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生涯を全うした津向の文吉

 列伝に移ろう。
 まず武居吃安五郎。これはかって本誌(『歴史読本』昭和四十二年二月号)に書いたの
で簡単に述べておく。
 吃女こと中村安五郎は東八代郡竹居村に、甚兵衛三男として文化八年(1811)四月
十五日に生まれている。生家中村家はこの地方きっての名家で、父は郡中総代名で、道中
許可馬壱頭を槍壱筋のの家柄である。文政八年(1825)近在の百姓徳右衛門の手首を
ささいなことから切り落としため、追放されて数年後、郡内谷村の人切長兵衛の身内とな
って博徒のスタートをきった。天保十年(1839)二十九歳の時、賭博常習犯として捕
えられ中追放。同十二年に再び捕えられ三宅島に流された。捕えた代官は韮山の江川代官
である。だがすぐに許されて韮山在で江川太郎左衛門の指押下で反射炉をつくった。安五
郎が新島送りになったのは嘉永四年(1851)二月、それから七年目に彼は島破りをし
て故郷に舞い戻った。それから五年目に捕えられて石和牢内で毒殺されている。
どもりで短気だが、それだけに曲ったことがきらいだったという。博徒のくせに曲ったこ
とがと云うのも妙だが、「どどっとどもれば人を斬る」はそうした性格をみせた云い伝え
である。素朴で甲州の風土を一番よくみせた男である。
 黒駒の勝蔵は天保二年(1832)吃安の隣村黒駒村に生まれた。これも名主小池古左
衛門の伜で、後年、吃安在島中に、竹居一家の子分になった。
 『次郎長伝』でみると、勝蔵はまったくの悪者になっているが、この原典の『東海遊侠
伝』は養子の天田五郎が次郎長の自慢話をを書いたものだけに、一方的なみかたである。才気があって情にもろい。喧嘩上手で横をみるに敏といったところが身上のようだ。後
年、吃安の仇犬上郡次郎を斬ってから急に名が出た。幕末に官軍に加わって赤報隊に所属したが、明治四年脱走の罪で捕えられ、甲府で処刑された。
 勝蔵のことについて、『次郎長伝』では勝蔵は黒駒党と称して、甲州は勿論、三州一帯
の一大勢力であったと大風呂敷になっているが、良く空調べてみると、せいぜい二十人の
身内で、その勢力下にあったという伊豆の大八以下の親分たちは、単なる朋輩に過ぎない
ようだ。
 祐天仙之助は三井の卯吉の子分で、勝昭一帯を縄張リにしていた男だが、後年新選組に
加入、山本仙之助となって八番隊の伍長になった男である。ところが同輩の隊士大村達夫
が、かつて甲州で殺された実父桑原雪助の仇と知り祐天は斬り殺されている。
 この祐天伝には、劇的ないくつかの挿話があって、なかなか面白い動きをみせた男であ
る。その行動や考え方に、博徒とは思えないような近代的な感覚がある。
 吃安、勝蔵、祐天を始め三甲州博徒の最期は毒殺、刑死、惨殺と悲惨である。だがその
なかで、妻子子分にあたたかくみとられながら死んだ大親分に津向文吉がある。
 彼は文化七年(1810)西八代郡津向村に生まれた。生家は宮沢姓で、現在、旧屋敷
跡があるが、それをみれば生家がかなりの旧家であり、経済的にも豊かだったことが推察
できる。
 『次郎長伝』では、甲州の博徒が全て無頼非道で、しかも蛮勇鬼畜のような男たちにな
っているが、こと津向の文吉のことだけは、一さいふれてはいない。
 文吉の曽孫孫伊藤映二氏の話によると、文吉が、八丈島から放免になった時は母の定が
(文吉の娘)が二十際の折で、迎えに来た次郎長の子分と一緒に、清水まで文吉を迎えに
いったそうだ。
 これをみても次郎長と文吉は、かなりの深い親交があったようだ。
 性格も気性ははげしかったようだが、博奕打、にはめずらしく思慮分別をわさまえた、
知的な臭いをただよわせた親分であった。現存している文吉の字も達筆であり、真疑はと
もかく辞世さえのこっている。
 讃州の日柳(さなぎ)燕石と文吉の二人、どうも定石通りの博徒とは云いきれない感じ
である。「渡世人は畳の上では往生出来ねえ」とイキがって妻帯しなかった吃安や、はっ
きりした正妻を迎えなかった勝蔵や祐天たちと違って、かれは三度も妻を迎え、沢山の子
供をつくった。
 史家の今川徳三氏の研究によると、文吉が八丈島に流されたのは嘉永二年(1849)
四月である。それ程苛酷な島の生活ではなかったようだ。原因は吃女との喧嘩と云われて
いるが、それより常習博奕打ちとしての召捕りであったらしい。今にのこる文奇異写真を
みると、細面で品のいい柔和な老人である。
 「湯向のの文吉鬼よりこわい。火事じゃ着物が焼け残る」
 といった俗謡仙があるそうだが、写真でみた限りではそんな男とも信じられない気がす
る。八丈島には在島実に十年で、明治の大赦で帰郷するまで、鳴かずとばずひっそりと暮
らしていたらしい。
 身延町の外科医の小林一男氏は、八丈島出身の患者が「津向の文話は、島の古老は誰で
も知っている」と話していたそうだ。
 島で云う水汲女を二度目の妻に迎えて、男女それぞれの子供をのこしている。
 もっとも八丈ショメ節というのに、
沖で見たとき鬼島と見たが
来て見りや八丈は情け島
  (家系図略)
 長男栄吉は画家に、定は嫁して一男五女の子をもうけた。文吉の孫にあたるこの子供た
ちはともに長寿で長女のよしが七十歳で没した以外に現在まで九十一歳を頭に八十代七十
代でそれぞれ元気である。
 まつの長男映二氏は、かつては山梨の戦後の新聞界に名をはせた実力者であり、栄吉の
孫に当る宮沢旭氏や、定の孫に当る宮沢一郎氏は県教育界の大先輩でもある。他に教育関
係者も何人かいて、文浩一家の流れは山梨県の教育文化に、多大の影響をもったとは、地
下の文吉親分も苦笑しているかも知れない。
 文古と祐天については、いずれくわしく別稿でとりあげたいうと思っている。(了)

