過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

歴史川柳

◎NHK+視聴率+大型ドラマ+地域観光=視聴料金アップ

◎最近の歴史発祥=NHK大河ドラマ・その時歴史は動いた

● 歴史家は NHK出演で 一人前(講演料アップ)



◎戦国武将の知行地=獲った頸の数

◎来年は篤姫 どうする掛川・甲府・八幡原

◎金がない 風林火山を待つ ブックオフ

◎ブックオフ 一番安い 政治家の本

◎ブックオフと題して
 な〜らんだ な〜らんだ 何の本がな〜らんだ
 武田信玄・山本勘助売れ残り本

◎ 高野山 信玄画像は 誰なのか
◎ 高野山 信玄画像は 別人か
◎ 博物館 疑信玄画像で 入場料500円
◎ 博物館 疑市川文書で 入場料500円 
◎ 博物館 生涯学習 かけ離れ
◎ 博物館 建って見れば 無用の長物
◎ 博物館 まだまだ足りぬ 山梨の生涯学習図書館建立
● 歴史家は 資料集めは フリーパス
● アマチュアは 資料集めに 規制と入場料

1)歴史家は 研究書より 売れる本
2)歴史家は 昔から 官庁ご用達
3)歴史家は NHKに出て 箔をつけ
4)歴史界 自由にものも言わずに 消化不良
5)歴史家は 観光行政 いい仲間
6)歴史家は 伝説伝承 史実繰上げ
7)歴史家は 己の間違い 指摘せず
8)ここは右 恩師は左 だから左
9)歴史家は 自著より多い引用文
10)今信玄 戦時中は馬場美濃守
11)歴史家が作る 偽系図と偽史跡
12)観光の目玉に なった大河ドラマ
13)視聴料金 大河ドラマで 請求し
14)勘助の 墓は何処やら いずこやら
15)勘助の 所在を迷わす 市川文書
16)市川家 以外に見えぬ 戦国文書
17)きつつきの泣き声勘助 いや馬場美濃守
18)大量の信玄勘助 ブックオフ
19)大廉売 勘助諸本 リサイクル
20)決め付けて 余情の少ない テレビ歴史
21)信玄も勘助も当分観光お休みに
22)信玄や勘助商品作り替え
23)武田家の知行地歴史家移し変え
24)歴史本 表札代えても中身は同じ
25)遺骨無い 気持ちを埋めて 墓つくり
26)勘助の由来や伝説明治以降
27)勘助五体不自由で戦場に
28)勘助と管助と勘介みな同じ
29)年次変換市川文書
30)歌舞伎の市川 その発祥は 甲斐の市川(ではなく)三珠
31)山梨県文化と歴史の建物だらけ
32)まだ足りない 箱物歴史文化の山梨県
33)博物館 目的逸して 観光物産
34)諏訪の姫 名前を変えられ そのままに
35)勘助も 甲陽軍艦から 大河ドラマへ
36)勘助の史跡や伝承作り物
37)信玄の生まれた里の 山本集落
38)信玄公 なんていうのは 関係者
39)信玄と勘助で稼いで三日月堀
40)きつつきは 「観光観光」と啼く

 ご粗末の一席でした。
 後がよろしいようで!

http://blogs.yahoo.co.jp/yamamotokannsuke2003/20318755.html
 

イメージ 1

柳沢吉保故地を想う。お抱え儒者、荻生徂徠を甲斐へ(参考 「武川村誌」)

 柳沢吉保は、甲府藩主になったとはいえ、幕閣の首班という立場にあっては、自撰の霊台寺(れいだいじ)碑の述べる山川形勝の実地を尋ねることはもとより、祖先発祥の地武川一帯を調べることはできないが、硬文の吋容と実地を確かめたいので、平生信任している儒臣の荻生徂徠と田中省吾にその任務を託したのであった。

