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「風林火山」について
 私は昭和二十五年二月に「闘牛」という作品で芥川賞を受け、翌二十六年五月に、それまで勤めていた毎日新聞社を退き、以後小説家として立っております。芥川賞を受けた二十五年から二十八、九年までの四、五年が、私の生涯で一番たくさん仕事を発表した時期であります。
 私はその頃、いわゆる純文学作品なるものも、中間小説も、娯楽小説も、さして区別することなしに書いていました。娯楽雑誌には娯楽小説を、文学雑誌には文学作品をと、需めに応じて小説を書いていたようなところがあります。折角、芥川賞作家として出発したのだから、純文学一本にしぼって仕事をして行くべきだと言ってくれる人もありましたが、しかし、中間小説は中間小説として、読物は読物として書いていて面白く、純文学の仕事とはまた異った魅力がありました。そういう点、私は余り窮屈には考えていませんでした。仕事への没入の仕方も同じであり、読物は読物で夢中になって取組んだものです。 長篇時代小説だけ拾っても、この時期に「戦国無頼」、「風と薯と砦」、「戦国城砦群」、「風林火山」などを書いております。今考えてみると、さして無理をしないでも、次から次へと作品最近この時期の作品を読み返す機会を持ちましたが、面白いことには概して読物雑誌や中間雑誌に発表したものの方が生き生きとしていて、作品として纏まっているものが多く、肩を張って書いた文学雑誌掲載作晶の方に失敗作が多いようです。三十年ほど経ってみると、文学作品にも、読物にもさして区別は感じられません。慌しく締切に迫られて書いたものでも生命あるものは生きており、正面から取組んで推敲に推敲を加えたものでも、生命ないものは、正直なものでむざんな屍を曝して横たわっていると思いました。
 ただ現在の私は、読物の形で小説を善くより、読者へのサービスをぬきにした形で小説を書く方に気持が向かっています。これは言うまでもなく年齢のためであって、私が老いたということでありましょうか。そういう意味では「戦国無頼」や「風林火山」などは、私の若かった日の作品であり、もう再び書くことのない、あるいは書くことのできない作品と言えましょう。読み返してみると、そうした眩しさを感じます。
 「風林火山」は二十八年から二十九年にかけて「小説新潮」に発表した作品で、いま読み返してみると、読者を楽しませると言うより、書いている作者自身がまず楽しんでいる作品と言えるかと思います。歴史を舞台にして、登場人物たちを物語の中に投げ込んで、それぞれの人生行路を歩ませています。主人公山本勘助に関する伝承や記述(「武田三代記」)はありますが果して山本勘助なる人物が実在したかどうかとなると、甚だ怪しいとしなければなりません。おそらく山本勘助という名を持った人物は武田の家臣の中にあったかもしれませんが、その性格や特異な風貌は「武田三代記」の作者の創作ではないかと、一般に見られています。
 私はその伝承の山本勘助を借りて、それを生きた歴史の中に投げ入れて、彼を自由に歩かせてみました。すると、彼をめぐって、到るところで歴史はざわざわと波立って来ました。その波立ちを一つ一つ拾って書いたのが、「風林火山」ということになろうかと思います。 昭和六十一年七月三日
「戦国城砦群」作者のことば
 私は戦国時代の地図を見るのが好きです。全国の、凡そ要害と呼び得る要害には必ず城が築かれるか、砦が設けられてありました。幾十幾百とも知れぬ城と砦の群れ! そしてその城砦の一つ一つには、悲惨と残虐、夢と野心と冒険1−そんな、いいものも悪いものもいっぱい詰まっていたわけです。私はこの時代をせいいっぱい生きた一人の若い武士を描いてみたいと思います。彼の持った烈しい性格は、彼に幾つかの城砦を経廻らせ、彼を幾つかの合戦に登場させます。作者は、いま、この戦国の若者に、いかなる場合も、怯者でないことを希うのみです。                     (昭和二十八年九月)
「風林火山」の劇化
 こんど私の小説「風林火山」が新国劇で劇化されることになった。小説「風林火山」は一種の騎士道物語であり、戦国女性の持つ運命の哀歓を主題にしたものである。しかし、これをいろいろの約束を持つ芝居の形にうつすことは、正直に言って、まず望めないのではないかと思っている。私は平生、小説は小説、映画は映画、演劇は演劇と考えている。殊に小説と演劇との関係は複雑である。こんどの新国劇の「風林火山」も恐らく私の小説とはかなり昇ったものになるであろうし・またなって当然である。
 原作者として、私は私の作品をどのようにでも料理して下さいと脚色者池波正太郎氏にお任せした。私は、小説「風林火山」がいかに新国劇調ゆたかな名演し物として、あざやかに変貌するかに寧ろ期待している。                   (昭和三十二年十月)
「風林火山」は書いていて楽しかった。作家にとって、小説を書くことは、大抵苦しい作業であり、私も亦、自作のどれを取り上げても、それを書いている時の苦しさだけが思い出されて来るが、「風林火山」の場合は少し違っている。楽しい思い出だけが蘇って来る。勘助、由布姫が自分から勝手に動いてくれて、うっかりすると筆が走り過ぎ、書き過ぎた箇処をあとから削るようなことが多かった。そのくらいだから、私自身、勘助も由布姫も信玄も好きである。取材のために何回か甲斐から信州へ旅行をした。勘助が馬を駈けさせたところは、どこへでも行った。自動車をとばしたり、自分の足で歩いたりした。このように、作者の私にとってこの作品が楽しかったのは、山本勘助が実在の人物ではなかったためであろうと思う。と言って、全く架空な人物かと言うと、そうとも言えない。たれでも山本勘助という名を知っているように伝承の中に生きていた人物である。実在の人物ではないが、人々の心の中に生きている人物である。
「風林火山」は前に新国劇で上演されているので、舞台にのるのは今度で二度目である。その意味では幸運な作品である。新派の方達の演ずる「風林火山」がどのようなものになるか、それを見るのが楽しみである。                  (昭和三十八年九月)
「風林火山」の映画化
私の作品の中で1風林火山」ほど映画化の申込みを受けたものはない。併し、何回映画化の話はあっても、そのいずれもが何となく立ち消えになる運命を持った。それがこんど稲垣さんと三船さんの手で、本当に映画化されるという幸運に見舞われた。しかも堂々と正面から組んだ本格的な映画化である・1風林火山」は今日まで待った甲斐があって、漸くにしてゆたかな大きな春に廻り会えたのである。
 稲垣さんと三船さんには以前1戦国無頼」を映画にして戴いたことがある。私の作品の最初の映画化であった。それから十何年経っている・最近稲垣さんと三船さんにお目にかかって感慨深いものがあった。1風林火山」は長い間稲垣さんと三船さんが手を差し出してくるのを待っていたのだと思った。それに違いないのである。                   (昭和四十四年二月)
「風林火山」と新国劇