 警察力の無能

 第二に代官行政における警察力の無能ぶりである。
竹居安五郎通称吃安が、島破りして在所の武居村に戻ったのが、安政五年(1758)、彼が捕えられたのが文久二年(1863)である。島の名主を殺し島破りをした重大犯人
を、石和代官では実に九年間も逮捕することが出来なかったのである。
 それも吃安の用心棒で無頼の浪人を、過去の罪を帳消しにするからという約束で、代官
所の味方につけての末である。
 ここで当時の代官所の構成を述べておく。
 代官陣屋は、はじめは甲府、上飯田、石和、三陣屋だったが、天明年間(1781〜8
9)に上飯田が廃されて、代って市川大門に陣屋が建てられた。他に郡内地方の谷村に陣
屋があったが、これは石和代官所の役人が代行していた。また郡内の一部は、韮山の江川
代官所が行政権をもっていた。

 陣屋詰   谷村詰  江戸詰
  甲府代官所  13名  12名   25名
  石和代官所  12名 6名   8名   26名
  市川代官所  12名   9名   21名

この機構人員でも判る通り、約五万石前後の支配地を持つ代官所の役人では、とうてい集
団的な暴力や、多数の輩下をかかえる親分に対しては手も足も出なかった。
 だから一稗の無法地帯の観もある。全国各地から凶状持ちや、無宿者が陸続と流れこ
む。吃安を裏切った用心棒の犬上郡次郎も牢破りして甲州へ来た男である。大前出典五郎
の弟分の英次も、人殺しをした後甲州郡内の博徒の客分になっている。国定忠治も司直の
手をのがれて逃げこんでいる。
 文化から文久(1804〜1863)にかけてが、甲州博徒の全盛期で、各村誌や古老
の云い伝えを総合すると、吃安の子分二千人を筆頭に、一家をかまえた博徒一家が約四十
五、それらの児分を合算すると五万人近い博奕の大集団が構成される。
 これらに対して僅か十人や十一三人の代官所役人が、たとえ決死の覚悟で対したとして
も、事実上どうにもならない。しかも、当の代官は任地に顔を出さずに、専ら江戸の代官
屋敷で指揮をしているのだからなにをか云わんやである。
 だいたい五万石も六万石もとるような領地を、せいぜい三百石か多くて五百石どまりの
旗本に代官として支配させることが間違いだが、同時にまた彼らも、司政官というより甲
州へ島流しにされたような気分で、一日でも端役江戸へ戻るために、懸命にその成績をあ
げようととする。徴租高をふやし、勘定奉行に認められようとする以外に考えないという
代官が多い。勿論、警察権はもってはいるが手が足りない上、代官所の費用が決っている
ので、無駄な動きは一切やらぬのが上策と決めこむ。こんなのがかならず出世するのだか
ら、天領の民百姓はたまったものではない。
 例の「天保水滸伝」で有名な勢力宮五郎(佐助)逮補をみると、代官所ではどうにもな
らず八州廻りがようやく取りおさえたのだが、これとても弘化二年(1845)から嘉永
二年(1849)までかかっている。その間、勢力仕助は深編笠をかむリ、大脇差に鉄砲
といった武装で、子分を常に七八人引きつれて、自由に干潟八万石の間を歩きまわってい
る。逮捕のきっかけは将軍家慶が金原の仰鹿狩で旗本衆、御家人衆、その他約五万人が乗