 当時祖株は柳沢家に出仕以来満10年で年齢は四十歳、儒学におげる評価は、京都の伊藤仁斎に譲らず、吉保も自慢の種にしていた。

 「家の飾り惣右衛門ほどたる儒者は、公儀にこれたき様に思召し侯。」と家臣が記している」惣右衛門とは徂徠の通称である。

 当時、徂徠の右に出るほどの儒者は幕府にもいないと評価され、柳沢家の飾り(名誉の象徴)といったのであろう。

 大小の諾侯が辞を卑くし幣を厚くして招くのに一瞥も与えたかった徂徠が、吉保の求めには欣然として応じたのである。

 「士は已を知る者のために死す」という、徂徠は、吉保において知已を見出した。
 吉保の命を受げた徂徠は、僚友田中省吾と宝永三年(1706)九月七目(太陽暦十月十三日)に江戸藩邸を出発、甲州賂に向かった。

 初夜は八王子に泊り、
 八日、小仏峠の瞼を越え、鳥沢で日は暮れたが闇中を強行して猿橋に到り、松明の光りで奇橋の奇たるゆえんを確かめ、猿橋に宿った。

 九日、笹子峠を越えて勝沼の葡萄を賞味し、石和駅に急いで主君の祖五郎旧光公の旧荘を訪ねようとしたが、既に目が暮れて果さず、石和宿に泊り重陽の節を祝った。

 十目、甲府に入り、州大夫(城代柳沢保誠)に面会レ、藩主の命を伝えて城中を巡視し、その壮麗に驚き、天守台に登臨し、城外四方を展望し、霊峰富岳をはじめ山川1を眺め、

 十一日、旧府城(現武田神社)に機山公の英武と雄図を偲び、城跡の質素なるに驚き、「人を以城桝となす」機山信玄の真意を解したという。

 ここから東に足を運んで藩主「寿蔵の地、霊台寺」の工事現場を巡視の上、宿所に帰着した。

 同夜、城代、沢権太夫保格の邸に老臣以下の参集を求め、藩公親製の「穏女山霊台寺碑」の披露を行った。
 田中省吾が朗読し、徂徠が文意を解説した。一同は藩公吉保の名文と徂徠の解説に服した。

 九月十二目は藩公の祖先発祥の地、武川衆ゆかりの地を訪れる日である。

 甲府を後にし、藍河(相川)、荒川・貢川)を渡り、宇津谷村を経て塩川を越え、韮崎宿に到り仏窟山雲岸寺の仏窟(現在の穴観音)に参詣した上で釜無川の東岸を北行し、
 七里岩の台上に新府城跡を仰ぎ見たがら釜無川を渡り、徳島堰に兵左衛門俊正の遺業を誉め、

 柳沢氏の本家、青木氏の故郷青木村に、青木家歴代の菩提所、「武隆山常光寺」に到着した。

 藩公吉保の伍父兵部丞信俊は、青木家の出身である。

 後年の話にたるが、享保九年(1724)、甲斐より大和郡山へ国替の時、領内の民が年貢米を残らず納めた。
 一般的にいって、国替のようた場合、農民は上納を怠り、滞り勝ちになるものであるのに、吉保、吉里父子は、年貢の徴収にも、農民の難儀にならないように、非道のことのないように、無理強いのないように、検見の時にも農民らに物入りのないようにと、いつも郡代、代官を戒めるので、役人たちも心付き厚く、その結果、このように滞納しないのであろうと、その頃大名たちが江戸城中で噂したと『源公実録』に見える。


 荻生徂徠入峡と吉保

 吉保は、甲府藩主になると、甲府を永住の地と定め、菩提寺を開基することを決意した。

 『甲斐国志』古跡都第八山梨郡北山筋に、「●廃竜華山永慶寺」(りゅうかざん、えいけいじ)の項がある。
 この寺は宝永二年に吉保が自身の寿蔵の所とするために、山梨郡岩窪村の竜華山下に地をトし、山城国宇治の黄檗宗大本山黄檗山万福寺に準じて、はじめ穏々山霊台寺(おんおんざんれいけいじ)の名で開基した禅刹であった。