「風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です。発表当時、多少の反響はありましたが、現在のように.風林火山″という四字は一般的なものではぁりませんでした。時代というものは面白いもので、いかなる風の吹き回しか一昨年あたりから、「風林火山」という作品が再び多勢の人に読まれ始め、テレビに劇化されたり、映画化されたりする機運にめぐりあいました。作者の私も驚いていますが、一番驚いたのは主人公山本勘助であろうと思います。彼の作戦家としての慧眼を以てしても、自分がいまになって脚光を浴びようと予想はできなかったことであろうと思います。次に驚いたのは劇団「新国劇」の首脳部の方々ではなかろうかと思います。新国劇によって「風林火山」が最初に拾い上げられたのは昭和三十二年のことですから、十二年ほど前のことです。脚色、演出の池波正太郎氏も、島田、辰巳両氏も、「風林火山」の名が今日一般化したことで、すっかり驚いておられるのではないかと思います。
 併し、作者の私は多少異った考え方を持っています。風林火山」の名が多勢の人に知られるようになったそもそものきっせて下さったためであります。十二年前上演していただいたお蔭で、「風林火山」は今日のように有名になることができたとお礼を申し上げたい気特です。 こんどその新国劇の「風林火山」が再び舞台にのることになりました。作者としては懐かしさでいっぱいです。(昭和四十四年九月)