込んでくるということで、結局隣接地の大名も動き出し、その協力でやっと勢力一党を召
しとったという。国定忠治の場合も同じで、これをみても、如何に当時の代官が非力であ
づたかがうかがえる。
こうした背良景に甲州博徒はそれぞれの縄張りをもった訳だが、当時の代官所では毒をも
って毒を制すという方針で、一種のなれ合い政治を行なっている。一つの例が目明しと称
して、十手とり縄をあずけて、代官所の手先を代行させる徒輩である。三井の卵古が甲州
では代表杓なものだ。博徒の親分兼捕吏である。だから吃安、勝蔵、文吉クラスの輩下
で、代貸しや火場所の責任者程度の中堅博徒が柑当数この目明し役を引うけている。これ
では強盗や火付ぐらいは逮捕出来ても、博徒の親分に縄をかけることは不可能に近い。
 ところで、いくら警察権の弱い天領でも、法度の博奕業というものは通らない。だから
本質的には専業博徒でも表向は職業を持っていた。
 竹居安九郎、黒駒の勝蔵、津向の文吉、天野開蔵、人斬長兵衛は農業、三井の卯古は料
亭主、その上半生近くは人別帳にのっていて、無宿におちたのは、牢入り、島送り以降の
場合が多い。
 さきに吃安子分二千、全盛期の博徒五万といったが、これはあくまで盃をもらった形式
的の子分の数で専業の子分は僅か二三人、多くて七八名どまりである。他は近在の百姓や
職人、お店者でれっきとした人別帳にのった素人が多い。勿論、親分の手前賭場にも顔を
出し、なにかの時には長脇差を腰にして駆けつけるのもいるが、おおかたは盃を貰ったこ
とで、白分の職場や、権利を保護して貰うための処世上の手段であった。
 理不尽なことをもちかけられたり、暴力でおどされたりする場合は、彼らは決して代官
所に訴え出ない。徴貢で精一ぱいの役人たちは、村のごたごたや、暴力沙汰にかまってい
るひまはない。なんといっても頼りになるのは盃を貰った親分である。
 親分も自分の在所は特別に気をつかって、非道な暴力沙汰は一さいしなかった。吃安も
勝蔵も文吉も長兵衛も、その出身地での悪評は殆ど聞かない。
 勿論、彼らはそれぞれ何人かの男を斬っている。だが決して自村や近くの素人衆ではな
い流れ者の無宿者が、自村の娘をいたずらしたとか、縄張り内で無断で盆を開いたとかと
いった理由である。
 こうした配慮がそのまま村の人々の心をつかみ、ある場合は一村あげて役人の手から守
り通すといった浪曲や講談で観られるような挿話が生まれるのである。
 だからといって、博奕の親分がみんなそれだとは限らない。元来が無頼の徒輩だ。非情
な暴挙や、理不尽な振舞いをする者が多い。しかし一家をかかえて大親分にのしあがるに
は、この世界でも決して暴力だけでは駄目だ。力だけに頼った者は、一時的にはのしあが
っても、後世に名を残す博徒にはなれない。
 親分になる条件にもう一つある。財力である。吃女を始め、勝蔵、長兵衛、開蔵など殆
どが名土の伜だ。文吉も資産豊かな百姓の伜だ。金がなければ親分にはなれないし、親分
になれば、各地の火場所からいくらでも金を映い上げられる。だから、親分は一趣の資本
家で、何某株式会社の社長である。