 したがって、宝永三年に吉保が自撰した碑文の題は穏々山霊台寺と記す。穏々山霊台寺は宝永三年から同七年までの問に竜華山永慶寺と改名したのであるが、『甲斐国志』すら「寺山号ヲ改ムルノ故ヲ知ラズ、」と述べているほどで、改名の年月や理由が不明なのは惜しい限りである。

 吉保は、菩提所穏々山霊台寺を開基すると、文字通り心血を注いで「穏々山霊台寺碑」の一篇を草した。(略)

 ◆http://blogs.yahoo.co.jp/yanagisawayosiyasumukawa
 ◆http://blogs.yahoo.co.jp/yanagisawayosiyasumukawa/3001240.html

 ●http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tbtop&p=%b2%ae%c0%b8%d7%c9%d7%d2

見直される歴史認識

イメージ 1

イメージ 2

<書籍「歴史研究」>

迂闊ながら、この本の存在を知らなかった。偶然ある本屋さんで見つけて読んでみて、参考になり、また歴史界の動向も理解できる書である。

 さてこの「歴史研究」(紹介写真)やその他の記事の中に、武田信玄や山本勘助にについての興味深い記述がある。

 安易に観光と結んだ山梨県の歴史家や関係機関にも一考を要する問題も含まれている。
中にはご苦労のことに、某歴史大家が創作した「勘助の北杜・韮崎伝承」の地を訪れて研究史された記述もあり、胸打たれた。

 在りもしない歴史を、伝説や伝承それに依怙地ともとれる思い込みで著した本や、それを後押しして便乗する多くの著作物の汚染がここまで波及するのである。

 NHKも視聴料金収集アップのために、観光誘導のテレビ大型ドラマをつくり、その主人公をその手立てに使うのは見苦しい。

 何もないところに寄って集って創作歴史を作り上げる。懸念すべき歴史家も大挙してこうした行為に上乗りする。

 さて話は戻して、山本勘助を貪った諸氏や観光行政は、紹介の「歴史研究」を熟読することをお勧めする。

 歴史は何人も創作してならない。史実の積み重ねが史実を構成することを、この本は示唆している。

http://blogs.yahoo.co.jp/denntukujp
 

さらに資料収集
武川長介を探る武川衆について
 さて『飛騨屋久兵衛』の初祖武川長助の出自が甲斐源氏武川衆であると系図を掲げてある。ここでその武川衆について調べた事柄を記載する。結果から言えば、資料からは残念ながら武川長助は武川衆並びに武川姓との関係が希薄であると考えられる。武川衆の多くは武田終焉を迎える中で、いち早く徳川家康の甲斐制定に力を捧げ、その後も武蔵国(現埼玉)鉢形などへ移り活躍し、その中からかの有名な柳沢吉保や曲渕氏・山高氏などの武将を輩出している。武川地域は非常に広範囲で現在の北杜市・韮崎市それに甲斐市、中巨摩郡の一部を包含している。その為戦国時代やそれ以前の甲斐源氏の活動場所と古来より名馬を多出し、その後の「武田騎馬軍団」の主流となる。
永享五年(1433)四月二十九日 甲斐荒川合戦 戦死者(『一蓮寺過去帳』)
立阿弥陀仏   永享 五年 四月二十九日  柳沢  1433
受阿弥陀仏                 山寺
声阿弥陀仏                 牧原
重阿弥陀仏   永享 五年 十月二十四日  山高
『一蓮寺過去帳』(甲府市大田町)武川衆関係記載
成仏      文安 元年十一月  朔日  白州     1444
覚阿弥陀仏   宝徳 二年 五月  一日  山高     1450
老阿弥陀仏   長禄 元年十二月二十八日  白洲蔵人   1457
小河原合戦討死
臨阿弥陀仏   長禄 三年         白洲     1459
与阿弥陀仏   長禄 四年十二月二十七日  馬場三州   1460
唯阿弥陀仏   寛正 二年         白州     1461
也阿弥陀仏   寛正 三年         白須     1462
善阿弥陀仏   文政〜応仁         米倉     1466〜68
弥阿弥陀仏    々            馬場       々
浄阿弥陀仏   文明元〜四年        馬場民部   1469〜72
師阿弥陀仏    々            白砂       々
来阿弥陀仏    々            馬場中書     々
金阿弥陀仏    々            馬場小太郎    々
光一坊     文明 九年 十月 十八日  山高御子逆修 1477
臨阿弥陀仏   延徳 二年 九月 十八日  山高殿    1490
西一坊     延徳年間          山高     1489〜91   
妙欽禅尼    明応 四年 七月  一日  曲渕母儀逆修 1495
合一坊     文亀 四年 四月 十六日  山高房    1504
永安正光禅定門 天文 十年         青木     1541
依竹宗賢禅定門 慶長 十年 七月二十七日  入戸野善兵衛 1605
  
