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山梨歴史講座 古代駒牽の行事について
最初に朝廷の行事の中で御牧(勅使牧)に関係する駒牽行事について調べてみた。思っ
た以上に格式のあるもので息苦しささえ覚える内容である。序文でも触れたが甲斐の御牧
に於ても朝廷内の馬寮に於ても甲斐の人々が活躍していたのある。
駒牽行事・儀式の流れ(甲斐御馬)
駒牽の儀式とは、御牧(天皇直轄の牧場)から奉納された馬を天皇がご覧、その後分配
する。左衛門陣に左近、右近府と左右馬寮の関係者が集合する。左衛門督が御馬解文(馬
の毛並み、数等を記入したもの)を検閲して主上に奏覧する。天皇が仁寿殿へ出御。牧監
と左右近衛府番長以下が馬を日華門より入れて、庭中を三回巡る。左衛門督の命により騎
乗して、七八回廻る。その後馬の分配。左衛門督臣が、左近衛府、左馬寮、右近衛寮、右
馬寮に分配する。さらに左右近衛中将、少将、左右馬寮頭助が一頭づつ取る。
御牧の概要
『日本書紀』の天智天皇七年(668)七月の条に、牧を設置して馬を放った記述がみ
え、『続日本記』文武四年(700)三月の条に、諸国に牧地を定め、牛馬を放ったとあ
る。大宝令《大宝元年(701)》の厩牧令の規定によれば、牧場は垣根囲い、牛馬の逸
出を防ぎ、外部からの危害から守り、水草地を選んで選定し、全国の牧は兵部省管下の兵
馬司が諸国司が国内の牧を管理して、牧は牧長・牧帳を設置、その管理下の牧子が実務に
従事した。百頭を一群とし牧子二人をつける規定となっている。百頭につき六十頭の割合
で増殖することを標準とし、牧馬は四歳で子を生むものとした。また牧馬の用途として
は、乗用に耐えるものは当国の軍団に給付して軍馬とし、他の馬は雑用に使役したり、民
間にも払い下げていたようである。 他の資料も紹介すると、
一、「年中行事障子文」《仁和元年(885)三月二十五日》
八月 七日 牽甲斐国勅使御馬事。
八月十七日 牽甲斐国穂坂御馬事。
一、『西宮記』「改定史籍収攬 編外」巻八 《十世紀半ば成立》
八月 駒牽事 付大庭儀 雨儀
七日 牽甲斐御馬事
主当寮以解文進外記。外記申上卿。上卿以蔵人奏聞。不出御者。
於大庭分取如前。逗留延期之時。又可申解文。史申見参大弁。
大弁、申上卿奏聞。留御所。或被延期逗留之旨。
駒牽次
四歳以上天長格云。上野・信濃・各有牧監一人。甲斐・武蔵各別当。
交替式云。監牧歴六年。遷替准国司。
八月 七日 甲斐真衣野・柏前卅疋。元五十。左主当。
十三日 武蔵秩父廿疋。右。
十五日 信濃諸牧六十疋。元八十。左。
十七日 甲斐穂坂廿疋。元卅疋。左。
二十日 武蔵小野〓疋。右。
廿三日 信濃望月廿疋。元卅疋。左。
廿五日 武蔵由比小川石川六十疋。元五十疋。立野廿疋。右。
廿八日 上野諸牧五十疋。櫪卅。繁廿。右。
一、「年中行事」《賀茂氏人保隆所伝。永延元年(987)以降の成立》
八月 七日 牽甲斐国真衣野柏前勅使神馬。廿疋。
若逗留者、左馬寮進留逗留解文。留御前。
十七日 牽甲斐穂坂御馬事。廿疋。
一、「師遠年中行事」《中原師遠著、〜大治元年(1130)卒》
四月廿八日 駒牽事(小月の廿七日)
八月 三日 牽甲斐国御馬事。
七日 牽甲斐国勅使御馬事。御馬逗留解文事。甲斐勅使牧。
十七日 牽甲斐国穂坂御馬事。三十疋。
廿八日 牽上野国勅使牧御馬事。五十疋。
一、「師元年中行事」《中原師元著、安元元年(1175)卒》
四月廿八日 牽駒事。
一、「年中行事抄」《建保二年(1214)五月七日の宣旨あり。それ以降》
四月廿八日 牽駒事。清涼記。於南殿有此儀。
八月廿八日 上野勅旨諸牧駒牽事。引進御馬之時。於南殿有此儀。
一、「師光年中行事」《本云。文永元年(1264)九月廿九日。
以大外記。中原師光朝臣本染老筆畢》
四月廿八日 牽駒事。近代不行之。貞観年中(864〜876)に始之。
一、「小野宮年中行事」
八月 七日 牽二甲斐国勅旨御馬一事。
十三日 牽二武蔵国秩父御馬一事。
十五日 牽二信濃国勅旨御馬一事。
天皇解文御覽ノ後ニ南殿ニ出御アリ。御馬ヲ牽キ庭中ヲ周ル三回、若シ日暮レバ或ハ一
回シテ三度ニ及バズ。左右遞ニ之ヲ取ル、其数ハ馬ノ多少ニ随フ。八十匹ナレバ左右各十