 

<参考文献>
 山梨侠客講座
   史料 「甲州やくざ考」
    侠客のメッカといわれる甲州の風
  そこから輩出した侠客の実態


  参考資料『歴史読本』特集 幕末任侠伝
   昭和46年3月特別号 所収
 竹内勇太郎先生著

 幼年期の見聞

 大正の末期の話である。当時、私の家は甲州の東山梨郡七里村下塩後(山梨県塩山市下
塩後)という処に住んでいた。蒸気機関車の停車する中央線塩山駅から、西に約三キロ、
純然たる農村地帯の一部落である。
 この部落に楠次郎という老人がいた。深い皺を日焼した顔いっぱいにみせて、枯木のよ
うになえた近在の老人と違って、色白で堂々たる恰幅の上に、柔和のうちにも気品のよう
なものがその顔にあった。
 道などですれ違った幼い頃の私などに、楠老人は親しみのある微笑をうかぺて、くった
くなく話しかけたものだ。服装も常に絹か上質のつむぎの着流しで、たまさか野良着にな
って畑に出ても、終日働くという訳ではない。趣味の農作業といった感じである。家屋敷
も堂々としていて、ずしんとした感じの屋根瓦の母屋は、当時としては名家らしい格式の
なかに、モダンな風雅さというものを感じさせた。
 楠家は名家であることも事実で、現社会党の代議士の小林信一氏も、たしかこの家と縁
続きになっているはずである。この楠老人に対する村人たちの態度は畏敬の一言に尽き
る。村長でも村議でもないこの老人に対して、村人たちは素朴な尊敬と信頼のようなもの
をみせて、冠婚葬祭や村のもめごとなどのたびに、この老人のもとを訪れていた。
 村人たちはこの老人のことを「親分」と呼んでいた。勿論、地方農村における地主対小
作人、あるいは旧本家に対する分家などによるマキとして親分子分のそれとは異質であ
る。つまり、博徒の「親分」としての呼称が、楠老人に奉られていた訳である。
 この老人が明治の末期から大正の始め頃にかけて、甲州きっての大親分であったこと
を、ずっと後年になって私は知った。もっとも私が老人に接した頃は、一家を解散して悠
々自適の晩年だったが、この楠老人の印象は、「凶暴無頼の博徒」というものを、別の観
点からみつめようとする姿勢を私に与えたような気がする。
 ところで、その頃、私の隣家に、日原某という繭の仲買人が住んでいた。なかなかの好
男子で、あいそのいい腰のひくい人だった。妻君の方も粋な感じの美人で、幼い頃の私が
お使いになど行くと、当時としては高級のカステラなどを半紙にくるんでくれた。
 ある午後、私が家の前で遊びほうけていると、突然、十二三人の刑事がこの日原家を襲
った。事情が判らずあきれかえってみて、いる私の前に、次々に近在の農夫や、商店主た
ちが、後手にくくりつけられて出て来た。日原夫婦も勿論である。寨博突の現行犯として
の逮捕である。
 それから二三ケ月たって、塩山駅の近く菅田天神社の横で、殺人事件が起きた。賭場で
イカサマがばれての、博徒同士の喧嘩の呆てである。大正末期、私が幼年期に暫く住んで
いた甲州七里村の一時期の見聞録である。
 これをみても、いかに甲州という土地柄が、博架あるいは博徒に深いかかわりを持ぢ、
つい先頃までその命脈が保たれていたがが判ると思う。

