百討死、二度日は狼狽して打なるべし。是は手負五百、倍こそ手負・死人ともに千には過ぎ申間敷、其中又手負死人少しは寡きことも候べし。夫を際に御馬を入られ然るべくと。頬弘曰く、味方一騎打るれば、敵千騎の強みと承はるに、今此大敵を引受けながら、味方一千の手負打死は如何と。勝頼又然りとす。
信房又日く、去らば城を攻落し、城の掃除して屋形を入置き奉りて、逍遥軒信連を始め奉り、御親戚の人を悉く後に陣取らせ、総人数は御旗本の先備にして、山県と内藤と某と三頭川を越し、時々迫合して、長陣を張らんには、味方は近き信濃より運漕し、敵は河内・和泉の者あれば、長陣成らずして、終に引き申べしと。頼弘又日く、夫は悪き分別なり。信長程の大将が、徒らに引申べきや。押掛りて戦ふ時は如何と。
信房日く、彼より押掛り来らんには、戦はずして成らずと。頼弘日く、彼に押掛られて戦はんも、此より進みて戦はんも、一つ道理にてこそ候へと。勝頼又然りとし、御旗無楯(みはたたてなし)を誓はれければ、此上はとて、一戦にそ究まりける。
清田の水酒宴
信房等、勝頼が諫に従はざるを悲歎し、武田の家運傾覆の時至れり。生ながら国家の滅亡を見るに忍びざれば、潔く戦死して、国に報ぜん。先づ戦地を一覧して、不覚の名を残すまじと、翌二十日、老臣の人々同道して、共に清田村に至り、地利を考へ、後ろの池に立寄り、馬より下り、床机に腰打掛け休息す。
信房日く、明日の戦は志を必死に決す。卿等を始め、我とても先君の世より、世に忠義を励み、交を厚くせしが、参会も今日のみなり。酒宴を為して、其情を尽さんと思へども、今更に為すべき様なし。幸に此清水を汲み、酒に擬し、生前の別を憎むべしと言ひ、即ち従臣に命じ柄杓を以て清水を汲ましめ、勝間の水呑杓にて一杯を尽し順々に酌替はし、情を尽して帰る。時人是を清田の水酒宴と白ふ。
二十一日信房七百余人を以て閑防の麓を押出し、大宮の前、佐久間右衛門尉信盛が五千余人柵外に張出し、小塚の上に備居たるを見て信房七百余人を二ツに分ち、三百五十人を以て真一文字に突掛り、信盛を敗て、首四十三級を得たり。信房台に馬を乗りあげ、労れたる三百五十人を、塚の後に休ませ、荒手三百五十人を以て、台の上に備たり。信盛は一戦に打敗られて、柵より外に出ざるにより、直に進で一の柵を引破り、又敵を突崩す所に、森川庄造長可(ながよし)・明智十兵衛光秀・不破河内守・徳山五兵術則秀等、信盛を授けて一万余人にて押掛るを信房六百余人を左右にし、真先に進みて突掛り、二の柵に於て敵に当ること既に十三度なれば、皆鳥鉄に中り討死し、朧二百余人に成にげる。去れども少しもひるまず、二の柵に馬を乗入れ二百余人を下知して、悉く柵を取払ふに、敵敢て出合はず、只鳥銃を以て打すくめけるに、二の棚にて打たるゝ者、又百余人なれども、少しも虎口を緩めず。
此時真田源太左衛門信綱・土屋右衛門尉昌次等、是非に引取れと、追々に軍吏を立るにより、信房八十余人の朱に成りしを前後に立て、引退き、又軍勢を休め、三の柵際に至り、前田左衛門利家・野々村三十郎幸勝等が鳥銃の備を迫散す。此時都合九度の駆合に、味方悉く討死す。然れども信房は未だ手疵をも蒙らず、同心被官に向て日く、今朝卯の刻に、打川し時は七百余人なりしかども、今午の刻に及びて、三時の迫合に、僅八十人に討成さるゝまで、汝等信房を見届ること神妙なり。山県・内藤・真田・土屋を始め、各討死したる由、汝等は早く引退くべし。我は御旗本を守護し引退んと言へども、一人も引退かず。
然る所に一条右衛門大夫信竜、信房に向ひ、諸手大将残らず討死と見えて、備乱れ候。此上は怺へても詮なきことなり。御旅本を引退く方然るべく候はんかと言ふ。
信房日く、多分勝頼公も御討死成さるべきかと存ずるにより、我等未だ存命候。御討死なくば、御旅本の退くを見て退き候はんと。此時信竜の同心和田刑部、信房に何て、御肌本の合戦厳しく見え候。散卒を集められ、勝頼君を退け奉られ候へかしと申す。
信房、其時斯る後れ口には、下知も用ひぬものなれば、只忠義には一人なりとも、命を継て重ねての御用に立べし。汝も早く引取れと言ふ所に、徳川の脇備本多忠勝・榊原康政・本多重次以下突掛る。
勝頼少しも騒がず、馬を進むるを、土屋総蔵昌惟、馬の轡を引返し、勝頼を退くる。信房は勝頼に二町計り引下り、残兵八十人を率ゐて、勝頼の旗影の見ゆる程は、敵を会釈し引けるが、猿ケ橋の此方より引返し、浜沢谷の丘陵に踏止まり、
吾は馬場美波す信房と曰ふ者なり。討て高名にせよと、如何にも尋常に呼はりければ、敵十騎計り、四方より鎗付るに、終に刀に手をも掛けず、泰然として首を授けり。昨二十日の夜、跡部・長坂に向て、合戦を勧め奉る各は、自然遁れ給ふこともあるべく候。留め中す馬場美濃は、大方討死すべしと言ひしが、果して然り。是より武田氏の鋒大に衰ふ。
信房、十八歳にて初陣し、一生の武功数知れず、中にも我備に勝れしこと二十一度、諸軍に勝れしこと九度、兵を小幡虎盛、及び山本晴幸(勘助)に学び、軍旅の奥儀を究め、晴信を佐け、意に威を海内に震へり。
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