 筆註‥
   徳川家康は武田旧臣八九五人を遠江国秋葉神社社前に集め、起請文を提出させた。
   武川衆は早くから家康の臣下となっていたので、この起請文には含まれていない。
  武川衆下之郷記省文 武川衆…『武川村誌』「資料編」第一章 中世
  永禄十年(1567) 八月七日  上田市生島足島神社蔵文書
   (ウハ書)  八月七日  馬場小太郎信盈 (花押)
   青木与兵衛尉信秀(花押)
青木    山寺源三昌吉  (花押)
  上 山寺  六河衆    宮脇清三種友  (花押)
柳沢
   横手監物滿俊  (花押)
   青木兵部少輔重満(花押)
   柳沢壱岐守信勝 (花押)
   六郎次郎(武田信豊)
   天正十年(1582)武川衆への家康感状(『武川村誌』)
  七月十五日   米倉忠継  折井次昌
  八月十六日   青木信時  柳沢信俊
    十七日   折井次昌  名執清三
  九月 一日   山本忠房
 …   七日   折井次忠  小沢善大夫 米倉信継  米倉豊継
          米倉定継  青木信時 柳沢信俊  横手源七郎
          曲渕正吉
     九日   名執清三
     十日   山本忠房
   天正十年(1582)家康発給、
  『武川次衆定置注文』(『武川村誌』)
 曽雌藤助  米倉加左衛門尉  入戸野又兵衛  秋山但馬守   秋山内匠助
 秋山織部佑  秋山宮内助   功刀弥右衛門尉 戸島藤七郎   小沢善大夫
 小沢甚五兵衛  小沢縫右衛門尉  小沢與左衛門尉 金丸善右衛門尉 金丸新三
 伊藤新五  海瀬覚兵衛   樋口佐大夫   若尾杢左衛門尉 山本内蔵助
 石原善九郎  志村惣兵衛  山主民部丞 名執刑部右衛門尉  塩屋作右衛門尉 青木勘次郎   
   武川衆二十四士重恩之惣目録
 武川衆…『武川村誌』「資料編」第一章 中世
天正十八年(1590)正月二十七日
 馬場勘五郎  曲渕玄長  青木尾張  青木弥三左衛門 横田源七郎  米倉左大夫  米倉彦次郎  米倉加左衛門  米倉彦大夫  曲渕庄左衛門  曲渕助之丞  折井九郎次郎  青木弥七郎  伊藤新五郎  青木勘四郎  曽雌民部助  入戸野又兵衛  柳沢兵部少  山高将監  米倉六郎右衛門 山寺甚左衛門  折井市左衛門  米倉主計助  馬場小太郎
   武川衆の采地(『武川村誌』)
 武蔵鉢形領(大里) 埼玉県寄居町・小川町
山高信直  青木信時 折井次昌  米倉忠継 米倉豊継  米倉満継
山寺信昌  馬場信成 知見寺盛之 入戸野門宗 曲渕正吉  曽雌定政
柳沢信俊(この人が柳沢吉保のお祖父さん)
   相模足柄郡
曲渕吉景  米倉信継 下総匝瑳郡 折井次吉
   慶長 九年(1604)武川衆御重恩の覚え(『柳沢氏の研究』)
• 百二十石  柳沢兵部丞信俊
• 百十八石八斗 伊藤三右衛門尉重次
• 八十石  曲渕勝左衛門尉正吉
• 五十六石四斗弐升 曽根孫作
• 八十六石   曽雌民部定政