  博奕を利用した信玄

甲州の博突の歴史を考えてみると、相当古い時代までさかのぼらなければならない。
 『吾妻鑑』に双六は武士だけは許可するが、下臈は禁止するということがあるが、当時
の記録には陸奥、常陸、下総が最も盛んで、他に甲州、美濃、上野がこれに次ぐとされて
いる。最も当時の博突は、双六局(盤)に中央に一条の道を設け、その左右に十二目をつ
くって、これにおのおの白黒の駒(馬という)をならべ、筒に入れた釆二個を投げて、そ
れによって駒を動かして勝負を決したというのだから、賽の目に命を張ったといった殺気
をみせる賭場風景ではなく、遊去の一つの形式でもあったようだ。甲州で博突を一つの目
的として利用した人に、乱世の英雄武田信玄がいる。勿論、武田信玄が特に博突を好み、
率先して行なったという訳ではない。あくまでも戦略的にこれを利用したにすぎない。
 乱世の武将が戦略上その謀諜機関として、所謂忍者というものを最大限に利用したのは
周知の事実である。
 北条の風馬党、上杉の素波、そして武田の乱波。
 もっとも信玄直属の忍者には、世に云う乱波以外に三ツ者と呼ばれる一団があった。乱
波は所謂山岳民「山窩」を中心に組織する直截的なスパイ団であり、三ッ者は士分や農民
でも多分に知的な才覚のある知能集団である。
 …博突を弄して敵の腹中に入る…
 というスパイ術が、この三ッ者の手段であった。映画やテレビでみる忍者は、男装束に
黒覆面、かずかずの忍び道具を持って現れるが、現実のスパイ活動は、とてもそんな芝居
ごとでは出来ない。旅の塩売、薬売、旅医者や旅芸人や山伏など極めて平凡な市井の徒輩
としての肝常活動が、結果的にその謀諜目的に結びつくのである。当時の武将の家臣団の
組織は、親族衆や譜代の被官が直属、その下に有力家臣団があり、その家臣団の鉗地にあ
る農民が卒として参加している。この農民兵に,接近した三ッ者が、短期間に深い親交を
持つ手,段に賽の目が利用された訳だ。
 寺銭という言葉は、荘園地代に寺社が主催して、公然と賭場を開いて場銭をとったこと
がその語源だが、それでも判るように、戦国時代は全国的に博突が行なわれていた。
 『北条五代記』などをみると、乱波と忍者と博徒が同意義にとらえられている。
 現代でも得意先の接待や、上役のご機嫌とりに麻雀の卓を囲むが、賭ごとを通じての交
わりとうものは二不思議に相手の警戒心をとり去って、一種の仲間意識をかきたてる。
 こうして武田忍者たちは、給指揮官、「諸国後使者衆」の指令のもとに、雑兵を相手に
三寸三分に切った竹筒に賽を投げこんで、三河や美濃、信濃や相模に巧妙なスパイ活動を
続けた訳である。