五匹、六十匹ナレバ十匹、五十匹ナレバ六匹、卅匹ナレバ五匹。親王以下ニ給ル。左右又
進デ残馬ヲ取ル、或ハ相加エ先ズ御馬ヲ取テ鞍ヲ置テ前庭ニ於テ騎馳セシム、月華門下ヨ
リ日華門外ニ馳ラスコト延喜九年(909)ノ例也。今日若延期ヲ申シ他日牽進セバ、當
日早旦使ヲ遣シ、親王等ヲ召ス、雨儀ニハ御馬ヲ庭中ニ周サズ、又騎ラシメズ ヲ承門ノ
東西南廊ニ立テ、牽者壇上御馬ノ南面ニ在リ。云々
他の資料もあるがおおよそ似通っている。こうした文献は豊かにあるが、甲斐に残され
た資料はなく、その貢馬を都に届ける道程や日数など通行や使用道路等の資料は少なくか
っての中央遺跡から発見を待つしかない。当時甲斐は東海道内の国として『延喜式』(9
27年)では国司などの使用する「諸国駅伝馬」の条には甲斐国駅馬として「水内−河口
−加吉」を経て甲斐首府へ入るように定められていた。しかし甲斐では古来より「加吉」
は「加古」の誤記であり、加古は加古坂に比定し、しかも中央から下る駅順を「水内−河
口−加吉」でなく「加古−河口−水市」の間違いとして定説化が進んでいる。なぜ駅順が
逆なのか、なぜ「加吉」が「加古」の間違いなのかはその根拠には言及されていない。
「嘉吉」は歴史研究者の避ける『宮下文書』の地図には明確に記載されている。「河口」
や「加古坂」の地名が『延喜式』が制定された時代に存在したのかは説明がなされていな
い。また研究者が避けていることがある。それは富士山の噴火と古道の関係である。噴火
の最中やその周辺の年代に京都往還に富士山麓の道を大切な庸調を運び、自然界の異変に
敏感な馬の通行に利用したのであろうか。多くの疑問がある古代古道は、曖昧なままに市
町村誌などや歴史書に史実のように紹介されている。
さて御牧で育てられた御馬はその生産地を示す焼印を押す事になっていた。次にその資
料を示す。
一、「烙印』《政事要略廿三》
牧場烙印の数々………政事要略二十三云、
八月十五日 牽信濃勅使御馬事。
(○○此中有十五牧、左官字、諸牧六十、元八十)
山鹿、塩原、岡屋、宮處、平井弖(出)、殖(埴)原、大室、猪鹿、大野、
荻乃倉、笠原、高位。
十七日 牽甲斐穂坂御馬事。 (左 栗字三十、令二十)
二十日 武蔵小野御馬。 (右 字四十)(承平元年十一月七日為勅旨)
廿三日 信濃国望月御馬事。 (延喜五年五月九日、官符左牧字二十、元三十)
廿五日 武蔵勅旨牧竝立野牧御馬事。
(是日分取御馬先取由比石川、
小川等牧御馬畢、更次取立野馬)
右官字五十、(後加、十)元十五。
廿八日 上野勅旨御馬事。
殿上侍臣竝小舎人隔年給之小舎人不拝、左小舎
人牧ノ官字諸牧五十、(櫪三十、繁二十)
利刈、(有馬、治尾、拜志、久野、市代、
大藍、鹽山、新屋、封有、小栗田、平澤已上十
四牧)
駒牽の動向については次の資料がある。
一、「年中行事大観」《御本云、此本一条殿(1402〜81)兼家公御筆也。
八月 駒牽。十六日に信濃の国勅旨の牧の御馬みやこへ入侍るを。あふさかの関へゆき
むかひて。これを受け取りて。大内の大庭にして。上卿など列立して、おのおのこれを給
り。あるひは院東宮などへまいらせるゝをば。近衛の中少将これをひかえてまいるを。引
分の使いといふなり。定家卿の又□わ□もち月の駒とよみ侍るも。引分の使をつとめし時
の詠也。
又御馬逗留の解文を奏する事あり。それは御馬事のさはりありて。路に逗留して。その
日は京へまいらぬよしを。解文にして申事也。この月七日には甲斐の勅旨の牧の御馬逗留
のよしを申す。十三日には。武蔵秩父御馬廿疋逗留のよし申す。
又十七日は。甲斐の穂坂の御馬逗留のよしを奏す。廿日にはむさしの小野の御馬逗留の
よしを奏す。廿三日には。しなのゝもち月の御馬逗留のよし申す。廿五日には。むさしの
立野の御馬逗留のよし申す。廿八日には。上野の勅旨の牧の御馬五十疋逗留のよし申す。
ちかごろは十六日こまびき儀しき。かたのごとくおこなはれる。左右馬寮より一二疋た
てまつるばかりにて。さらにその実なし。此牧々の名所は。駒引の題などはいずれをかよ
み侍るべきなり。
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