• 六十石  折井九郎三郎次吉
• 九十石  折井長治郎次正
• 百十石  曽雌新蔵定清
• 五十石  有泉忠蔵政信
• 七十五石 山高宮内少輔信直
• 八十石  青木与兵衛尉信安
• 二十石  青木清左衛門尉信政
•  百石  馬場右衛門尉信光
• 二百石  折井市左衛門次忠
   慶長十二年(1607)甲府城番武川十二騎(『武川村誌』)
 山高孫兵衛親重   馬場民部信成  青木与兵衛信安  米倉丹後守信継
 知見寺越前守盛之  折井仁左衛門次吉  入戸野又兵衛門光 山寺甚左衛門信光
 柳沢三左衛門    曲渕筑後守吉清  小尾彦左衛門重正 跡部十郎左衛門胤信
 さてここまで「武川衆」を調べてみたが、残念ながら「武川姓」は見つけ出せない。武川長助が生まれたのは『飛騨久兵衛』によれば、永禄三年(1660)頃とされているがかの有名な川中島の戦いの前年であり、その六年には恵林寺領検地帳が作成されている。 武川の地名はその頃は存在していなかった。前掲の中で武川の諸将は、山高・柳沢・馬場などで、その他宮脇や小沢それに牧原姓なども武川の出である。地名が武将の苗字となる例が多いことから見ても「武川衆」から「武川」の姓が生まれることは考えにくい。前述したように恵林寺に隣接する牧丘町の武川地から出た「武川」「竹川」から出た人が因縁深い僧侶とともに飛騨周辺に行き、その後初代「武川長助」となったとする方が自然と思われる。
  追加資料
   天正十年(1582)八月一日 甲信諸士起請文
   後典厩衆
 竹川與十郎 竹川新兵衛
   山縣三郎兵衛尉昌景衆
 武川市兵衛
   甘利左衛門尉衆
 竹川監物
   享保十三年(1728)甲府勤番士 百俵三人扶持
 竹川甚助
   牧丘町誌(山梨市と合併)
  第二章 古代と中世
 竹川氏 清和源氏義光流・武田支流の出自。『甲斐国志』に竹川但馬守、牧平を領し、積翠寺要害城に通ずる間道の要衛守衛に当たる。とある。いま恵林寺古墓碑銘により但馬守、諱を秀経、没年天正十年三月三日、法名雄光院殿真覚静本居士とする。その子信経は徳川家康に仕え、以後子孫幕臣になる。
 また『甲斐国志』に竹川監物のことがあるが、この信経より、経秀、信成、秀成に至る四代いすれも監物を称する。
 『天王壬午起請文』に甘利衆竹川監物とあるのは、信経、また甲府町奉行をつとめる監物は信成、(教安寺鐘銘は秀勝)とみられる。本町竹川氏は初代監物の二男の系統で、右衛門−権左衛門−彦七と続き、また代々紋右衛門(甲斐国志では門右衛門)を称する。なお但馬の子で天正三年の長篠合戦での戦死者があったが、六郎兵衛とあるのみで不明。
(資料集収集中、続編あり)

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.

過去の記事一覧

山梨の歴史資料(北杜市)
山梨の歴史資料(北杜市)
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事