 博徒輩出の原因

乱世が終り、徳川幕府の全国統一となったが、この頃からようやく全国的に本格的な賭場
や、準専業の博突うちが輩出して来た。勿論、甲州でも盛況を極めたのは当然だが、これ
に輿する古文書が殆どないので、江戸初期から中期にか一けての、甲州博徒の動静や個々
の人物像などは定かでない。
 ただ慶長年間(1596〜1615)江戸随一の顔役だった大鳥逸平が鈴ケ森で刑死し
たのち、全国的に大鳥党の大検挙があり、甲州でも二十余人の博徒が捕えられたという記
録がある。また侠客などといわれている口入業の博徒幡随院長兵衛の子分で篠原の佐兵衛
というのがあるが、「出生は甲州西郡在云々」というので、多分今の中臣摩郡竜王町篠原
出身らしい。
 この時代には専業の博徒という者はいない。職人とか仲間とか百姓とかが職業の余特に
所謂博奕を打つという程度で、またそれだげに何某一家の大親分というような人物は出て
いない。これは江戸幕府の権威が、名実ともに備わって、法度に対する摘発や断罪がかな
りきびしく行なわれた結果である。
 甲州博徒の大親分ガ輩出拙しはじめたのは、幕府の行政がようやく行き詰った天保年間
(1716〜26)以降である。明治初年に出された「近世侠客有名鏡」をみると関東を
中心とした博奕百五十名が勢ぞろいしている。東大関が信夫の常吉、西方が丹波屋清兵
衛、以下関脇が大庭の久八と大前田英五郎、前頭筆頭が国定忠治と小金井小次郎といった
ぐあいで、甲州出身者は前頭三枚目に武居の安五郎、五枚目に身延の半五郎、それに続い
て黒駒の勝戯、祐天仙之助、少し下って甲府の玉五郎、伊沢の万五郎、三井の卯古、伊沢
の虎五郎、鬼神の喜之助、小天狗の亀吉と続く。ともに甲州の親分は百五十人中上位であ
る。・更に別格で清水の次郎長とならんで甲州谷村の人切長兵衛がある。もっとも新門辰
五郎や幡随院長兵衛が同じく別格で顔をならべているので、時代的のズレを無視した一種
の人気番付とみられる。
 上州とならんで博奕の大親分が、どうして甲州にかくも台頭したのかということだが、
これは一にも二にも、曲り角にきた幕府の権威の失墜とその無力にある。
 天保十二年(1824)徳川幕府の歳出入を見ると、歳入百十万千四百四十五両、歳出
百六十三万五千三百八十八両で、差引約五十二万四千両の赤字である。勿論、赤字はこの
年に始った訳ではないから、累積赤字は何千万両にも及んでいた訳だ。当然なことだが譜
代、外様に限らず国持大名もその台所は火の車だ。名目をつけて金を大名からということ
も不可能である。しぜん、そのしわ寄せは幕府の支配地、所謂天領に向けられた。
 景も天領の宿命とでも云うのか、領民第一に考える国持大名と異って、代官行政はとか
く代官自身の点取主義、出世主義におちいるので苛酷な貢租の取立が行なわれる。
 延宝九年(1681)七月に大野村、神沢村、石村では地頭の山上五郎左衛門の非道ぶ
りを訴えている。この時の本年貢のかけ方をみると、

   御取カ五ツ六分ニテ御座侯トコロニ
   五郎左衛門御壱人年々御高免二仰セ
   付ケラレ九ツ三分二召上ゲラレ…

 側取カは、御取箇で租額、五ツ六分というのは租率で、「免幾ッ何分何厘何毛」と唱え
る。つまり免一ツは石高一石に対して租米一斗を意味する。石高は村高ともいわれて、検
地の結果によって決定されるが、この石高に免の率を乗じて御取箇が決定されるのであ
る。江戸中期天領にれける租率は、最高六ツ三分、最低一ツ五分、平均三ツ四分で、享保
以降は普通四ツであった。ところが文意をみると、
 五郎左衛門は御高率で(高厘)で九ツ三分(九公一民)という驚くべき高率をかけてき
たのである。(上野靖朗『甲州風土記』)。
 この時も逃散百姓が多く出たが、これらは再度帰農は許されなかった。
 これが幕末になると更に酷くな、って、各地で苛酷な石代のために逃散、娘売り、出稼
ぎ勿論、中井清太夫のような名代官も出たが、もともと幕政官体が財政的に追いこまれて
いたので、余程のことでないと天領民の訴えに耳をかそうとしなかった。
 元来が甲州は地味の豊かでない痩地である。山岳が多く当然ながら、田畑の一戸当所有
率も少い。だから二男三男は、他家に婿入りするか、一生生家で居候として作男同然に暮
すしか生きる手段はない。行政権の行届いた大名領を追われた無頼の無宿者が、代官行政
の警察力の弱い天領に流れこむのは当然である。これらの無宿者と、圧政下にあえぐ百姓
業にみきりをつけた二男三男の徒輩が結びついた。
 貢租を収めかねて逃散した百姓たちも、同時に無宿者となった。
 だから甲州博徒の隆昌は、こうした幕府の末期的な行政の在り方にその因を発したとみ
ていい。

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