風林火山と井上靖

井上靖と風林火山

 余りにも寂しい。現在NHKで放映されている「風林火山」の原作者は井上靖である。そして彼の生誕100年を記念して、採り上げたと聞き及んでいた。しかしその周辺は主人公の山本勘助や、大型観光の展開で明け暮れ、肝心の井上靖について触れたり、紹介してものが少ない。井上文学を紐解いてみるのもいい機会だと思われるのに、残念でならない。勘助が一人歩きを始めた。何処へ行くのであろうか。

井上靖が甲斐を訪れた時の文章を紹介したい。
   「井上靖全集より」

早春の甲斐・信濃
 東京に初めて早春らしい陽の射した日、『周と雲と砦』の舞台である甲斐信濃地方に出掛けた。
 甲府に下車し、現在は武田神社の社域になっている武田信玄の居館の跡をみる。ここはいまは甲府市に編入され、古府中町となっているが、併し、市の中心地帯からは半里程隔たっている。信玄が城を築かなかったことは有名な話である。軍鑑に「信玄公御一代甲州四郡の内に城郭をかまへず、堀一重の御館に御座候」とある。信玄の居館跡は、なるほど城とは呼べないこぢんまりした地域でその四周の埠と、更にそれをめぐる内濠だけが残っている。樫、樺の老木が多い。当時の住居の正門は、現在の神社の正門とは違って東方の門がそれである。外濠の周囲には勿論近年植えたものだが、桜樹が多く、四月はさぞ見事であろうと思われる。

 信玄はここに住み、一朝有事の際のために、半里程北方の丘陵に山城を作っている。これも軍産に、「居館より二十町ばかりの地に、石水寺の要害とて山城あり、−塀もかけず候へ共先づ本城の様なるもの也」とある。さして大きい山ではないが、急峻な山である。この山には十二の段階ができて居り、各々百坪位の広さを持ち、現在、所々に石畳が残っている。国志には「本丸の長三治七間、広拾九間二ノ丸、三ノ丸と言ふあり」とあるから、城の樟構だけは備えていたらしい。山頂には井戸があり、馬場の跡も見られる。
 甲府を出て列車で一時間程行くと、韮崎に新府城の址がある。車窓から、信玄の死後勝頼が築いた城址が見える。ここは見るからに要害堅固な山であり、その城址のある山の向うに、雪を戴いた大きい山脈がのしかかるように見えている。武田勝頼は天正九年この城を築いて間もなく翌十年織田軍に攻められ、この城にも拠れなくなり、所謂天目山の悲劇へと逆おとしに突入している。

 併し『風と雲と砦』は、信玄の穀後から長篠の合戦までの三年間に物語を想定している。従って小説の世界では、まだ新府の城が出来ていない頃である。
 現在、小説の中では、俵三蔵がひめ及びその配下と共に天竜川を遡っている。三蔵は天竜川の源まで、遡って行く考えらしい二二蔵は天竜川の流れが、甲斐へ入るか、信濃へ入るか、あるいは三河の方へ折れ曲っているか知らないので、ただやたらに流れに沿って上って行きつつあるが、勿論作者はその水が信濃の諏訪湖から流れ出していることを知っている。尤も天竜川の源は大昔は甲斐に発していたらしいが、戦国時代には今と同じように既に諏訪湖から流れ出していた。その天竜川の流出ロを見たいので、諏訪湖の周囲を自動車で一巡する。湖は、例年より少し早く氷が解けたと言うことで、周囲五里の湖面のどこも氷結していない。水ぬるむと言った色ではなく、まだ黒っぼい冬の水の色ではあるが、どこかに氷の解けた許りの吻とした表情を持っている。岸辺にわかさぎを釣る人の姿が見える。

