|
さらに資料収集
武川長介を探る武川衆について
さて『飛騨屋久兵衛』の初祖武川長助の出自が甲斐源氏武川衆であると系図を掲げてある。ここでその武川衆について調べた事柄を記載する。結果から言えば、資料からは残念ながら武川長助は武川衆並びに武川姓との関係が希薄であると考えられる。武川衆の多くは武田終焉を迎える中で、いち早く徳川家康の甲斐制定に力を捧げ、その後も武蔵国(現埼玉)鉢形などへ移り活躍し、その中からかの有名な柳沢吉保や曲渕氏・山高氏などの武将を輩出している。武川地域は非常に広範囲で現在の北杜市・韮崎市それに甲斐市、中巨摩郡の一部を包含している。その為戦国時代やそれ以前の甲斐源氏の活動場所と古来より名馬を多出し、その後の「武田騎馬軍団」の主流となる。
永享五年(1433)四月二十九日 甲斐荒川合戦 戦死者(『一蓮寺過去帳』)
立阿弥陀仏 永享 五年 四月二十九日 柳沢 1433
受阿弥陀仏 山寺
声阿弥陀仏 牧原
重阿弥陀仏 永享 五年 十月二十四日 山高
『一蓮寺過去帳』(甲府市大田町)武川衆関係記載
成仏 文安 元年十一月 朔日 白州 1444
覚阿弥陀仏 宝徳 二年 五月 一日 山高 1450
老阿弥陀仏 長禄 元年十二月二十八日 白洲蔵人 1457
小河原合戦討死
臨阿弥陀仏 長禄 三年 白洲 1459
与阿弥陀仏 長禄 四年十二月二十七日 馬場三州 1460
唯阿弥陀仏 寛正 二年 白州 1461
也阿弥陀仏 寛正 三年 白須 1462
善阿弥陀仏 文政〜応仁 米倉 1466〜68
弥阿弥陀仏 々 馬場 々
浄阿弥陀仏 文明元〜四年 馬場民部 1469〜72
師阿弥陀仏 々 白砂 々
来阿弥陀仏 々 馬場中書 々
金阿弥陀仏 々 馬場小太郎 々
光一坊 文明 九年 十月 十八日 山高御子逆修 1477
臨阿弥陀仏 延徳 二年 九月 十八日 山高殿 1490
西一坊 延徳年間 山高 1489〜91
妙欽禅尼 明応 四年 七月 一日 曲渕母儀逆修 1495
合一坊 文亀 四年 四月 十六日 山高房 1504
永安正光禅定門 天文 十年 青木 1541
依竹宗賢禅定門 慶長 十年 七月二十七日 入戸野善兵衛 1605
筆註‥
徳川家康は武田旧臣八九五人を遠江国秋葉神社社前に集め、起請文を提出させた。
武川衆は早くから家康の臣下となっていたので、この起請文には含まれていない。
武川衆下之郷記省文 武川衆…『武川村誌』「資料編」第一章 中世
永禄十年(1567) 八月七日 上田市生島足島神社蔵文書
(ウハ書) 八月七日 馬場小太郎信盈 (花押)
青木与兵衛尉信秀(花押)
青木 山寺源三昌吉 (花押)
上 山寺 六河衆 宮脇清三種友 (花押)
柳沢
横手監物滿俊 (花押)
青木兵部少輔重満(花押)
柳沢壱岐守信勝 (花押)
六郎次郎(武田信豊)
天正十年(1582)武川衆への家康感状(『武川村誌』)
七月十五日 米倉忠継 折井次昌
八月十六日 青木信時 柳沢信俊
十七日 折井次昌 名執清三
九月 一日 山本忠房
… 七日 折井次忠 小沢善大夫 米倉信継 米倉豊継
米倉定継 青木信時 柳沢信俊 横手源七郎
曲渕正吉
九日 名執清三
十日 山本忠房
天正十年(1582)家康発給、
『武川次衆定置注文』(『武川村誌』)
曽雌藤助 米倉加左衛門尉 入戸野又兵衛 秋山但馬守 秋山内匠助
秋山織部佑 秋山宮内助 功刀弥右衛門尉 戸島藤七郎 小沢善大夫
小沢甚五兵衛 小沢縫右衛門尉 小沢與左衛門尉 金丸善右衛門尉 金丸新三
伊藤新五 海瀬覚兵衛 樋口佐大夫 若尾杢左衛門尉 山本内蔵助
石原善九郎 志村惣兵衛 山主民部丞 名執刑部右衛門尉 塩屋作右衛門尉 青木勘次郎