 天竜川の流出口のある地点は、丁度上諏訪の対岸に当るところで現在は勿論自然に流れ出すことを許さず、水門が造られてあり、釜石水門管理所が、その流出量を調節している。この管理所に於けるただ一人の所員は、午前八時と午後四時の二回、諏訪湖の水位を調べ、水門の鉄の門扉に依って流出量を加減する仕事を受け持っている。訊いてみると、現在の水位は標高(海抜)七五九メートル前後とのこと。その管理所の小さい事務所の窓から見ると、対岸に雪を戴いた八ヶ岳の連峰が見える。
 伊那電鉄で、天竜川に沿って下る。天竜峡までは川に沿っていないが、そこから中部天竜駅までの二時間程は、曲りくねった天竜川の流れが電車の窓から見降ろせる。風景はまさに絶佳である。その間川の両岸は切り立った絶壁をなし、その中腹のところどころに、十軒二十軒の小さい家が危っかしく建てられている。
 伊那の渓谷は、その山の色も、天竜の青黒い流れも、まだ深々と冬の中に睡り込んでいる感じだが、点々と見える梅の白い花だけが、僅かに早春を告げている。 戦国の頃、甲斐から東海地方に出るには、富士川に沿って下るか、でなければ、信濃へ出て、この天竜の渓谷を下ったわけである。野田城の攻撃中、病を発した信玄が、西上の企画を変更し、甲斐に軍を返したのも今頃である。伊那渓谷に点々と嘆いている梅の花は、雄図を翻した武人の眼に、どのように映っていたことであろうか。 (昭和二十八年三月)

私の夢

 風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です・第一回の原稿を渡した時、担当記者のM君が1風林火山」という題名に首をひねりました。いかなることを意味しているか、よく解らないので、小説の題名としては損ではないかということでした。そう言われると、作者の私も自信はありませんでした。しかし、他に適当な題も思いつかないままに二日ほど考えてみようということになりました。
 結局のところ、1風林火山」で押し切ることになりました。風林火山」が新国劇によって最初に上演されたのは、昭和三十二年のことでした。それまで1風林火山」という題名は多少わちつ奮落着がない印象を人に与えていたのではないかと思いますが、これが舞台に取り上げられたことで、すっかり安定したものになり、堂々と世間に通るようになったかと思います。この最初の上演からいつか今日までに十七年の歳月が経過しています。作者の私も十七の年齢を加え、新国劇も亦、劇団として十七の年齢を加えたわけであります。その間に「風林火山」は何回か上演され、その度に、より完全なものとして好評名漬しものの一つになったことは・原作者として何より嬉しいことであります。お陰で風林火山」もすっかり有名になり、その題名に首をひねるような人はなくなってしまいました。こんど何回目かの上演を前にして、それこれ思い合せると、まことに感慨深いものがあります。
風林火山」の主人公は武田信玄の軍師山本勘助であります。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかほ甚だ怪しいとされていますが、そうしたことは作者にとってはどうでもいいことであります・その存在に対してさえも甚だ韓晦的である一人の軍師に、私は自分の青春の夢を託しています。勘助は短躯で,指は欠け、眼はすがめで、頗る異相の人物であります。私はこうした山本勘助に生命をかけて高貴なものへ奉仕する精神を注入してみたかったのです。夢と言えば、信玄も作者の夢であり、由布姫も作者の夢であり・作中人物のすべてが作者の夢と言えましょう。それぞれに、まだ若かった私の夢がはいっています。(昭和四十九年五月)

川中島五度合戦(7)

 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。
 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。

武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。

 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても
勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。

 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。
 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。
 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、
いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。

 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。
 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。
 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。
 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上で大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信の家来で長谷川与五左衛門基連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、彦六と馬を乗りちがえ、むずと組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫んだ。越後方は思わず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あの小男にたやすく組み取られたことは味方の不運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。
 このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あとで浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。
  慶長十年三月十三日
上杉内
 清野 助次郎
 井上 隼人正
『河中島五箇度合戦記』
 右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。
  寛文九年五月七日
                                     うたのかみ
 右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。

川中島五度合戦(6)

 永禄二年 (一五五九) 四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。
 永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。
 永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。
 同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。
 八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめて、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち受けて一人残らずみな討ち取った。越後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。

 翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めかけた。武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。謙信の旗本が紺地に日の丸、それに 「毘」 の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押しかけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武道第一の武田侍であるから、弓を射、鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数えきれない。信玄は犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くして退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに目がけて攻めかかって来た。越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅れ、敗軍となった。越後勢の戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自身で手を下して戦った。後には波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返した。この時、繁長自身は太刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。

 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかりである。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼き払った。そのあと、謙信は善光寺に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留して越後に帰陣した。
 はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。

川中島五度合戦((5)

弘治二年八月二十三日、謙信は川中島に出て、先年の陣所より進んで川を越えて、鶴翼に陣を張った。両度の陣と同じ陣形である。村上義清、高梨政頼を中心として、丸い月の形に十二行の陣立てである。信玄は二万五千の兵で出陣した。
 今度の越後の陣取りは、長期戦とみえて、薪を山のように積んでおいたと、甲州の見張りの者が報告するのを、聞いて信玄は、「一日二日の間に、越後の陣に夜中に火事があるだろう。その時、一人でも進んで出て行く者があったら、その子孫までも罰するだろう」 と下知した。
 すると、二十三日の晩方、越後の陣所より荷物を積んだ馬や、荷を持った人夫が出て、諸軍旗を立てて陣を解き、引き上げるようにみえた。甲州方の軍兵が、謙信が引き上げるのを逃さず追い討ちにしようとした。信玄は一の木戸の高みに上ってその様子をながめて、「謙信ほどの大将が、日暮れになって陣を払って退くようなことがあるはずがない。これを追ってゆけば必ず失敗である。一人も出てはならぬ」 と止められた。思ったとおり、その夜二時ごろ、越後の陣から火事があり、たいへんな騒ぎとなった。だが、信玄が厳しく命令して一人も出なかった。間もなく夜が明けて、越後の陣地を見渡すと、通り道をあけて、きちんと武装した武士が、槍、長刀を持って、六千ばかりが二行に進んで、敵が近寄るのを待ち受けていた。朝霧が晴れるにしたがって見わたすと、二行になった備えの左側の先手は長尾政貴、右側は宇佐美駿河守走行、松本大学、中条越前を頭として十備え、杉原壱岐守、山本寺伊予守、鬼小島弥太郎、安田伯者守などを頭として十二備えが続いている。
 中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。甲州勢はこれを見て、ここに攻め込めば一人として生きては帰れまい。この備えのあることを見破った信玄の智は計り知れない、ただ名将というだけでなく、鬼神の生まれ代わりともいうべきものだと、みな感じ入ったという。
 その翌日、信玄は戦いの手立てを考えて言った。「夜中に甲州方一万の人数を山の木の陰にひそかに隠し、馬をつないである綱を切り越後の陣に放してやる、そして馬を追って人を出す。敵陣から足軽がこの放した馬に目をつけて必ず出て来るだろう。その時、足軽を討ち取るように見せかけて、侍百騎を出して越後の足軽を追いたてれば、謙信は、気性の強い武士であるから、百騎の勢を全滅しようと出て来るだろう。その時、足並みを乱して敗軍のようにして谷に引き入れ、後陣を突ききり、高いところから、矢先をそろえ、鉄砲を並べて、「目の下の敵を撃て」 と命じた。
 そこで、馬二、三頭の綱を切って越後の陣に追い放し、足軽五、六十人が出て、あちこちと馬を追い、かけ声をかけたが、越後の陣では、これを笑って取り合わず、一人も出なかった。
 信玄はこれを見て、「謙信は名将である。このはかりごとに乗らない武士である」と言い「しかし、大河を越えて陣を張るのは不思議である。信州の中に謙信に内通している者がいるようだ。大事にならぬうちに引き上げることにしよう」 と内談して、信玄は夜中に陣を引き払い、上田が原まで引き上げた。謙信は総軍で信玄と一戦、朝六時ごろから、午後二時すぎまでに五度の合戦があり、初めは武田が負け退いたが、新手が駆けつけて激しく戦い、越後勢は押したてられた。長尾越前守政景、斎藤下野守朝信などが盛り返し、下平弥七郎、大橋弥次郎、宮島三河守などが槍を振るって、武田勢を突き崩した。また、上杉方の雨雲治部左衛門が横合いに突きかかり、道筋を突き崩した。宇佐美駿河守走行は手勢で、山の方から信玄の陣に切ってかかったため、甲州方はついに敗北した。翌日信玄は引き上げ、謙信も戻った。この戦いで、甲州方千十三人の死者、越後方八百九十七人の戦死者であった。

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