武川衆二十四士重恩之惣目録
武川衆…『武川村誌』「資料編」第一章 中世
天正十八年(1590)正月二十七日
馬場勘五郎 曲渕玄長 青木尾張 青木弥三左衛門 横田源七郎 米倉左大夫 米倉彦次郎 米倉加左衛門 米倉彦大夫 曲渕庄左衛門 曲渕助之丞 折井九郎次郎 青木弥七郎 伊藤新五郎 青木勘四郎 曽雌民部助 入戸野又兵衛 柳沢兵部少 山高将監 米倉六郎右衛門 山寺甚左衛門 折井市左衛門 米倉主計助 馬場小太郎
武川衆の采地(『武川村誌』)
武蔵鉢形領(大里) 埼玉県寄居町・小川町
山高信直 青木信時 折井次昌 米倉忠継 米倉豊継 米倉満継
山寺信昌 馬場信成 知見寺盛之 入戸野門宗 曲渕正吉 曽雌定政
柳沢信俊(この人が柳沢吉保のお祖父さん)
相模足柄郡
曲渕吉景 米倉信継 下総匝瑳郡 折井次吉
慶長 九年(1604)武川衆御重恩の覚え(『柳沢氏の研究』)
• 百二十石 柳沢兵部丞信俊
• 百十八石八斗 伊藤三右衛門尉重次
• 八十石 曲渕勝左衛門尉正吉
• 五十六石四斗弐升 曽根孫作
• 八十六石 曽雌民部定政
• 六十石 折井九郎三郎次吉
• 九十石 折井長治郎次正
• 百十石 曽雌新蔵定清
• 五十石 有泉忠蔵政信
• 七十五石 山高宮内少輔信直
• 八十石 青木与兵衛尉信安
• 二十石 青木清左衛門尉信政
• 百石 馬場右衛門尉信光
• 二百石 折井市左衛門次忠
慶長十二年(1607)甲府城番武川十二騎(『武川村誌』)
山高孫兵衛親重 馬場民部信成 青木与兵衛信安 米倉丹後守信継
知見寺越前守盛之 折井仁左衛門次吉 入戸野又兵衛門光 山寺甚左衛門信光
柳沢三左衛門 曲渕筑後守吉清 小尾彦左衛門重正 跡部十郎左衛門胤信
さてここまで「武川衆」を調べてみたが、残念ながら「武川姓」は見つけ出せない。武川長助が生まれたのは『飛騨久兵衛』によれば、永禄三年(1660)頃とされているがかの有名な川中島の戦いの前年であり、その六年には恵林寺領検地帳が作成されている。 武川の地名はその頃は存在していなかった。前掲の中で武川の諸将は、山高・柳沢・馬場などで、その他宮脇や小沢それに牧原姓なども武川の出である。地名が武将の苗字となる例が多いことから見ても「武川衆」から「武川」の姓が生まれることは考えにくい。前述したように恵林寺に隣接する牧丘町の武川地から出た「武川」「竹川」から出た人が因縁深い僧侶とともに飛騨周辺に行き、その後初代「武川長助」となったとする方が自然と思われる。
追加資料
天正十年(1582)八月一日 甲信諸士起請文
後典厩衆
竹川與十郎 竹川新兵衛
山縣三郎兵衛尉昌景衆
武川市兵衛
甘利左衛門尉衆
竹川監物
享保十三年(1728)甲府勤番士 百俵三人扶持
竹川甚助
牧丘町誌(山梨市と合併)
第二章 古代と中世
竹川氏 清和源氏義光流・武田支流の出自。『甲斐国志』に竹川但馬守、牧平を領し、積翠寺要害城に通ずる間道の要衛守衛に当たる。とある。いま恵林寺古墓碑銘により但馬守、諱を秀経、没年天正十年三月三日、法名雄光院殿真覚静本居士とする。その子信経は徳川家康に仕え、以後子孫幕臣になる。
また『甲斐国志』に竹川監物のことがあるが、この信経より、経秀、信成、秀成に至る四代いすれも監物を称する。
『天王壬午起請文』に甘利衆竹川監物とあるのは、信経、また甲府町奉行をつとめる監物は信成、(教安寺鐘銘は秀勝)とみられる。本町竹川氏は初代監物の二男の系統で、右衛門−権左衛門−彦七と続き、また代々紋右衛門(甲斐国志では門右衛門)を称する。なお但馬の子で天正三年の長篠合戦での戦死者があったが、六郎兵衛とあるのみで不明。
(資料集収集中、続編あり)
|